グラトニイ
藤光
グラトニイ
悠介がその話を最初に聞いたのは夏休み直前のことだった。教えてくれたのはクラスメイトの太一君だ。
「なんでも食べてしまう動物がいるって知ってる?」
休み時間に校庭でドッジボールをしようと教室を出たところだった。
「悠介、行くよ」
男勝りの奈々が、ボールを手にクラスメイトの先頭を駆けてゆく。先に来いっててと声を張り上げると、太一君に促されるまま、廊下の突き当たり理科準備室の前まで連れていかれた。
太一君は、奈々とは正反対に大人しい男の子だ。お父さんの仕事の関係で転校が多く、去年の秋にやってきたばかりの太一君には友達も少ない。クラスメイトの中にはあからさまに無視するなど、いじめているやつもいるようだ。そんな太一君の、悠介は数少ない友達だ。
それにしてもなんでも食べる動物って、そんな奇妙な話があるだろうか。
「なんだい、それ」
短い休み時間は、できるだけ長く校庭でドッジボールをしていたいので、悠介の気をは焦っていた。ドッジボールで遊ぶメンバーは、みんなチャイムが鳴ると一斉に教室を飛び出していったのだ。
「なんだって食べてしまうんだ」
「それがどうしたっていうんだよ」
いかにも秘密めかした様子で同じことを繰り返す太一君に悠介はイライラし始めていた。教室の窓からは、校庭のざわめきが風に乗って運ばれてくる。こうしてる間にも休み時間は刻一刻と短くなっていくんだ。
「うんちをするんだよ」
「はあ?」
なんともとりとめのない話だ。どんな動物だって食べればうんちをするだろう。どうやら焦っているのは悠介だけではなくて、太一君もそうらしい。
「落ち着けよ、太一君。なんでも食べる動物がなんだって?」
「ご、ごめん」
二人揃って何度か深呼吸すると、悠介は太一君の話を聞き始めた。ああ、ドッジボールが……。
「お父さんがうわさを聞いてきたんだ。『なんでも食べてしまう動物がいるらしい』って」
太一君のお父さんは、市内の銀行に勤める営業マンで顔が広い。街のうわさはほとんど耳に入るんだとか。
「そんなの聞いたことない」
「ホントだよ。それに――捕まえたんだ」
「なんだって?」
「お父さんが捕まえたんだよ」
太一君のお父さんは、その話を耳にした週末、早速うわさの真偽を確かめようと、聞き込んできた場所へ出かけていった。そして、隣町との境を流れる川の堤防でそいつを捕まえることができたという。
「まさか。どんな動物なんだ?」
「子犬くらいの大きさかな。でもイヌっていうよりブタって感じの顔してる」
子ブタ。でいいのではないだろうか。
「色は尻尾の先まで黄色いんだ」
黄色い子ブタか。いまひとつぴんと来ないが、あまり凶暴ではなさそうだ。現に太一君のお父さんが捕まえたのだから、人の手に負えないようなものではないのだろう。
「で、なんでも食べるって?」
「うん。それですごいうんちをするんだ」
なぜ、うんちなのだろう。しかもそれがすごいのか? なんでも食べるというのが本当なら、すごい量のうんちを出すことも頷けるが、それって人目につかないところで声を潜めるような大切なことなのだろうか。
「うんちの話はよさないか」
「どうして。すごいんだぜ」
「そんなに出すのかい」
太一君はきょとんとした顔をし、ついで、さも可笑しそうに笑い始めた。大声で笑いたいのに、人に聞き付けられないよう我慢しなきゃならない。辛そうな笑いになった。
「……ごめん、ごめん」
身をよじるようにして笑っている太一君の目には涙が。いったいなんなんだ。
「すごいのは量じゃないんだよ」
息を整えながら、憮然とした表情の悠介に謝ると太一君は説明を始めた。
「うんちの成分なんだ。金のうんちをするんだ」
「キン? 金メダルの金かい」
そんな馬鹿なと思って聞き返したが、太一君は真剣な顔で頷いた。
「――み、見せてくれよ」
「だめなんだよ。パクトプリナのことはだれにも言っちゃいけないって、お父さんが」
パクトプリナというのか、その動物の名前は。
太一君のお父さんは、太一君や太一君のお姉さん、お母さんにこのことは絶対に秘密だと言い渡したらしい。昨日一日はそのことを黙っていることができた太一君だが、秘密を一人で抱えていることが辛くてたまらなかったという。
「だから、このことは二人だけの秘密だよ」
太一君は、ひとり秘密を抱え込む苦しみから解放された安堵感と、新たな秘密を背負った緊張感がないまぜになった、なんとも微妙な表情で悠介の手を握ってきた。そのとき授業開始を知らせるチャイムがなったのだが、上の空で聞いていた悠介たちは次の授業に遅刻してしまったのだった。
太一君の話が本当なら大変なことだ。
数時間後――。悠介は下校しながら考えていた。隣を歩く幼馴染の奈々が、道みちクラスのうわさ話をああだこうだと話して聞かせるのも上の空だった。
なにしろ「金のうんち」をするんだ。しかもなんでも食べるのだという。食事の残り物でも与えておけば、次から次へと「金を生む」この夢のような動物を手に入れられれば、それだけでお金持ちとなれるに違いない。太一君のお父さんが秘密にしようとするのも頷ける。
