声と共に去りぬ
相内 秋沙
声と共に去りぬ
「前々から思っていたんだけどさ、死ぬの反対は生きるじゃなくて、絶対動くだと思うんだよな。たぶん」
僕は、また始まったよと思いながら、いつものように彼の少しだけどうでもいい話に耳を傾けていたんだ。
「絶対なのかたぶんなのかはっきりしろよ」
でも、僕だってどうでもいい話に耳を傾けていられるほど暇なわけじゃない。僕は今受験生で、来年には大学入試が控えているからね。だから少しだけどうでもいい話には適当に相槌を打ちながら聞き流しているくらいが丁度いい。僕にとっても、勿論彼にとっても。
「主観的には絶対さ。でも客観的に立証できるわけじゃない。思うってことは全部主観だからさ、絶対ってのは間違っていないんだ。たぶん」
僕は今、ノートに四次関数の増減表なんかを書いているわけだけど、途中でシャープペンシルの芯が折れたところでそれを返事にした。
いつもとは違って教室には僕ら二人しかいなかった。カーテンがひらひらと揺れているのは窓から密かに入り込む風のせいだし、教室内が暑いのは地動説以来不動の太陽のせいなのに、僕ら二人しかいないのは他の人たちが教室に残らなかったからだというのは、少しおかしいように思われるけど間違っちゃいない。
「だからさ、死ぬっていうのは自殺なんかを除けば勝手に死んじゃうもんだろ? 死のうと思って死が訪れるわけじゃない。でも生きるっていうのは勝手に生きているわけじゃないと思うんだ。だから、死ぬの反対は動く。自殺の反対は生きるでいいってことにするよ。ギリギリだけど」
「ちょっと待てよ。それじゃあお前は動くってのは勝手に体がしていることだっていうのか?」
またシャープペンシルの芯が折れてしまった。ここ最近、ずっと苛々していることが多いけど、受験生なんてそんなもん。まぁ勉強していない彼はそんなことないんだろうけど。
「カミュの小説で、『異邦人』ってのがあるだろ。この小説の主人公はさ、途中で人殺しをするんだけど、それは太陽が眩しかったからだって言うんだ」
急に話を変えるなんてことは彼の常套手段で、僕はいつも辟易させられちゃって肩を落とすなり何気ない様子で外を見たりして、呆れた態度を示そうとするんだけど、本当のところあんまり呆れてなかったりする。うまく説明できないけどさ。
「頭いっちゃってるな。それ」
「ああ、本当。頭いっちゃってる」
そこで僕は笑ったんだ。けど、それは彼が笑ったからであって、僕が面白いと思ったからではない。じゃあ、何で彼が笑ったのかっていうとさ、多分僕が笑ってたからなんだろうな。きっと。
「でもさ、強ち間違ってもいないと思うんだよな」
実を言うと、この時僕は彼が笑いを堪えながらそう言っているように見えたんだけど、笑いを堪える振りをしながら言っているようにも見えたんだ。
「人ってさ、風が吹いたから彼女と結婚したり、雨が降ったからダイエットをしたり、あるいは犬の鳴き声を聞いたから勉強しているのかもってさ」
僕はまた笑ったけど、今度は絶対彼が先に笑っていたね。受験生なのに勉強もしないでお前は、そんなくだらないことを考えていたのかって言いたくなったよ。でも結局そうは言わずに、代わりにこんなことを言ってやった。
「それなら、お前は地球が動いているから生きているのかもしれないし、飛行機を見たら自殺しちゃったりするんじゃないの?」
「かもね。そもそもさ、誰も生きてなんかいないんだよ。みんな、風とともに動いているだけだ」
僕はいつの間にかシャープペンシルを置いていたし、ノートも閉じていた。こんなくだらない会話は嫌いじゃなかったしね。
「そんなの人に意識がないみたいじゃないか」
「いや、意識はあるよ。我思うゆえに我ありってね。ただ、それとこれとは別なんだ。意識と実際の行動にはさ、相関関係はあるけど因果関係なんてないんだよ。きっと」
「難しいこというなあ」
「ああ、本当難しいと思う。自分だって何言ってんのか分からないしね」
僕はまた笑ったけどさ、今度はあまり笑えなかったな。仕方なく笑っていたというか、もしかしたら、西日が眩しかったから笑ったのかもしれない。
あいにく、彼との会話はこれでお終い。というのも、僕は塾に行かなくちゃいけなかったからなんだ。彼は少しも寂しそうな顔なんかしてなかったけど、僕はもう少し話したかったな、って思ったりする。
駅に着くとあたりはもう暗くなっていた。僕の乗る電車は次の次に来る各駅停車で、次に来るのは急行だからこの小さな駅には止まらない。だから、僕はその間ずっと、さっき彼とした会話を反芻していたんだ。
もし、僕が今受験勉強をしているのが、頑張ろうと思っているからではなくて風が吹いたり、太陽が熱かったりするからだとしたらそれはあまり良いとは言えないよな。逆に、彼が勉強をしていない理由がそんなことのためだったら少し可哀想だと思う。まぁ、馬鹿げていると思うけどね。
もうすぐ急行列車が僕の前を通過する。風が勢いよく僕に吹きつけている。僕は持っている単語帳のページが勝手にめくられるのを手で抑えているだけだった。
でも、もし、万が一彼の言ったことが本当なら、僕は今吹いている風のせいで、脳なんかが反応しちゃってさ、足の筋肉に前に進めなんて命令を下しちゃったら、線路に落っこちて死んでしまうのだろうか。僕が電車にはねられて死んだ理由は風が吹いたからですというのはなんとも滑稽に思えるね。
もうすぐ急行列車が僕の前を通ろうとしているんだけど、僕の足はしっかり止まってるしさ、このまま飛び降りるなんて発想はやっぱり全然なかったんだ。けどさ、本当急だったんだ。突然、後ろにいたベビーカーに乗ってる赤ん坊が大声で泣き始めたんだよ。僕はびっくりしてさ、後ろを振り向くつもりだったんだ。結局振り向かなかったんだけどね。じゃあ、何をしたかっていうとだね、僕は勢いよく走って線路に飛び込んだんだ。グッバイ・ベイビーって叫びながら。
飛び込んだんだ。
声と共に去りぬ 相内 秋沙 @space_litter
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