第72話 記憶が戻る代償・前編


 どうして私が《アヤカシ》たちと一緒に生きようと思ったのか。

 浅間龍我あさまりゅうが、師匠に弟子入りをしたのか、その後、警視庁の《失踪特務対策室》零課にはいったのかも。


 龍神と並んで歩いていきたい。

 そして式神──椿が背負ったものを解き放ちたいと思ったからだ。


 夢という形での記憶の再現。

 断片的な記憶の欠片は金平糖のような形でまっさらな空間に落ちていく。

 

 私は光りが照らす水中の奥底に落ちた。

 意識では無く深く静かな無意識の中へ。奥底から浮かび上がる泡は記憶の残滓ざんし



 ***



 暗がりの中から浮かび上がる世界は白かった。

 白い真四角な小部屋。おそらく病室だろう。そう燈は自分の記憶なのに他人事のように思った。


 真っ白なシーツに、消毒液の匂いを消すために石鹸の香りが充満している。

 ベッドに座っている幼い頃の燈は、五、六歳だろうか。黒髪をボサボサに伸ばし、無機質な目で何処か遠くを眺めている。


 ――時期的には一九九九年の《MARS七三〇事件》の後ってこと?


 記憶の中で燈は病室の中を見回した。ふと、目に止まったのはカレンダーだ。文字がぼやけているが、一九九九年十一月とある。


 ──あの事件より前の記憶ではないけど、それでも……これが私の見ていた世界?


 しかし、驚いたのは幼い燈以外の存在だった。自分以外の人間が真っ黒の塊にしか見えない。

 正確に言えば身長や体型の個人差はちゃんと認識できている。ただ人のシルエットとしてしか識別が出来ないのだ。人の顔も、表情も見えない。すべてが真っ黒に塗り潰されており、黒い塊が人間の姿を模している。そう見えた。

 

 ──これが私の、子どもの頃に見ていた……世界?


 人もアヤカシも同じく真っ黒にしか見えない。

 燈は改めて自分が異質的な存在だったと思い知らされた。


《失った記憶》とはパンドラの箱のように、過去の絶望との対峙だ――

 限りなく灰色に近い世界。

 絶望という言葉がこれほどぴったりなものはない。


『姫、今日は天気がよい。……一緒に外に出てみないか?』


 聞き覚えのある声は、思いのほか明るい声音だ。


 ――この声は……、龍神?


 少女と同じく燈が声の先に視線を向けると、そこには備え付けの鏡があった。

 鏡にはぼんやりと人のシルエットが浮かんだ。その声の主は、鏡越しに言葉をかける。

 少女はわずかに唇を動かした。


「また、来たの?」


『我が日課として決めたこと。……今は話すことしか出来ないが、もう少し時間を頂ければ、×××× がこちらで活動できるように手配をしてくれるという。ご不便をかけるが、今しばらく待ってもらえるか』


 声は音だ。

 何の力も無い。なのに、その声は少女の凍り付いた心をざわつかせて、暗く光を失った瞳が僅かに揺らいだ。


「あなたも、……私の命が欲しいの?」


 酷く冷めた声。

 見えているのに、何処も見ていない。見ようとしていない。そんな虚ろな目だった。

 少女の言葉に、声の主は言葉に詰まった。


『姫……』


「ここに来る何かは……みんな優しいけど、欲しいのは私の命でしょ。美味しいんだって。だからちょっとずつ削って、もっと成長するのを待ちながら《約束》をさせる。私と契約すると消えないですむから……頼むヒトたちが出てくるって。そうツバキが言っていた。だから、信用するなって……。ツバキも私が気を抜けば、魂を食べちゃうって言ってた。……あなたも同じでしょう」


 その声は「違う」と断言した。

 だが少女は嘘だと否定する。


「……あの事件から、声がたくさん聞こえる。私の中で囁くの。ずっと、ずっと。……ここに居たら、もっと悲しいことが起こるって……」


 生気の乏しい姿、光のない瞳。

 他人の拒絶と否定。


『龍神、無駄じゃ』


 ――椿?


 燈は周囲を見渡すが、そこに式神の姿はない。

 ただ少女の影が僅かに揺らめき、歪んだのを見つけた。


『今の主は己の心を守ることが精一杯なのだから……。声をかけるだけでは、根本的な解決になどはらなん。さっさと器を用意することが先決ぞ』


 式神が吐き捨てるように告げた。姿はない。

 今と変わらずにダミ声だけが病室に響く。


『言葉だけでは、誰も救えん』


 龍神はそれでも言葉を重ねる。


『たとえそれでも、


 ――こんな小さな頃から私は龍神や椿と面識があった。


 燈は苦笑いして、そして納得する。


 ――通りで私の記憶が空っぽな訳だ。



 ***




 断片的な記憶は、急に別の記憶に繋がる。

 ランダムとも言えるような出来事が浮かびは沈み、また唐突に現れて消える。それを何度か繰り返したのち――季節は夏。

 ジリジリと窓の外は灼熱の日差しが病室に入り込んでいた。


 ――時系列の変動? いや、なんだかコマ送りみたいで変な感じだ。


 燈は周囲を見渡す。

 先ほどの病室と同じ。ただ月日が流れたことを如実に語っていた。入道雲と紺碧こんぺきの空が一枚の絵のように窓から窺える。

 少女の視線が窓から鏡に映ると、ぼんやりとした人影が映し出される。


『見るに堪えない顔ですね。……笑えば少しは見られる顔になりますけど』


 声の主龍神の口調がだいぶ変わっていた。

 気にかけているのは伝わってくるが、なんとも嫌味な物言いだった。


「…………」


『返事も出来なくなりましたか?』


「……うるさい」


 少女は言葉を返すと、声の主は返事が返ってきたことに満足なのか言葉を続けた。


『あなたにどう思われても、会話が出来れば罵倒でもなんでも構いません』


「……迷惑」


『それでも、あなたの心を開くキッカケになるなら……』


「嫌いでも良いの?」


 声の主──龍神は僅かに呻いた。


『も、もちろんです……。姫が抱えている痛みに、く、比べたら……』


 まったく大丈夫そうではない。動揺で声が震えていた。


──昔の龍神は、今よりもずっと感情を表に出しやすい人だったのかな。


「じゃあ、私はずっと貴方のこと嫌いでいる」と告げる不愛想な過去の燈。

『構わない』と何処までも優しい声をかける龍神。


『……だから、姫。笑って……、幸せになろうと……考えてほしい』


 虚ろだった少女の瞳が僅かに揺らいだ。

 表情も固いが、唇を軽く噛んだ後に小さな口を開く。


「……幸せに? 私が?」


『ええ……。姫が幸せになるために、我を利用して都合良く使えば良い。その権利があなたにはあるのだから』


 滔々と語る声は突き放すように冷たいのに、その声は耳について離れない。

 その想いの深さが静かに伝わってくる。

 それは少女も、燈も同じだった。

 理屈では無く、形容しがたい感覚――胸の奥からわき上がる想い。


「……わかった」そう少女は小さく呟いた。いや、それしか言葉に出すことが出来なかったという方が正しい。




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