しかし本当のことだろうか。本当なら悠介もその動物を手に入れたいと思う。
「……なんて言うんだけど、そんなことありえないと思わない?」
「え」
やばい。奈々の話なんかまるで聞いてなかった。
「全然聞いてないのな。なんかあったの、悠介?」
「ぼうっとしててごめん。なんでもない、ホントなんでもないよ」
ふうんといって引き下がったものの、不審そうな表情だ。奈々に気づかれるわけにはいかない。
「ちゃんと聞いててよね」
気を取り直したのか奈々は、元のとおりクラスのうわさ話をはじめて止まらない。悠介は慎重に相づちを打ちながらも、頭の中では別のことを考えていた。
――うちにはお父さんがいない。
悠介が小学校に上がる前、お母さんが離婚してしまったからだ。それ以来、悠介はお母さんとふたりで暮らしている。お母さんは毎日夜遅くまで働いているが、いつも「お金がない」と腹を立てては、悠介に当たり散らしている。
不機嫌なお母さんを見るのはいやだったし、「疲れたから」といってときどき食事を抜かれたり、洗濯されないままの服を着て学校に行かなければならないことも恥ずかしいと思っていた。
「ぼくのうちにお金さえあれば」と何度思ったかしれない。お金があれば、お母さんは毎日遅くまで働かなくて済むからだ。炊事や洗濯の時間も取れて、優しいお母さんに戻ってくれるはずだった。
パクトプリナを探しに行こう。少なくとも本当にそんなものがいるのかどうか自分で確かめないと、もし本当だったときに、悠介はものすごく後悔するだろう。
――ふたりだけの秘密だよ。
太一君の言葉が脳内でリフレインされて気持ちが萎えかけたけれど、寒々とした我が家の空気を思い出して悠介は気持ちを奮い立たせた。
「ぼくには、どうしても必要なんだ」
「え、なに」
考えていたことが思わず口から滑り出てしまった。まずいまずい。悠介はあわてて学期末に家へ持ち帰る教材を教室に忘れたんだとごまかした。そうだ、そういうことにしよう。
「取ってくるよ。ごめん、先に帰ってて」
「えっ、ちょっと……」
引き留めようとする奈々を振り切るようにして、悠介はいま来た道を戻っていった。
「なんなんだよ、もう!」
もちろん、行き先は学校ではない。しばらく走って振り返り、奈々の姿が見えなくなったのを確かめると、悠介はランドセルを背負ったまま、太一君のお父さんがパクトプリナを捕まえたという川の堤防へと方向転換した。
川の堤防へ向かうと、なんだかいつもと様子が違った。やけに人が多いような気がする。皆、なにやら緊張感を漂わせた面持ちで決まった方向に視線を向けている。いま悠介が目指している堤防の方角だ。嫌な胸騒ぎを感じながら、先へと進むと、やがて前方からガヤガヤと大人たちのいい交わす声が聞こえてきた。
「なんだ、堤防が封鎖されてるって?」
「散歩に行けないな」
「警察だよ」
「いや、自衛隊もきてるようだ」
住宅街の外れにある堤防沿いの道路は、黄色い立入禁止テープが張られていて、その前に人だかりがしている。
「いったいなんで堤防なんかを封鎖したりするんだ?」
「なんでもサーカスから猛獣が逃げたらしい」
「ライオンか?」
堤防に至る道は、警察によって封鎖されていた。ここだけではない。あたり一帯が「逃げた猛獣を捜索するため」に立入禁止区域に設定されているようだった。
サーカスから猛獣が逃げ出すなんてことが、たまたまこの街で起こるなんてことがあるだろうか。近所でサーカスの公演があるなんて聞いたこともない。
――パクトプリナだ。
警察や自衛隊が探しているのは、猛獣なんかじゃなくて、パクトプリナに違いない。なんでも食べるうえに、金を生むという噂を聞きつけて、ことの真偽を確かめようとしているんだ。
迷彩服姿の自衛隊員が何人も堤防に上って、草むらを長い杖のようなもので検索している様子は、なんともものものしい。このままでは、捕まえることはおろか、堤防に近づくことさえできない。そのうち堤防にいるパクトプリナはすべて警察と自衛隊に回収されてしまうだろう。
「そんなことさせない」
悠介はその場を回れ右すると、堤防への抜け道へと急いだ。
その時の悠介はどうかしていたのだと思う。警察や自衛隊の人が大勢いて、いつもなら、怖いとか、やめておこうとか考えたはずだ。第一、大人たちが噂し合っていたように、猛獣が逃げ出したのが本当だったらどれほどか危ないことだろう。それに太一君が嘘を付いている可能性だってあったのだ。
ともあれ、悠介はしばらく走って堤防沿いの今は操業していない金属加工工場の敷地に忍び込んだ。ここには太一君やほかの同級生たちと建設中の秘密基地がある。秘密基地というからには、大人たちには内緒だ。先生はもちろんのこと、両親や兄弟にも話してはいない。ここのフェンスが一部破れていて堤防の草むらに通じていることは、悠介と仲間たちしか知らないことだ。いくら警察だって、ここの抜け道は知らないだろう。
