第73話 記憶が戻る代償・後編
断片的な記憶が点滅する信号機のように移り変わる。
今度は窓の外から雪が見えた。
相変わらず狭い病室に少女──幼いころの燈はいた。けれど、前の記憶と違うのは、彼女の表情が柔らかくなったことだ。
「空想上の動物が見たい」「空を飛びたい」「三段重ねのケーキが食べたい」と、子供じみた欲求で、
少女は声の主に嫌われることを行った。それで諦めてくれる、来なくなると思ったのだ。しかしそれは甘い目論見と言えた。
声の主は諦めなかったからだ。
***
日に日に少女の中で、声の主の存在が大きくなっていく。
『姫が前に乗りたがっていた龍と馬の混合獣、竜馬の準備ならできています。それはもうあっさりと』
声の主は、今の龍神の話す口調に近づいてきていた。
「……嘘」
少女は速攻で否定した。
『千里の道を駆け抜けるとても美しい竜馬でして、話を聞くと姫と縁があるらしいです。意外と顔が広いのですね。……それで是非とも会わせたいのですが、乗馬の予約はいつにしましょうか?』
その時の少女には嘘に聞こえたかもしれない。けれど、今の燈には龍神が本当に竜馬と交渉したことがわかる。
「居るわけない……」
幼い燈は弱々しく呟くが、声の主は話をどんどん進める。
『いますよ。姫が
「もう、いい……。それよりこの間の絵本の続きを読んで……」
少女はわざと話を逸らした。
自分勝手な都合に、声の主は怒った様子も無く前回の続き、サンテグジュペリ作、《星の王子さま》を朗読し始めた。
燈はいつの間にか病室に本棚があることに気付く。そこにはグリム童話からアンデルセン、イソップ物語、日本昔話など様々な本が目に入った。
時間をかけて、龍神が読んだものなのだろう。
完璧だった。
理不尽な願いも、無茶ぶりも、我が儘も声の主は答える。
それが少女には、面白くなかった。いつも頬を膨らませてささやかな反抗を見せる。しかし、それこそが──声の主の目的でもあった。
あの事件当時の凍り付いた──心が壊れかけた少女はいない。
「……やっぱり、嫌い。むー」
そんな軽口がたたけるほど、少女は表情も、凍てついた心も柔らかくなっていた。
『姫は本当に幼稚ですね。この程度のリクエストにお応えできなくてどうします』
勝ち誇った口調に少女は悔しそうに頬をさらに膨らませた。そのやりとりは、心が打ち解けた同時の会話そのものだ。
『それで、姫。我に朗読をさせたのですから、感想の一つも云っていただけないのですか? 語彙力が乏しいと将来において残念な女性になりますよ』
皮肉もだいぶ板に付いてきている。舌に油でも塗ったのかと云うほど、声の主は舌弁になっていった。
燈は理解する。なぜ龍神が皮肉な言い回しになったのか、を。
「……今日のお話。難しかったけど、一つだけわかった」
『それは?』
「《大事なことは目に見えない》って、本当だってこと……。今、私が見ているのは人の表面だけで中味を……みていない……見るのが怖いから……」
つたない言葉だが、ゆっくりと少女は想いを言葉にする。
「今見える世界は、……あの事件からけど、世界そのものが変わったんじゃない。変わったのは私の視点。私は世界を拒絶しているし、周囲の人も全部疑っている……」
少女は過呼吸を抑えるように何度か深呼吸をして、言葉を続ける。
「でも……これからはちゃんと相手ひとりひとりの顔を見て……わかろうと、どりょくは……する」
『……姫。ええ、そうですね』
「あなたが……嫌いなのは変わらない。むしろ、もっと嫌いになった」
嫌味に対して少女も嫌味を返す。
ただその言葉は頼りない口ごもるような言い方だった。
『そ、それでも構いません。……我に利用価値があれば、それで結構ですよ』
声の主はつっかえながらも、冷静に言葉を返す。それが本心ではないというのは、動揺した口調からハッキリ分かった。
「この人は悪くない……のに、なんで……それでもいいなんて、いうの?」
ボソボソと少女は呟いた。
『なにか言いましたか?』
少女は顔を俯かせて、首を横に振った。
