第9.5話 蛇

 ヨーロッパの北西部に位置するとある島国。都市部より大きく離れた辺鄙へんぴな田舎に、場違いな屋敷があった。そびえ立つ荘厳な門扉に灰色の壁面が印象的な豪邸は、現在の真っ暗な空と相俟って不気味さを増す。

 重苦しい空気を醸し出す屋敷の中を、一人の男が血走った目で周囲を見遣りながら大股で力強く歩く。

 藍色のベストに胸元を飾るリボンといった騎士や上流層の正装のような衣服を身に纏った彼だが、その上着の裾は所々赤い色と、水に濡れた形跡が見受けられる。どう見ても異様な姿の彼は、ふぅふぅと息を荒らげながら蝋燭が所々に掲げられた長い廊下を行き、ある扉の前で立ち止まった。

 男は、はぁ、と短く呼吸を整えると、古びた戸を力強く叩いた。一拍置いて低い男の声が返ってくる。


「入れ」

「邪魔するぞ」


 男が静かに部屋の中に足を踏み入れる。彼の目に入ったのは、壁の燭台に置かれた蝋燭と、多くの書物がぎっしりと並べられた本棚、そして、広い部屋の奥に並べられた像や台座、鏡などの祭具である。

 その部屋片すみで、書き物机に向かう男が一人。頭に白い布を巻き、目元を覆う仮面を装着した壮年の男――ケマルは、筆記具をペン立てに戻すと、椅子が軋む音を響かせて足を踏み入れた男に向き直った。


「……どうした、フスターフ。随分と殺気立っているじゃないか」

「ったりめーだろ、またうちのクソガキが身の程も弁えず行動したんだ。この程度で済んでるだけ褒めてほしいもんだな」


 フスターフと呼ばれたその男は、刺々しい目付きでケマルを睨みつけると、不機嫌そうに壁に凭れ、あぁ、と呻いたあと薄く口を開く。


「今日は三人罰した。二人は溺死したが一人は辛うじて生きてる。生きてるやつをくれてやるから、てめーの儀式の生贄に使え」

「……生贄を寄越してくれるのは有難いんだが、状態はどうなってる? 前みたいな粗悪品だと、生贄として相応しくないんだが」

「手足縛った痕が酷いくらいで、それ以外の外傷は特にない。精々逃げる際に無様にも転んで怪我した痕くらいで、割と綺麗なもんだぜ」

 

 生贄だの溺死だの、物騒な単語を淡々と並べながら、フスターフは仮面の向こうの表情を思い浮かべながら交渉をする。ケマルは、自身が熱心に信仰する宗教の儀式に頻繁に新鮮な生贄を使用する。人間でなくとも良いのだが、人間だからといって不都合もない。そのため、自分が関わる子供たちからが出た場合、彼の元へ持っていく機会がとても多かった。


「いくらだ?」


 暫し沈黙していたケマルが静かに問いかけた。フスターフは、交渉が進んだことを理解し、指で2を表現しながら返答する。


「この前の金額から2割引いてやる」

「上乗せじゃなく?」


 僅かに彼が驚いた表情をしたように見えた。そりゃそうだろう。前回より質のいい物を、と言っているのに理由もなく値引きされては驚くものだ。しかし、フスターフは当然だと言わんばかりににやりと口の端を上げた。


「あんなド低脳のクソガキのために上乗せなんかするかよ。こっちとしてはも半額でもいくらいだ」

「商売がド下手か貴様は。貴様の気分はともかく、取引する際はもう少し頭を冷やせ」

「俺は冷静だが?」


 きょとんとした表情で反射的に返すと、ケマルが一瞬口元を歪め、呆れたように首を振る。


「どこがだ。……せめて同じ金額を払わせてくれ。こちらが申し訳ないし、それに、お前もまともな生徒のためには資金が必要なはずだ」

「あぁ、それはそうだ。じゃあ、前と同じで。……ちょっと待ってろ、直ぐに持ってくるから」

「あぁ」


 ケマルの言葉に頷いたフスターフは、仏頂面のまま交渉を終え、扉の向こうへ姿を消す。

 残された彼は、少し呆れた様子でその背中を見送り、胸の内で呟く。

――あの男が教師などとは、未だに信じられんな……。



 仮面の男の部屋を後にしたフスターフは、往路より少し落ち着いた様子で廊下を歩きながら、溺死した二人の処分方法についてあれこれ頭を巡らせていると、突然女性に声をかけられた。


「あら、フスターフさん。戻られたのですね」


 すると、足を止めた彼は、先程とは打って変わって非常に穏やかで優しい面持ちと声色でその女性に振り返った。


「これはこれはユウさん! えぇ、そうです、先程授業が終わりまして、戻ってきたのですよ」

「ということは、お疲れでしょうか? ごめんなさいね、そんな時に引き止めてしまって……」

「いいんですよ、そんなこと。ユウさんは気にしなくても。そもそも男に気を遣う必要なんかないんですから」

「あはは……そ、そう、なのかしら」


 フスターフの視線の先にいるのは、小柄な女性だった。ユウと呼ばれている彼女は、長く黒い髪を纏め地味な色合いのドレスを身に纏っているが、れっきとした東洋人である。

 そんな彼女の前でニコニコと微笑むフスターフは、遊の苦笑いに一瞬顔を曇らせ、取り繕うように恭しく一礼した。


「……これは大変失礼しました。ユウさんは、私のような男にも気を使ってくれるお方だと分かっていながら、気を遣うななんてことを……。貴女の優しさを踏み躙ってしまいました。大変申し訳ありません」

「あ、いえいえ、別にいいのよ、そこまで気にしてないから。……それより、その、伝えておきたいことがあるんだけど、いいかしら」

「勿論!」


 苦笑いを浮かべたまま、遊はゆっくりと言葉を続ける。そういえばまだ本題に入っていなかった。余計なやり取りで遊の時間を無駄にしたことを内心反省しながら、彼女の話に耳を傾けると、思いもしなかった人物の名前が飛び出した。


「さっき、バレーナくんとクッシくんが、外出した先で、キラさんに会ったらしいの」

「――えっ、キラって、あの、私がいつも言ってるキラですか」


 彼女の口から飛び出した『キラ』という名前に、フスターフは目を丸くする。わざわざバレーナ達から遊を経由して来るあたり、本当に『キラ』の情報なのだろうが、にわかに信じ難い。

 驚いたフスターフの言葉に遊は頷いた。


「なんでも、フルネームを聞いたら『キラ・ピーテル・エトホーフト』だと名乗ったそうです。あなたの言うキラさんの名前と、全く同じではありませんか?」

「それは、確かに……いや、でも……。……そうだ、その人の外見の情報はありますか?」


 名前を聞いて、一瞬口の端を上げたフスターフだが、慌てて顔を背けて片手で口を隠す。冷静さを失いかけながら逡巡し長考した彼は、更なる情報を求めた。

 フスターフの問に、遊は少し首を捻ったあと、次のような特徴を口にする。

 一般的な男性よりもずっと高い背、頭に巻いた布、本来白目の部分が黒くなっている独特の瞳……等々。又聞きのため、正確性は落ちているかもしれないが、バレーナ達はおおよそそのようなことを言っていたという。

 それを耳にしたフスターフは確かに己の言うキラと同じだと確信する。名前も外見もここまで一致する存在が、この世に何人もいるわけがない。

 大きな高揚感を胸に、フスターフは更に情報を引き出す。どこで会ったのか、何をしたのか、どういった様子だったのか……詳細を可能な限り聞き出したフスターフは、ハハ、と小さく乾いた笑いを浮かべて数歩後ずさる。手袋をはめた手で顔を覆い、随分楽しそうに笑い声をあげた後、満面の笑みで遊の手をとった。


「っ、ありがとうございます、ユウさん! キラのこと、教えてくれて!」

「え、えぇ……でも、対峙したのはバレーナくんとクッシくんよ? お礼なら二人に――」

「キラ! 俺の女王様! 本当は今すぐにでも会いたいけど、それは無理なんだよなぁ。……だからこそキラが元気にしてるって分かっただけでも本当に嬉しい。ありがとうございます、ユウさん!」

「……えぇ、どういたしまして……」


 遊の言葉など耳に入っていないらしいフスターフは、彼女の手を離したあと嬉しそうに飛び跳ねて一人勝手に話し出す。子供が喜びに身を任しているようにくるくると動く彼の様子を、遊本人は苦い笑みを浮かべて見つめた後、一言添えてその場を離れる。


「私の用事はそれだけなの。それじゃ、また後ほど」

「えぇ、それでは!」


 静かに手を振りお辞儀をした遊の方へ紳士的に礼をし、フスターフは頬を緩め鼻歌を歌いながら、息も絶え絶えのまま放置している子供の元へ向かった。

 そんな上機嫌なフスターフの背を見送って手を振った遊は、どこか暗い色を湛えていた。

 そしてその後、別の場所では青白い顔をした男児を抱えたフスターフが、厳しい面持ちで廊下を疾走している姿が見受けられたが、それを止める者はいなかったのである。

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黒緑の旅 不知火白夜 @bykyks25

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