フェンスをくぐって堤防に出ると、背の高い草でいっぱいだった。遠くでがさがさと人が草を踏み分けて進む音がするが、見通しはまったく効かない。好都合だ。付近を検索している自衛隊員からも悠介は見えないということだ。
「よし、探すぞ」
自分に言い聞かせるように、そう呟くと悠介は草の海に飛び込んでいった。
太陽はまだ空高くにあって堤防の草むらは、むっとする熱気にむせかえるようだった。するどい刃のような草の葉が腕や足に細かな切り傷をつけて悠介の体力を奪っていく。教科書の詰まったランドセルがずっしりと肩に重く感じられた。
歩いても歩いてもパクトプリナは見つけられない。そのかわりに出会うのは、堤防に投げ捨てられたゴミの袋と、バッタやカマキリといった虫ばかり。本当にここでいいのだろうか。別のところを探した方がいいのではないかと、悠介が考え始めたその時だった。
がさっ。
音がした方向を見ると、草むらの向こうになにかがいた。悠介でも抱き上げることができるほどの、小さな何かだ。動いている。
がさっ。
黄色っぽい、茶色だろうか。
悠介はどきどきしてきた。体を硬直させてそのものの気配を窺う。地面の匂いを嗅ぐ仕草をして、逃げる様子はない。そうっと近づくとようやくはっきり見えてきた。体全体を細かな毛が覆っている黄色い子犬、いや、子ブタみたいだった。
――いた。
その動物――パクトプリナは、手の届く距離まで近づいても、一切逃げ出す様子はなかった。一心に地面の匂いを嗅いでいる。それは悠介が息を詰めて伸ばした手の中に、大人しく、すっと収まった。
「やった」
抱いている手を通して鼓動が伝わってきた。ふわふわしていて柔らかい。
がささっ。
草のこすれあう音がした。もう一匹いるのだろうかと見ると、草むらのなかから、ぬっと大きな影が現れた。
「なにをしてる」
迷彩服に長い杖のようなものを手にした自衛隊員だった。
――みつかった。
一瞬、隠れようか、逃げようかと思ったが、相手は大人だ。すぐに追いつかれて捕まってしまうだろう。一人ならまだしも、手にパクトプリナを抱えているのだ。悠介はその場に立ちすくんだ。
「きみ。どうやってここに入った。抱いているものはなんだ」
「あ、あの……」
喉が張り付いたように声が出ない。するどい目つきで自衛隊員に睨まれると、体の力が抜けていく。
「こちらに渡しなさい」
有無を言わせない厳しい口調だった。悠介が動けないでいるため、一歩二歩と自衛隊員の方から近づいてくる。
――取り上げられる。
なんでも食べてしまうパクトプリナ。一旦は手に入れた金を生む動物。悠介のみじめな生活を変えてくれるかもしれない、夢のような存在がいま取り上げられようとしている。
「いやだよ――」
「なに」
渡したくはなかった。取り上げられるなんてごめんだ。これは悠介の希望なのだ。
「これは僕のものだ!」
思い切って、大きな声を上げると魔法が解けたかのように体が動き出した。だっと元来た方角へ駆けだす。逃げないと。捕まってたまるか。
草むらの中を、右へ左へと走る。しばらくは追いかけてくる様子だった自衛隊員の姿はすぐに見えなくなった。こちらは子供だ、一旦視界から消えると体の大きな大人よりずっと草に隠れて見えにくいはずだ。でも見つけられたら、追いつかれてしまう。悠介は走り続けて、金属加工工場を目指した。
どれくらい走っただろうか。工場の薄汚れたスレート葺きの屋根が見えてきたところで、悠介は足を緩めて、耳をすませた。だれも追ってくる気配はない。どうやら振り切ったようだ。
深い息をついて、そっとしゃがみこむと、改めて腕の中の『彼』を見てみる。呼吸するたびに細かく波打つ、淡く黄色い毛並みがきれい。子ブタのような体型だが、とても美しい子ブタだ。
――あ。
悠介は息を呑んだ。目がない。ブタというよりはウサギのような口と鼻の上、本来なら目がある場所はつるりとして何もない。
特別な力を持つものは、その力と同じく特別な姿をしている――。悠介がこの動物をパクトプリナだと確信した瞬間だった。
工場のフェンス沿いにしばらく歩くと、悠介が入ってきたフェンスの裂け目が見えてきた。ここを出たら、できるだけ見つからないように、家へ戻ろう。腕に抱いているととても目立つので、パクトプリナはランドセルに隠した方がいいかもしれない。教科書はどうしよう……。
考えながらフェンスの裂け目を通って、工場の敷地に足を踏み入れたそのとき、突然、悠介の目の前に男の人が現れて立ちふさがった。
「それをこちらへ渡しなさい」
迷彩服に迷彩ヘルメット、手に捜索用の杖を持っている。さっき草むらで鉢合わせた自衛隊員に違だった。一旦は小学生に出し抜かれた自衛隊員の目はするどく、口元はきつく結ばれていた。
「危険な生き物なんだ!」
ふたたびフェンスをくぐって逃げようかと思ったが、迷っているうちに悠介は肩を掴まれてしまった。
「いやだ」
力強い手だった。ぐっと力を込められるとお腹の底がきゅうっとなる。しかし、今度は逃げられない。いやだ、怖い。どこかへ行け、いなくなれ――!
日に焼けた自衛隊員のもう片方の手がパクトプリナの顔に伸びた。悠介から取り上げようというのだ。掴まれると思った瞬間。
――きゅう。
鳴いたのかと思う間もなく、ずるんと目の前の自衛隊員がパクトプリナの小さな口の中に飲み込まれていった。まさにずるんとそばかうどんでも啜り込むように、人間が飲み込まれてしまったのだ。
時間から取り残されたかのように、呆気にとられた悠介だけがフェンス脇に残された。その足元でパクトプリナが何事もなかったかのように、地面に鼻をこすりつけている。夏の日差しがようやく傾き始めた午後のことだった。
その自衛隊員は、金のうんちとなった。
そうに違いない。あれは食事だ。なんでも食べるというのは本当だった。パクトプリナは人間だって食べてしまうんだ。
あのあと悠介の頭の中は、とんでもないことになったという思いがぐるぐる回っていた。人がひとりいなくなってしまった、なんでも食べてしまうという動物に食べられてしまった。食べたのはパクトプリナだが、それは自衛隊員が悠介から取り上げようとしたからだ。悠介が捕まえたりしなければ、ここにいさえしなければ、こんなことは起こらなかったかもしれない。
どうしよう。自衛隊員は大勢いた。見つかれば何が起こったのか、訊かれるに決まっているが、どうして信じてもらえるだろう。それに悠介は怖かった。
パクトプリナは、悠介が自衛隊員のことを「いなくなれ」と考えたことに対して「きゅう」と応えたのではないだろうか。悠介の思いに反応したパクトプリナが自衛隊員を食べたのではないかと。そして、それは確実なことと悠介には感じられた。恐ろしいことだった。
とにかく、なにかすがりつくものが欲しかった。だから、その場でパクトプリナをランドセルの中に隠すと、悠介はすぐに家へ戻った。お母さんに洗いざらい話してすっきりしたかった。自分ひとりでは抱えきれないと思った。
でも、そうするべきではなかった。周囲のだれかに、自衛隊員でも警察官でもいい、パクトプリナのことを承知しているであろう、だれかに助けを求めるべきだったんだ。後になって、何度このときの自分の軽はずみを後悔したかしれない。でも、そのときの悠介には、家に帰る以外の考えは思い浮かばなかった。
その日の夜遅く、いつもならとっくに眠り込んでいる悠介が起きて自分を待っていたことにお母さんは驚いていた。そして、憔悴しきった悠介が、吐き出すようにして話して聞かせる今日の出来事にさらに驚いていた。でも、自衛隊員がパクトプリナに食べられてしまったことを聞かされても、ちょっと眉をひそめただけで、そのことには何も言わず、その動物を見せてくれといっただけだった。その時になって初めて、悠介は胸がざわつくのを感じた。
「すごいじゃない」
鼻先に差し出した割り箸や爪楊枝を、するりと飲み込む様子を見たお母さんは、無邪気に歓声を上げた。それとは逆に悠介はだんだんと気分が塞いでいった。
――お母さんには見せるべきじゃなかったのかもしれない。
「ほんとになんでも食べるのかな」
なんでも食べるわけではない。家にひとりでいる間に、薄気味悪い思いをしながらも悠介は色々と試していた。
パクトプリナには目がない。何かを探して食べることはしない。鼻先に差し出されたものしか食べないんだ。それも差し出した当人が「不必要だ」と考えているものしか食べることはない。金属加工工場から隠して運んだランドセルや、仮の住処として入れている段ボール箱など、「なくなったら困るもの」はいくら鼻先にあっても決して食べたりはしない。逆に、不要でありさえすれば、体の何倍もの大きさがある壊れた椅子や、ゴミ箱もつるりと飲み込んでしまう。
「ふうん。で、金を生むの?」
金は生む。でも、それはほんのわずかだった。お母さんが帰ってくるまでの間に、手のひらにほんのひとつまみほど、砂つぶのような金を排泄していた。そう、太一君が言うようにそれは金のうんちだった。
「すごいすごい」
それでもお母さんは、その金の砂つぶを見て目を輝かせた。あの自衛隊員の変わり果てた姿かもしれないのに。悠介は暗澹とした気分にとらわれ、もうそのことを考えるのはやめようと思った。お母さんは、そんなことは気にしていない。ぼくだけが気にしていても仕方ないんだ――。
翌日、その金のつぶを買取店に持ち込み、五千円で買い取ってもらえたときの、お母さんの喜びようときたら奇妙なダンスを踊る醜いブタのようだった。その後に起こったことは、どうひいき目に見ても欲得にまみれた愚行でしかなかった。
家中のごみ箱を集めるように悠介に言い、さして広くないマンションに三つしかそれがないと知ると、ベランダの生ゴミバケツまで、持ってくるように命じた。もちろん、ごみをパクトプリナに食べさせるためだ。
「そら食べな」
その時の熱に浮かされたような、お母さんの表情を忘れることはないだろう。見開いた目は黄色い光を湛え、赤みを帯びた頬にはうっすらと汗が浮いていた。
パクトプリナは、当然そうあるべきだと言わんばかりに、与えられたごみをすべてつるりと呑み込んだ。そして、わずかな金を排泄した。お母さんが喜んだことは言うまでもない。本物だ。金を生む動物だと実際にリビングで踊り出したくらいだ。
それからはもう大変だった。お母さんは必死なってタンスやクローゼットを引っ掻き回して、もう着なくなった服やスカート、使わなくなった食器や小物を取り出してはパクトプリナに与えるようになった。与えられれば与えられただけパクトプリナはそれを呑み込んで金を排泄する。それを買取店に持ち込むと、純金として五千円、ときには一万円で売れる。たちまち、悠介の家の中からは、ごみや不用品がなくなってしまった。
小学校は夏休みに入っていた。ある朝、目を覚ました悠介がリビングに入ると、鼻が曲がりそうな匂いに満ちた部屋は、ごみ袋でいっぱいになっていた。驚いてお母さんを呼ぶと、山積みになったごみ袋の向こうから声がした。すぐになくなるからと。パクトプリナに食べさせるため、お母さんがどこからか持ち込んだごみ袋だった。青いのや黒いのや「◯◯市指定」と書かれた半透明の袋まである。見境なしだ。半透明のごみ袋なかには、うっすらと血のついた牛肉のトレーやら、水の滴っている麦茶のパック、くしゃくしゃに丸めた下着なんかが透けて見えて悲しい気分になった。お母さんが、これらのごみ袋をどんなところから、どうやって運び込んだのか考えると、恥ずかしさに頬が痺れるほど顔が冷たくなった。
にゅっと手が伸びてそのひとつをつかむと、お母さんがパクトプリナの鼻先に差し出す。
「きゅう」
目のない顔に鼻を蠢かせたパクトプリナは、ずずっずずっと、大きなごみ袋をすすり込むように吞み下した。それを見守るお母さんの顔の満足そうなこと。悠介が吐き気を覚えたのは、部屋に充満した匂いのせいだけではない。
そして、お母さんは仕事やめた。それは確かに悠介が望んでいたことのはずだったけれど、実際にお母さんが仕事をやめて家にいると息が詰まるようだった。お母さんは、悠介が想像していたように優しくはならなかったし、掃除や料理をしてくれるわけでもなかった。パクトプリナが金を生んでくれるようになっても、変わらず、いつも腹を立てていて、悠介に当たり散らした。
ただ、外面だけは気にしているようで、悠介はお風呂に入れるようになったし、新しい服も買ってもらえた。スーパーの冷たいお弁当だけれど、毎食ご飯も食べられるようになったので、少し太った。そして、お母さんは前より少しだけきれいになった。
夏休みにはときどき登校日というのがあって、友達と久しぶりに会うのがうれしかったり恥ずかしかったりするのだけれど、八月最初の月曜日が悠介の通う小学校の登校日だった。
「おっす」
曲がりくねったアスファルトの通学路を学校へ辿る悠介の肩を叩いたのは、奈々だ。鮮やかに白い入道雲が、青い空に立ち上がろうとする朝、額にはもう汗が滲み出していた。
「おっす」
「久しぶりだね、元気だった?」
ソフトボールのチームに入っている奈々は、休み中も練習や試合があるのだろう、よく日に焼けている。それに引き換え、家にこもりきりの悠介は、夏だというのに青白い顔をしていた。
「病気も怪我もしてないから、元気だと思う」
「ほんとに元気なら、そんな言い方はしない」
からからと大きな口を開けて笑った。本当に奈々は元気そうだ。悠介もあんな風に笑いたい。そうしたら口からなにか黒い塊でも飛び出すかもしれない。
「太った?」
最近はきちんとご飯を食べている。パクトプリナのおかげだ。一学期までは垢じみていた服もさっぱりとしている。でも、いまそのことは考えたくもない。
「なんだか、悠介じゃないみたいだけど――。いいんじゃない、それも」
なにを誤解してか、にこにこと奈々は上機嫌だ。悠介のうちでなにが起こっているか知ってもこんな笑顔でいられるだろうか。いやいや、そんなことを考えるのはよそう。友達が喜んでくれているなら、悠介も喜んでいればいい。
でも、そんなふうに考えることができたのも、朝のホームルームが始まるまでのことだった。担任が、夏休み中、伏原太一君は転校になりましたとさらりと話し出したからだ。太一君が転校? 斜め前に座る奈々が頭だけ振り返って「知ってたの」という顔をしてみせた。知っていたわけがない。