「それで、あなたは? 今日のお話はどうだった?」
『ええ……。《きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ》でしょうか。……ずっと知りたかった答えが、こんな所で見つかるとは思ってもみなかった』
言葉を噛みしめて、星の王子と同じように、何度も繰り返し同じセリフを龍神は呟く。熱のこもったその声はとても力強く、想いが詰め込まれていた。
『……姫のことを特別だという理由が、わかった気がしますよ。本当に人はすごい……』
感嘆の声を漏らした。
「……それはすこし違う。あなたが諦めないで探したから、答えを見つけ出せた。答えが目の前にあっても、気づかない人も居る。あなたは、ちゃんと見ようとしている……よ」
声の主の揺れ動く感情に反応して、少女の心が言葉を紡がせた。
『姫……。胸が躍るような気持ちをどう表現すれば……あなたに伝わるのだろうか。姫は相手の機微に鈍感のようで、我は……ひどく困っている』
嬉しい時にどうすればいいのか。そんなごくごく当たり前の感情に、声の主は戸惑っていた。
「嬉しいなら、素直に喜べばいいと思う。私にはもう出来ないことだから……」
『姫、それは出来ないのではなく、分かろうとしないだけ。……姫は今、心を閉ざすことで現実から目をそらし、逃げ込んでいるに過ぎない。季節の巡りと共に凍り付いた心も溶けてゆく……牛歩の歩み程度であろうとそれは同じ事です』
突きつける現実。
時折、声の主の正論は少女の心を大きく揺さぶる。
「……ちがう」
窓から入り込む陽射しが、分厚い雲によって遮られていく。
陰りの生まれた病室で息苦しい沈黙が流れた。龍神の想いも虚しく、少女の言葉は底冷えするような声だった。
「……無理。私の世界は灰色で、冬に閉じ込められたまま。季節は回らないし、これ以上、私の世界は時計の針を刻むことはない……よ」
少女のぽつりと呟いた刹那――
がん、と大きな音が聞こえた。
鏡の中に居た声の主が思い切り額をぶつけたのだ。鏡には亀裂が入り、病室の温度が急激に冷える。
「……怒った? それともガッカリした?」
少女は身震いをしながら、両手でシーツを握りしめた。
『……姫が闇に囚われるならば、我はどんなことをしても連れ戻しましょう。どんなに厳しく辛い冬でも、かならず春はくる。姫の世界に春がないと言うならば、我が努力しよう。傍に居続けましょう。……時間がかかっても良い、だから姫は自身が独りではないと、いい加減気づいて……ほしい』
喘ぐような嘆願だった。
今にも涙がこぼれ落ちそうなほど、想いのこもった言葉に、少女は唇が震えた。
「……こないよ」
かたくなに、否定した。
少女は知っている。そして燈も思い出す。
たとえ世界の季節が巡っても、あの男の子と過ごす未来はもうこない。
切れ切れの記憶。いつも傍で遊んでいた誰か。
思い出そうとすると、過呼吸になって──どんどん少女の記憶から消えてしまう男の子。
前を向いて歩いたら一瞬で消えてしまう。幻のような誰か。
それが声の主と重なって──勘違いをしてしまいそうになる。燈は少女との記憶がハッキリと思い出した。なぜ、ここまで頑なに心を開くことを拒んでいるのかも──
『春になったら三色の団子を持って、桜を見に行くのもいいでしょう。姫は花見よりも甘い物の方に目移しそうだけれども……』
「こない……」
否定を口にする。
けれども少女はそんな未来があるのかもしれないと、期待が脳裏を掠める。拒否されても、否定されても声の主は言葉を続けた。
『夏は若葉が生い茂り、満点の星空を見上げるのはどうか。花火とやらを見に行くのも趣があっていい……。姫の
「こないって……」
否定しても、想像してしまう。
その時、少女は自分が笑っている姿を想像する。それが辛い。
