雪の日の妖精

秀田ごんぞう

雪の日の妖精


 ――妖精――。

 神話や伝説に登場する、超自然的な存在。お話によって姿は異なり、一定の決まった姿形を持たない。小人だったり、巨人だったり、髭を生やした爺さんだったり、羽の生えた子供だったり。

 概してひょうきんな性格の彼らはしばしば人間たちのもとへ遊びにやって来ては、お手伝いをしたり、いたずらをしていく。

だが、彼らの行いに気づく人間はほとんどいない。彼らの存在を心の底から信じているような人間にしか、彼らの姿は見えないからだ。

あるいはそういう人たちが、本当に純粋な人と言えるのかもしれない――。








「ねぇ。ねぇってば、聞いてるの裕!?」


 自分の名を呼ぶ怒声にようやく気付いた僕は、読みかけの文庫本をそっと脇に置いて顔をあげた。


「ん?」


「もう! 返事くらいしてよね! はい、コーヒー」


「おお、忘れてた。ありがと」


 ふふ、と笑って彼女は台所に戻っていった。

 彼女の名は、一之瀬琴葉。手入れの行き届いた黒のロング髪が特徴的。彼女は今、夕食の準備の真っ最中で、台所を慌ただしく駆け回っていた。琴葉が作る料理はお世辞を抜きにしてうまい。それはもう、本当に舌がとろけてしまいそうなうまさなのだ。とはいえ、恥ずかしいからそんなこと口に出したりはしないけど。まあ、それもそのはず。彼女はとある雑誌で行われたお弁当コンテストで優勝するほどの実力を持っているのだ。それゆえ、料理には並々ならぬこだわりがあるようで……。僕が「手伝おうか」とでも言おうものなら、すっと鋭くなった視線で、「あんた……なめてんの、あたしを」などと言ってくる。そういう時の琴葉の声は……ものすごく怖い。なんというか、言葉自体がある種の鋭さを持っていて、むき出しの刃が襲い掛かって来るみたいだ。


 そんなわけで、大人しく僕は彼女が持ってきてくれたコーヒーに口をつける。芳醇な香りが鼻の奥深くまで染み渡る。程よい熱さが、猫舌の僕にはちょうど良かった。

 一口コーヒーを味わった僕は、再び脇の文庫本を手に取る。だが、さあページをめくろうという所で、琴葉がつぶやくのが聞こえた。


「雪、ふってきた」


 窓の外を見ると、ちらちらと雪が降り始めていた。白くて綺麗だけど、触れるとあっという間に溶けてしまう、儚げな新雪。

 僕は窓の外で降る雪を見ていて、自然と意識があの日へと向かう。

 そういえば……あの日も雪が降っていたっけ。





 僕はあの日を僕は決して忘れないだろう。それは普通の人にとっては、別段何でもない、いつもと変わらない一日。だけど……僕にとっては、とってもとっても大切でかけがえのない、特別な日だった。雪が降りしきるその日、僕は不思議な雪の妖精に出会ったんだ――。




 あれは僕が大学四年の頃。就職も無事に決まって僕は卒論発表会の準備に追われていた。一方で、研究室が同じだった琴葉はもうとっくに発表の準備も済んでいたので、僕の卒論に付き合ってくれていた。もっとも、彼女は窓の向こうを寂しげに見つめるばかりだったけど。琴葉は東京の企業に就職することが決まっていたから、大学を卒業したらこの街を出て行くことになる。そのことについて、彼女なりにノスタルジーを感じているのかもしれない。そんな琴葉を見ていると、なぜか胸の中が疼く。


 僕と琴葉はいわゆる幼馴染だ。それも相当古い付き合いで、幼稚園に入る前からよく二人で遊んでいた。小学校と中学校も同じで、クラスもいつも同じだった。だけど、中学にもなると、一緒に遊んだりはしなくなった。学校で会っても、すれ違う時にちょっと話す程度だ。中学の卒業式で、僕は琴葉がじっと僕の方を見ているのに気付いた。僕も彼女を見つめ返す。二人の間に言葉は無かった。けれど、なんとなく琴葉の言いたいことは伝わった。「バイバイ」って。いつも一緒に居た彼女は、いつの間にか僕の知らないところへ行ってしまう気がして、僕は胸が締め付けられるような思いを感じて、式の後、学校からの帰り道、ふと、涙がこぼれた。