太一君にあったのは、二週間前のあの日が最後だったけれど、転校するだなんてことは一言もいっていなかった。また、会えるのだとばかり思っていた。パクトプリナのことがあったので、次会った時はなんて話をしたらいいのだろうかと、何度も頭の中でシミュレーションしていたくらいだ。
お父さんの仕事の都合で、急に引っ越さなくてはならなくなった。夏休みに入っているため、クラスのみんなにきちんとお別れを言えなくて残念だ――というような太一君の手紙を担任が読んでくれていたけれど、悠介の耳にはほとんど入らなかった。
どうして言ってくれなかったんだろう。
悠介は、太一君の一番の友達だったと思っていた。だからこそ、あのことだって話してくれたのに違いない。パクトプリナ――。まさかあれが何か関係しているのだろうか。
短いホームルームの後、太一君の転校を話題にする子はいなかった。家族と旅行に出かけた話とか、カブトムシを捕まえに山へ出かけたこととかを楽しそうにいい交わしているのを聞いていると、まるでそんなクラスメイトはいなかったかのように感じられて、悠介は息がつまるような感覚に襲われた。みんなにとって太一君のことなどどうでもいいことなんだ。
廊下に出て、担任を追いかけると太一君のことを尋ねてみた。どうして急に転校することになったのか。
「お父さんの仕事の都合でね。急なことだったんだ」
でもそれは、担任が読んでくれた太一君の手紙にもあったことだ。
「どこへ引っ越して行ったんですか」
「……」
「なにかあったんじゃ――」
「なにもないよ」
口ごもる担任に食い下がると、頭ごなしに遮られた。悠介が気にするようなことはなにもないと。
「いつ、引っ越したんですか」
でも、担任の答えはなかった。もう話したくないようだった、聞かれたくもないようだった。足早に去っていくと廊下に悠介だけが残された。夏の廊下は蒸す。粘つく汗がじっとりと首筋に絡みついていた。
下校の時刻になった。用もないトイレを覗いてみたり、空っぽにしたはずの机を探ってみたり、要は、だれもいなくなるまで時間潰しをしてから学校を出たのだけれど、校門を出ると奈々がいた。いまは顔を合わせたくないのに。
「なにしてた」
「別に」
すいと避けるようにして帰り道を急ごうとしたけれど――。
「なにがあった」
「なにも」
「なにもってことないだろ」
ぴたりと付いて歩き出す。仕方ない。
「夏休み前。理科準備室の廊下で太一君と話してたよね」
「そうだけど」
そのことは聞かれたくないんだって。
「悠介、なにか知ってんじゃないの。太一君が引っ越したこと」
「知らないよ。ぼくも、今日初めて知ったんだから」
並んで歩きながらも、悠介は奈々と全然目を合わそうとしない。奈々は聡い女の子だ。目を覗き込まれると、お腹の底まで見透かされてしまいそうな。
そんな悠介の態度にカチンときたのだろう。ぐいと奈々に手を掴まれた。力は奈々の方が強い。ぐるりと体が回って二人は向かい合う形になった。
「だったら、なんでこそこそするのよ」
「こそこそなんて……」
していないと続けようとしたのだけれど、真正面に現れた奈々の表情に言葉を飲み込んだ。
「変だよ、今日の悠介。なんかあったの?」
なんで、奈々がそんな不安そうな顔をするんだ。心配そうな声を出すんだよ。もう遅すぎるのに。
「いなくなったりしないよね。悠介は、太一君みたいに、いなくなったりしないよね」
もっと早く気づくことができたならよかったのに。奈々にならお腹に抱える黒い塊を吐き出すことができたかもしれない。
マンションのドアを開けるとすえた匂いが鼻をついて悠介は鼻をしかめた。家にいると気づかないが、室内は相当に臭い。ドアを閉め、両手に持ってきたレジ袋を足元に置くと、リビングに入った。フローリングの床は黒く粘ついて靴下にまとわりつき、ひたひたと湿った音を立てる。もうここにごみ袋はひとつもないけれど、カーテンの引かれた薄暗い部屋には何匹も小さな羽虫が舞っていた。
「ただいま」
がらんとしたリビングにそう言い置いて自分の部屋に入り、小さく息を吐く。この部屋の床は粘つかない。
「とってきた?」
自分の部屋から現れたお母さんがおかえりとも言わずにきいた。悠介が近所のコンビニから持ってきたレジ袋のことだ。中身はもちろん、ごみ。
「玄関においた」
お母さんは無言のまま姿を消した。玄関の方から、がさがさとごみ袋を開ける気配がする。心に膜を張らないと聞いていられない音だ。
夜、お母さんがあちらこちらのごみ集積場からごみ袋を集めてくることは、十日もしないうちにマンション住民の知るところとなった。
――困るんですよね。よそのおうちのごみを漁るようなことをされちゃあ。
マンションの管理人さんが困り果てたような顔つきでやってきていった。