『秋は見所が多い。銀杏と紅葉の時期で森に足を運び姫の足腰を鍛えるのもいいでしょう。病室に閉じこもってばかりでは、不健康といえますね。いっそ、山登りを本格的にするのも良いかもしれない。実りの時期は収穫祭もあり賑やかになります。祭りで神酒を片手に賑わい、姫は未成年ですから甘酒を用意しましょう。月見も風流だ、異国のはろうぃん、というのに興じるのもいいですね』
「…………」
無理矢理感情を押し込めて、凍らせた世界が音を立てて崩れていく。それを阻止するために少女は鏡を睨む。
その瞳には空虚など消え失せていた。煌めく瞳から今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
『……冬は白銀の雪が舞い、身が震える。けれどその分余計に触れ合い、一緒に暖をとって他愛の無い話をするのも良い。秋の収穫した果実を食べ、終わる年と始まりの年を一緒に……。姫が我を嫌っても構わない。けれど、我は姫を想い、ずっと守ろう』
不安げに瞳を揺らす少女に、声の主は優しげな声をかける。いつもの嫌味な言葉も、皮肉も今はない。
彼はずっとずっと伝えたかった言葉を選んで、言葉に込める。
『……姫、お慕いしております。どのような悪態をついても、我が儘でも……それがそなたの本心では無いと、知っているから』
誰よりも優しい言葉で声の主は話す。
誰よりも愉しそうで、嬉しそうに語る。
この先の未来が幸せであると、予言するように……。
「うそ……だ」
『嘘じゃありません。あなたが否定するなら、何度でも告げましょう。我はあなたを想っています。今のあなたを……』
少女の心にチクリと、痛みが生まれた。
今まで気づかないふりをしていた想い。胸が引き裂かれるように痛みが走った。
「……つぅ」
胸を押さえて小さく蹲る。呼吸も不規則で不安定になっていく。
『姫!?』
「帰って……」
告げる言葉に、声の主は息をのんだ。
「……もう、ここに来ないで」
息を荒げて少女は声の主の想いを拒絶した。
『……姫』
「ダメ……だよ。これいじょう……こころを……開いたら、あの子が……わたしをゆるさない」
『あの子? この病院にいる友人ですか?』
少女は首を横に振って「ちがう」と答えた。
「しろい、髪の……男の子が……。ぜったいに、許さないって……言ったの。わたしを助けようとして、しんじゃった男の子。わすれるなんて、許さないって……。わたしのたいせつなひとを……ふこうに、するって……」
ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。
『白い髪の? そんなことは絶対にありえない……。絶対に!』
声の主は、困惑しながらも少女の言葉を否定する。
「どうして、言い切れるの?」
『それは……我が──』
声の主は言いよどんだ。
「世界が嫌いだって、言っていたの……。わたし……忘れたくないのに、思い出そうとすると……息が苦しくなって……。きっと、あの子が……怒ってるの……」
『姫、その白い髪の少年にどこで会ったのですか?』
「ここに来る前……。その子の家族に言われた時、後ろでその男の子が私にいったの……」
『それはその少年自身ではない。おそらくそう思っているモノによる
声の主は少女を安心させようと、優しい声で告げる。
「……ほんとに?」
『ええ。我を信じてくれますか?』
目をきらりとさせて少女は涙をこぼして頷いた。
「うん……。あなたのことなら、しんじ──」
──ウソツキ──
粘着質な視線が少女へと注がれる。
あの声の主ではない。
それは魂の一部となっている式神より深部に存在している少女の闇。燈にはそれが見えた。自らの魂に存在する業と呼べる何か。
──ユルサナイ。ニドモヤクソクヲ、ヤブルナンテ……──
いつの間にか外は雨が降っていた。
病室の窓を叩きつける雨音。
深い霧と暗鬱の闇が少女の傍に忍び寄る。
均衡を保っていた心が揺らぎ、病室の隅に存在する暗がりが時を待っていたかの如く──《異界》の扉を開く。
「きゃああ!」
幼い燈は自分の影に吸い込まれて────消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます