夏の思い出

羽無シ飛行

あれは暑い夏の夜

「人を殺しちゃった。どうしよう」


 そんなことを彼女が口にしたのは星の綺麗な夜のこと。

 私は少し目を見張り、思わず「えっ?」と蚊の鳴くような声を出した。

 私の住むアパートの一室の玄関口。そこに佇む彼女は真っ青な顔をしていた。

 そんな彼女の突然の来訪に驚いている暇もなく、告げられた告白。


 私は意味も理解できないまま、硬直していた。

 彼女は続ける。


「耐えられなかったの。彼、毎日毎日私を殴るから。今日もそうだった」

「だから死んでしまえと思ったの。もういっそ目の前から永遠に消えてくれたらって。そしたら私は救われるのにって」

「だから、だから、だから私……。私ね、あの人がね、ベランダでね、タバコ吸ってたから。その背中を……」


 錯乱して早口な彼女の話を私は黙って聞いていた。

 落ち着かせようと背中を撫でると、その肩がガタガタと寒そうに震えていた。

 8月の、夏真っ盛りの、熱帯夜。

 寒さに震えることなんて、あるはずがないのに。


「だから、だから、私……私……」

「そっか、辛かったね。辛かったね」

「もう、ここにはいられないの」


 涙を目にいっぱいためて、彼女は私を見つめた。

 部屋の明かりでキラキラと光るその黒い瞳は、夜空を瞬く星のようでとても美しい。

 私はなるべくゆっくりと、落ち着いた風に彼女に問いかけた。


「どうして?」

「だって、殺しちゃったから。殺したのに、許されるはずないでしょ?」


 彼女の声は上ずっていた。

 当たり前だ。人を殺したんだから。罪は贖わなければならない。

 被害者は暴力男の彼。罪人はそれに日々耐えてきた彼女の方。

 ああ、なんて皮肉。


「どっかで死ぬことにした、誰もいないところ。静かなところ」

「うん」

「そこなら、私を責める人なんていないでしょ? だから」


 逃げるのだ。彼女は泣きながら笑った。

 痩せこけた白い頰を伝う雫が、私の胸を締め付けた。


「あなたには、最後に会いたかった。言っておきたかったの。私が死ぬこと、私が殺したこと」

「……」

「ずっと一緒だったね、私たち。昔からあなただけは私の味方でいてくれたよね、私のこと置いてかないでくれた。……ありがとう、ありがとう」


 それだけ伝えたかったのだと、彼女は言った。

 お互い様だと私が唇を尖らせると、彼女は私を抱き寄せる。

 柔らかな抱擁。対照的に冷たい温度。

 私はそれに耐えられなかった。


「どこに行くの?」

「どこでもいい。……でも綺麗なところがいいなあ、海が見えて、夜景も見えて、でも誰もいないの」

「そう」

「そこで、死ぬんだ。……私死ぬのよ、眠るみたいに。それ、でね、し、んで、わたしっ、死んで、楽になるのよ」


 もう殴られない。もう苦しくない。それがどれほど嬉しいことか。

 彼女は悲痛の表情でそれらを語った。


 彼女が悪いはずなんてない。

 彼女が償う罪なんてない。

 あの男は死んで当然だった。

 なのに、なのに、なぜ彼女だけがこんなにも苦しそうなのだろう。


「私も行くよ」

「え……」


 自然と、そう言葉に出ていた。


「私も行く。いいところ知ってるんだ、海と夜景が見えて、綺麗なところ」

「でも……」

「そこで一緒に死のうよ、ね?」

「あなたは何の罪もないのに?」


 か細い吐息のような声が耳元で私に問う。

 私は彼女を抱く腕に力を込めた。


「私はいいの」

「……」

「ずっと一緒だったでしょう? なら、一人で死ぬなんて……寂しいこと言わないでよ」


 しばらく戸惑っていた彼女だったが、次第に心を決めたのか、私の体に縋って泣いた。

 何度も何度も頷きながら、謝罪する彼女。


 このか弱い姿のどこに罪があると言うのか。


 人を殺すような人間なんて、どこにだっているじゃないか。

 死なさずに殺す奴ならこの世の中、溢れかえるほどだ。

 そんなの狂ってる。

 こんなに脆弱な彼女がそれらと同じように罰せられるなんて、おかしい。


 だって彼女はこんなにも……。


 きみは何も悪くない。

 私は彼女に囁いた。


 聞こえているのかいないのか、涙でぐしゃぐしゃに濡れた私のTシャツに顔を押しつけながら、彼女は嗚咽を漏らしつづける。


 きみは何も悪くない。

 もう一度言って、私は彼女を抱きしめたまま、立ち上がる。


 肺を押しつぶすくらい息を吐いた。

 吐き終えて、前を向いた時にはもう迷いはなかった。



「はやくしないと、朝が来ちゃうよ」



 私が彼女の手を引くと、彼女は悲しそうな顔を浮かべながらそれに従う。

 ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら、暗闇の中へ。

 最期の夏の夜。私たちは今、歩き出した。

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夏の思い出 羽無シ飛行 @sinizokonai

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