 親の仕事の都合で琴葉は引っ越した。彼女はそのことを一言も話すことなく行ってしまった。


 中学を卒業すると、高校はお互い違う学校へ進んだ。だから、大学入試の合格発表の会場で、琴葉とばったり再会した時は本当にびっくりした。


あまりに突然の再会だったので、僕は何を話していいかわからなかった。だが、彼女の方は狼狽えていた僕とは対照的に、僕の姿を見つけると一瞬驚いた顔をして、笑って駆け寄って来た。


 彼女の態度は以前よりも、なんだか余所余所しく感じた。琴葉は僕のことを、裕とは呼ばず、一之瀬君と呼んだ。琴葉に名字で呼ばれたことなんて一度もなかったから、僕はとても奇妙な感じがした。目の前にいる琴葉は僕の知っている琴葉ではなく、全くの別人で、それまで僕の心の中にいた琴葉はいなくなってしまって。なんだか胸にぽっかり穴が開いたような気がした。痛くは無いけれど、やるせないような寂しいような、そんな感じ。


 空虚な気持ちは何処かへ行ってしまうこともなく、僕の心中に居座り続けた。大学に入ってから、何をやってもやるせなさを忘れることは無かった。友達と一緒に色んなバカをやっても、浴びるように酒を飲んでも、穴が埋まることは無かった。琴葉に気軽に話かけてみようと思ってはみても、ぽっかり空いた穴がそれを邪魔する。彼女を前にすると、うまく言葉が出てこない。琴葉はそんな僕を見て、静かに微笑むだけ。その微笑みが、僕にはなんだか悲しかった。


 何度も、何度も、穴を埋めようとした。けれど、僕のそうした思いとは裏腹に、空虚な気持ちは次第に、溢れ出しそうなほどの焦燥感へと変貌していく。


 一週間後に卒業式が控えているということを、僕は今日、初めて認識したのだ。


 気づいてしまうと、意識せずにはいられない。卒業したら、僕らは違う道を歩んでいくことになる。別れの時に、人はまた再会できることを信じて「またね」という。だが、そこに確実性は無い。もしかしたら今生の別れになるかもしれない。それはつまり、僕が琴葉と出会えるのも、言葉を交わすことが出来るのも、あと一週間しかないってことを意味していた。


そのことに気づいた僕は居ても立っても居られなくなる。僕は「ちょっと散歩に行ってくる」とだけ言い残し、図書館を飛び出した。あの時、僕は一体どんな顔をしていたんだろうか。僕の背中を見つめる琴葉が引き攣った笑みを浮かべているのが、嫌にはっきりと見えた。


 それから三時間くらいたって。僕は電車に揺られていた。電車がどこへ向かうのかはわからない。当てもない旅だった。でも、帰りたくは無かった。このままどこか遠い、自分を知っている人がいない場所まで行きたかった。


 僕を乗せた電車は、やがて、ゴトゴトと音を立てて減速し始めた。そして、数分の後、プシューという音と共に駅のホームに停車する。同時に、列車内に車掌のアナウンスが流れる。


「○ ○ 駅~、○ ○ 駅~。お降りの際は足元にご注意してお降り下さい――」


 今にして思えば、僕は何故その駅で電車を降りたのか分からない。何か見えないものに引っ張られるように、僕は特に何も考えず電車を降りた。


 ○ ○ 駅のホームはいかにも田舎といった感じのホームだった。自動販売機は無く、大きめの木製ベンチが一つあるだけ。改札は無人。ホームに僕の他には誰もいない。さびれた、場末の駅のホームだった。


 僕は切符を通して、無人改札口を出る。そして、とぼとぼとまっすぐ歩き始めた。


 雪が降り始めていた。僕の鼻先に落ちた雪はやがて、溶けて水となって零れ落ちた。


 駅の近くには商店街があったが、ほとんどの店でシャッターが下ろされており、行き交う人々の片手で数えられる程しかいない。行き交う人も皆、疲れたような顔をしていた。あるいは僕自身が疲れていたから、そう見えたのかもしれない。


 シャッター商店街のアーケードを通り抜けると、道路に面した小さな公園があった。

 僕は公園のベンチに座って、空を見上げた。鼠色の空が広がり、雲が上空を覆っていた。


 雪は深々と降り積もる。だんだんと勢いを増しているようにも見えた。


 僕は目を瞑った。それまで見えていた景色は、一瞬で瞼の向こう側に隠れて、視界が真っ暗になった。すると、不思議なことに真っ暗な世界の中に、僕に向かってにっこり微笑む琴葉の姿が映った。見渡す限り真っ暗な世界で彼女だけが、彼女だけが光っていた。彼女だけを認識することが出来た。彼女の表情や、しぐさ、香りまでもが、まるで目の前にあるかのようにありありと映し出されていた。




 僕は目を開けた。

 そこに彼女の姿はない。

 僕は再び目を瞑る。

 なぜか涙が溢れていた。




 それからどれぐらいたっただろう。ふと、僕は目を開けた。


 寒さで体の芯から冷え切っていた。雪は勢いを増し、いつしか周りは一面の銀世界に変貌していた。このままここにいたら凍死してしまう。そう思って、僕は凍えた体をさすりながら、震える足でベンチから立とうとした時。


 妙なものが目に映った。小柄な老人が一人で雪玉を転がしていた。


 それだけなら別段おかしい光景ではないかもしれない。しかし、その老人はこの寒空の下、薄い白シャツに白いブリーフだけの薄着だったのだ。ホームレスにしても、こんな薄着ではいないだろう。遠目には色白の肌で、雪のような白さだ。注意してみないと、吹雪に隠れてしまう。そんな格好だった。とはいえ、女性に見られたら、変質者として通報されかねない格好であることに変わりはない。


 僕はこんなに寒い公園で、一人で雪遊びをしている老人を不思議に思って、おずおずと声を掛けた。

「あ、あのう……」


「なんじゃ?」


 僕に気づいた老人は、こちらを振り返る。思ったよりもつぶらな小さな瞳だ。老人はちょうど、絵本に出てくる、小人のドワーフみたいだった。


「そんなに薄着で何を……?」


「見てわからんか」


 老人は雪玉を転がしている手を休め、僕の方に向き直る。


「わしはな……雪を感じていたんじゃ」


 老人の言っている言葉の意味がよくわからなかった。


「……よく、わからないんですけど」


「ふん。別にわかってもらわなくても結構。あっちいけ」


 老人は僕を邪魔な虫のように、手でしっしと追いやる仕草をすると、また雪玉の方に向き直ってごろごろ転がし始めた。

 僕は老人の物言いにむかっとして、とっととこの変質者を警察に突き出してやろうと考えた。


「あ、そうですか。じゃ、警察に連れて行きますから。この変態じじい!」


 僕が強引に老人の腕を引っ張って連れて行こうとすると、老人はびっくりした顔で、

「ま、待て! 警察は勘弁してくれ!」

 と、必死に懇願するもんだから、仕方なしに僕は手を放してやった。すると、老人はその場にすっころんでしまった。


「す、すみません!」


「ったく、最近の若いもんは……(以下略)」


 よく、こうも悪口が次から次へと出てくるもんだと感心する。だが、僕はあくまで穏やかな物腰で尋ねた。


「それで……そんな薄着で何をやっているんですか?」


「だから、言っておろうが。わしは雪を感じているのじゃ」


「僕はその意味がわからないと言っているんじゃないですか!」


 老人は僕の質問には答えずに、明後日の方を向いてつぶやく。

「お前……さっき泣いていたな」


 うっ……。もしかして見られてたのか? 一体どこに……?


「何故だ」


「そ、それは……」


 言い様も無い焦燥感に追われるようにして、ここまでやって来てしまった。僕の目の前に厳然として立ちふさがる現実を直視できず、目をそむけた。そして、そういう自分が嫌になって。堪えきれなくなって涙が出た……のだと思う。だが、そんなこと、赤の他人である変態じじいにどうして言えようか。僕はだんまりを貫いた。


「…………」


 質問に答えない僕を余所に老人は話を続ける。


「ふん。まあ、よかろう」


 小さな公園は沈黙に包まれていた。降ってくる雪がわずかに風を切る音だけが耳に響く。僕はこの場所から逃げ出したくなって、歩き出そうとした時、唐突に老人はつぶやいた。


「……雪はきれいだな」


「そうですね」


「お前は何も言わないが、きっと何か辛いことがあったんじゃろう。それこそ他人には言えない程の、な」


 心の内を見透かされたような気がして、僕は一歩後ずさりした。

 老人は続ける。


「顔を見ればわかるわい。なんとなく、な」


「…………」


「ま、嘘だけど」


「嘘かよっ!」


 全くふざけたじじいだ。こっちが真剣に人の話を聞いていたらいい気になって。もうこの変なじじいに関わるのはよそう。そう思って僕が歩き出そうとすると、


「ちょっと待て。これをやろう」


 そう言うと、老人はおもむろに真っ白なブリーフに手を伸ばした。そして、なんと! ブリーフの中からキャンディを取り出して僕に差し出す。


「あ、あの……気持ちはありがたいんですけど、そのぅ……」


 こんなばっちいもん、いらないよ! そう思って、僕がキャンディを返そうとすると、老人は笑いながら言った。


「はっは、毒など入っておらんよ! それは魔法のキャンディ。食べるとあったかくなるぞ。騙されたと思って、ほれ」


 僕は手渡されたキャンディをじっと見つめる。毒が入ってるとかそういう問題じゃないんだけど……。でも、まあ袋で包んであるし、健康的な害はないだろう。たぶん。いや、きっと。そうじゃなきゃ……ゴクリ。


 ちらりと老人の方を見た。老人は僕がキャンディを口に含むのを今か今かとじっと注視している。とてもこのまま返してくれそうにはない雰囲気だ。

 仕方なしに、意を決して僕はキャンディを口に含む。ほんのりとした甘さが口の中に広がっていく。気のせいか、さっきよりも少し寒さがまぎれた。

 お腹をさすりながら思う。そういえば……ご飯食べてなかったな……。


 老人はふと、上を見上げてつぶやいた。

「一つ、話をしようか」


 僕はキャンディを舌の上で転がしながら黙って老人の話に耳を傾ける。本当に魔法のキャンディであるわけない。きっと、このじじいは、僕が空腹であることを知っていて、キャンディを寄越したのだ。


 老人のさりげない優しさを感じて、僕は話だけでも聞いていこうと思った。

 少し空腹が紛れたせいか、心なしか、お腹の辺りが少しあったくなった気がする。


 老人は空の一点をじっと見つめ、話し出した。


「雪はロマンじゃ。わしが転がしとるこのちっこい雪玉だって、何になるのかは誰も知らない。転がしているわし自身さえもな。考えてもみろ。子供たちを喜ばす雪だるまだって、ぽかぽか皆であったまれるかまくらだって、同じ、この降りしきる冷たい雪で出来ているのだ。わしは人も同じだと思う。人も雪と同じなのじゃ。壁に当たって消えてしまうのも、風に乗ってどこまでも飛んでゆくのも、山に積もって、人々に冬の到来を知らせるのも、雪崩になって命を奪うのも、全ては彼らの自由なのじゃ。自由……時として、人はそれをロマンと呼ぶ。そしてロマンを持たぬ人など存在しない。人は誰しもロマンを持ち、それ故に生きていくことが出来る。ロマンを持たない人がいるとすれば、それはあるいはどんなものよりも恐ろしい怪物かもしれんな」


 老人はふぅ、と息をつくと、僕の顔を見つめて言った。


「つまり、わしが言いたいのは、お前もお前のやりたいようにやれということだ」


 老人の言葉を聞き終えて、僕は自然と胸のつかえがおりる気がした。言い様のない解放感に包まれていたと同時に、それまでは決して持ち得なかった感情をもっていた。遠い昔に置いて来てしまった、大切な甘酸っぱい気持ち。


 僕はそのまま走り出した。振り返ることなく、ただただ、己の使命感に突き動かされて走る。



 ――僕は僕のやりたいようにやる。雪は自由なんだから。あるいはそれは僕の自己満足の行動なのかもしれない。それでも僕は行動しよう。だって行動しなければ、この世界は始まらないのだから。



 図書館に戻って来たとき、僕は汗びっしょりだった。受付のお姉さんも怪訝な顔で僕を見ていた。琴葉は出て行く前の席に座って、虚ろな瞳で窓の向こうに降っている雪をじっと眺めていた。


 僕は肩で息をするようにしながら、彼女に話しかけた。


「はぁはぁ……。遅くなった」


 琴葉は驚いた顔をして目をぱちくりさせる。


「い、一之瀬君……どこ行ってたの? 論文放り出して」


「……ちょっと付き合って」


「……?」


 僕は琴葉の袖を引っ張って、ラウンジに向かった。

 僕は彼女の方を向き直る。じぃっと見つめてくる彼女の視線に妙な気恥しさを覚える。

 だから僕は目を瞑って、思いのままを打ち明けた。


「東京……行くんだろ」


「うん」


「……いつ?」


「……卒業したらすぐ、かな。急にどうしたの?」


「…………」


 言葉が詰まった。喉につかえてしまった、本当に伝えなければならないこと。それを絞り出して言葉にするのにどれほどの時間がかかったのだろう。


「僕は……、僕は……」


 僕は死ぬような思いでその言葉をいよいよもって口に出した。


「身勝手なことだってのはわかってる! でも……それでも、もう嫌だ。琴葉と離ればなれになるのは嫌なんだ! 僕は……この街で君と一緒に暮らしたい!」


 何も反応が無い。ダメ……か。でも、それでも悔いはない。僕は自分に正直に生きたんだ。


 そっと目を開ける。


 目の前に立つ琴葉は僕を見つめていた。彼女の双眸は、僕だけを捉えていた。長い、長い沈黙の後、琴葉はそっと微笑んだ。彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。


「……裕のばぁか。おそいんだよ!」


 その瞬間、僕は目を見開いた。琴葉はもう一度呼んでくれたんだ。一之瀬君ではなく、裕と。

 僕は溢れ出した涙でぐしゃぐしゃになりながら、琴葉を思い切り抱きしめた。





 ――あの日があるから、今の僕がいる。


 僕は、あの日公園で出会った老人に、大切なことを教えてもらった。そのお礼を言いたくて、何度も公園に出向いたが、結局、あれから老人の姿を見かけることは無かった。

 子供の頃に本で読んだことがある。雪の日に現れて、人を幸福にしてくれる妖精の話。

 もしかしたら、あの日公園で出会った老人は、ひょっとすると雪の日の妖精なのかもしれない。いや、そんなこと……あるわけないか。

 一人で思い出の余韻に浸りながら、読みかけの文庫本を手に取ってページをめくろうとした時、台所の方から琴葉の声がした。


「よし、出来た!」


 台所で晩飯の準備が出来たらしい。美味しそうな香りがこちらまで漂ってきて、食欲をそそった。


「ちょっと、裕! だらだらしてないで、ちょっとは手伝ってよね!」


 まったく、手伝うっていうと怒るくせに、自分勝手な奴だ。僕はしぶしぶ炬燵から這い出て台所に向かう。台所では琴葉が鍋を温めていた。


「お、今日は鍋?」


「そ。寒いから温まるでしょ」


「いいね。んじゃ、これ向こうに運ぶから」


 僕は土鍋を担いで炬燵へと戻っていく。琴葉が新聞紙を敷いて、その上に持ってきた鍋を置いた。

 食器とご飯を持ってきて、二人して炬燵に入る。これで晩御飯の準備も万端だ。


「じゃ、食べるか」


「うん」


「「いただきます!!」」


 僕は鍋をつつきながら、幸せを噛み締めていた。世界を救ったわけでも、お姫様を助けたわけでもない。けれど、きっと僕は今世界中で一番幸せだった。

 僕は鍋を挟んで向こうに座る琴葉を見て微笑む。琴葉も僕の方を見て、優しく微笑み返した。




――今日は僕と琴葉の結婚記念日。

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