――しかも、毎晩。マンションの外からもっていうじゃないですか。この階は匂うって苦情もきてますし、皆さん迷惑されてます。
もう二度とごみを集めるようなことはしないでくださいよと、何度も念を押して管理人さんは帰っていった。
昨日のことだ。悠介は、その話をとても恥ずかしい思いをしながら聞いていたけれど、同時にほっと体の力が抜けていくのを感じた。マンションの管理組合に知られてしまったのでは、お母さんもごみ袋を集めるなん浅ましいことはやめるだろうと考えたからだ。
でも、お母さんにそんな考えはなかった。悠介にコンビニへ行って、こっそりごみ箱からごみを取ってくるように言いつけたのだ。
「レジ袋ならごみが入っていても、ごみには見えないし、コンビニだってごみが減るならうれしいでしょ」
そして悠介には、マンションの非常階段を使って五階まで上ってくるようにと命じた。エントランスやエレベーターには、防犯カメラが設置されていて、総合管理室に記録されてしまうからだ。
でも、そんなことまでして運び込めるごみはわずかな量だ。パクトプリナに食べさせるものがなくて、いらいらしている様子が違う部屋にいても感じ取れる。悠介の部屋にいても、時折、お母さんが舌打ちする音が聞こえる。これまでにお母さんが手に入れた金は、金額にするとかなりのもののはずだった。これ以上、何を望むというのだろう。
お母さんは、家中の物入れから不要なものを探し出しては、パクトプリナに与え始めた。古新聞はいい。使わなくなったパソコンも。でも、買い置きトイレットペーパーや今は着ない冬物のコートまで食べさせ始めたときには、悠介もお母さんに声をかけた。
「だめだよ、それは。これから使うものじゃないか」
でも、お母さんは、あとでもっといいものをたくさん買えるんだからいいんだよと取り合ってくれない。それどころか、不要なごみを食べさせたときと比べて、たくさん金を生むと喜んだくらいだ。何かがずれはじめていた。
そして。それははじまった。やがて、お母さんが手にする金は目に見えて増え始めた。不要なもののなくなった家には、お母さんと悠介にとって必要なもの、大切なものばかりとなっていたのだけれど、お母さんはパクトプリナにその大切のものを与えるようになった。
家族の思い出が詰まったアルバムと、離婚した後もお母さんが大切にしていた婚約指輪が、まずなくなった。そして、買ってもらったばかりの自転車、お母さんのブランドバッグとなくなっていき、リビングのテレビや冷蔵庫の中の牛乳パック、米びつの米まで消えはじめると、悠介は怖くなってきた。
「やめようよ。お母さん」
明日の朝食となるはずだった食パンを食べさせようとしていたお母さんの目は虚ろで、顔は青白く見えた。
「みて。悠介」
お母さんの手には、パクトプリナが排泄した金の砂つぶがあった。きらきら、さらさら。指の間からこぼれ落ちて、フローリングの床に金の小山を作っている。いったい換金するといくらになるのだろう。
「大切なものを食べさせるとね、たくさんの金を生むよ」
大切なものほど――たくさんの金になる。それは重要で必要なものほど、多くの金に変わるということだ。パクトプリナは、人の生活そのものを換金する能力を持っているということだ。
ほどなく、悠介の家からパクトプリナに食べさせる一切のものがなくなった。洗濯機も、冷蔵庫も。ドレッサーやタンス、学習机までなくなったマンションはがらんとして広くみえた。お腹が空いたのでお母さんを探すと、赤く傾いた日の光が差し込むリビングにいて、金色の小山とさし向かいに座っていた。
「お母さん?」
「あ、悠介」
その時になって気づいたのだけれど、その日のお母さんは穏やかで、一度も悠介を叱りつけなかった。
「ごめん、お腹すいたね。ごはんの用意するからね」
普段は一向に気にしない、夕飯の用意に立ち上がる。でも、このダイニングには冷蔵庫も、電子レンジも、トースターすらない。お母さんは何もないダイニングを見回して、困惑した様子だ。自分が食べさせたことを忘れてしまったんだ。そのお母さんの側頭部に黄色の毛並みを輝かせた小さな動物が吸い付くように取りついている。
「どうして?」
そうしたお母さんの記憶を食ったんだ。違うな、お母さんがその記憶をパクトプリナに与えたんだ。さらさらさらさらと金色のつぶがフローリングの床に落ちて跳ねる。お母さんの記憶が換金されてゆく。今日の記憶から、昨日の記憶へ。今年の記憶から、去年の記憶へ。悠介が小学校へ上がったこと、お父さんと別れたこと、悠介が生まれたこと、結婚したこと――ずっと遡って、お母さんがお母さんであった記憶も換金されてしまえば、目の前にいるこの人は誰になってしまうのだろう?
そんなことを考えたのは一瞬で、悠介はお母さんの手を引くと、パクトプリナを叩き落とした。「なんでも食べてしまう動物」は、きゅと小さな体を震わせて、リビングの隅へ逃げていった。
「なにするの!」
夢見るように穏やかだったお母さんの表情が一変した。
「やめよう」
「なにをいうの! お金になるんだよ」
そのことは忘れなかったらしい。金色の砂を一面に撒いたようになっている部屋を見まわして、悠介はお腹の底から熱い塊がせり上がってくるように感じた。
「なにもかもなくして、なにがお金だ。お金があったって、これじゃあ、ぼくは全然楽しくないよ、幸せじゃないよ!」
「わかったようなことを言うな! 世の中お金がなければなにもできないんだ。お前と二人、生きていくためのお金にどれだけ苦労したか。なにも知らない子供のくせに」
夕日に赤いお母さんの目。悠介は人からこんな眼差しで見つめられたことはなかった。強い感情の宿った目だ。憎しみがこめられた目だ。
「だめだ。もうやめないと――」
取り返しのつかないことになる。でも、もう遅かったのかもしれない。
「まだいうの!」
お母さんは、悠介を見ているようでいながら、もう悠介のことは目に入らないようだった。
「お前さえ、いなくなれば!」
「やめて! お母さん」
そうなのかもしれない。こうなってしまったお母さんに悠介は必要ないのかもしれない。でも、そんなことを言ったら、パクトプリナにそんなことを言ったら悠介はどうなってしまうのだろう。きっと食べられてしまうに違いない。それは――いやだ! そんなこと絶対に。
赤く照らされたリビングの隅へ逃げていったパクトプリナが、空中に鼻を突き上げて蠢かせている。餌の在り処を探している。
「お前など――」
――きゅう。
呪いのようなつぶやきが唐突に途切れ、悠介の目の前からお母さんの姿がかき消すようになくなった。いなくなった。
パクトプリナは、悠介の膝の間で丸くなって眠っている。お腹いっぱいになったので眠くなったのかな。今日はたくさんのものを食べた。本当にたくさんのものを。
日が落ちてすっかり暗くなったリビングは、窓の外の街灯に照らされ青白く光っている。パクトプリナの排泄した金が一面にこの部屋を覆っているほかはなにもない。すべて食べ尽くされたからだ。
悠介の前には、大人の背丈ほどもある金の山が積み上がっている。お母さんが言ったことは正しかった。
大切なものほど、たくさんの金になる。
「どうしてなんだよ。お前」
パクトプリナに話しかける。
「ぼくは、お母さんのことを食べてくれなんて、一言も言わなかったぞ。なんでだよ……」
でも、何もおかしなことはなかったのかもしれない。悠介はお金が欲しかった。お金が欲しかったのは、お母さんだけではない。もともとパクトプリナの「金のうんち」を欲しがったのは悠介だったし、捕まえてきたのも悠介だ。お母さんがごみを与えるのを止めなかったのも、大切なものを与え始めたのに止めなかったのも、悠介がもっとお金を欲しがっていたからともいえる。悠介は、そう言わなかったけれど、パクトプリナはずっと悠介の意を受けて差し出されるものを食べ、金を排泄し続けていたのかもしれない。
「だから。お母さんを食べたのか? ぼくがお母さんなんていなくなればいいと――考えてしまったから」
大切な、大切な悠介のお母さんは、抱えきれないほどの金のつぶに変わって、いま目の前で金の山になっている。その代わりに悠介の胸には大きな穴が開いてしまったかのようだ。すうすうして冷たい。取り返しのつかないことになってしまった。
「お前さえ……」
パクトプリナがいなければ。太一君から、「なんでも食べてしまう動物」の話を聞くことがなければ、こんなことになることはなかった。お母さんがいなくなってしまうこともなかった。
膝の間で眠るパクトプリナに手を置くと温かった。胸の上下に呼吸を感じる。確かにこれは動物だ。
「お前さえ、いなければ」
悠介はパクトプリナの胸と首に置いた両手にぐっと力を込めた。「なんでも換金してしまう動物」の身体がぶるぶると震え始めた。
チャイムが鳴ると子供たちは一斉に教室を飛び出した。校庭まで駆けてゆく子供たちを、セミの声がにぎやかに出迎えるのだろう。悠介もクラスメイトに続いて、廊下に出た。ドッジボールをするためには、他のクラスに先駆けて校庭のいい場所を確保しなければならない。
「悠介君」
悠介は太一君に呼び止められた。
「なに?」
こうしてる間にも、クラスのみんなは次々に廊下を校庭へ向かって走ってゆく。悠介も早く行かなくちゃと気が焦った。
「なんでも食べてしまう動物がいるって知ってる?」
なにを言い出すんだ、この忙しい時に。
「え」
「ちょっと話したいから、来てくれる?」
太一君は、どこかへ悠介を連れて行こうとする。去年の秋に転校してきたばかりの太一君には友達も少ない。クラスメイトの中にはあからさまに無視するなど、いじめているやつもいるようだ。そんな太一君の、悠介は数少ない友達だ。もしかしたら他のクラスメイトには聞かれたくない話なのかもしれない。
「悠介、いくよ」
ボールを抱えた奈々が、肩を叩いて悠介を促した。男勝りの奈々は、みんなを引き連れて走ってゆく。
「待って」
ごめんと太一君に断わり、奈々を追って駆け出す。太一君には悪いけど、みんなとドッジボールしたいという気持ちが勝ったからだ。廊下の角を曲がるときに振り返ると、教室の前でぽつんと立ち尽くす太一君が見えた。
それがとても寂しそうで、このままどこかへ行ってしまうのじゃないかと思ってしまって、悠介は駆け戻って太一君の手を取った。
「一緒に行こう」
そう言ってしまうと、なんだかすっきりした。これでよかったんだと強く感じた。なにがって――何がだろう?
グラトニイ 藤光 @gigan_280614
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