とある少女の日常 五

 真っ白な空間。

 私の意識が一瞬だけ《物怪》と重なり合う。白い空間で出会った女人は、雉と共に旅立っていったのを見送ったのち、安堵した。


 天井が遥か彼方に存在し、周囲の壁も近いのか遠いのか等間隔が分からなかった。けれど、私はここが何なのかは知っている。

 私の夢であり、潜在意識の世界だ。

《物怪》の浄化を行うと時々、こういうことが起こる。

 意識が引っ張られて、夢──潜在意識、魂の形。言い方は様々だが、私の心を具現化した空間にたどり着く。


 真っ白な空間は、きっと病室を表しているんだろう。私の古い記憶は、紅蓮の炎。そして──真っ白な病室だ。次いで思い出すのは、一人の男の子。


 けれど、その先を思い出そうとしても霞のように消えてしまう。

 その男の子は、ときどき龍神と重なるのだ。彼と龍神では全然雰囲気や口調は違う。


 私は龍神が好きだ。でも、あの男の子を思い出すと、胸が苦しくて──頭が痛くなる。


(思い出すのが怖いから……? あの男の子の死を受け入れたくないから?)

 

 ──……! …………!──


 ふと声がした。子供の声だ。でも私の耳に届くことはなかった。


「待って、もう一度……」

「姫?」


 不意に降ってきた声に、私は顔を上げる。白銀の長い髪が揺らぐ。黒い軍服、整った顔立ち、酸漿色の双眸が私を見下ろしていた。


「龍神……」

「すみません。……《物怪》の浄化後に近づくのは、貴女の負担になると式神が言っていたので、私が来ました」


 差し出した龍神の手を私はそっと掴んだ。


「帰りましょう」と呟く声に、私は小さく頷いた。

 微睡んでいた時間は終わる。私の意識がゆっくりと目覚めていく──



 ***



「んっ……」

「姫」


 そう降ってくる声に、夢見心地な私の意識が覚醒していく。

 周囲を見開くと、鬱蒼と生い茂る森──私は救急用のマットの上に寝かされいた。私の上には黒のロングコートが掛けられている。それも二人分。たぶん、龍神と師匠のだ。

 式神の気配がない。おそらく私の影の中へと戻ったのだろう。


「もしかして、また……」

「ええ、気を失っていました。邪気を少し体の中に蓄積させすぎたのでしょう」


 龍神は私の隣に座り込んで、ずっと傍にいてくれたようだ。戦いの終わった後で疲れているのに……。私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「……ごめんなさい」

「謝る必要はありません。……任務は無事に終了しました。今、浅間と室長が後処理を行っているところです。それらも三十分ほどで終わり、帰還になるでしょう。お疲れ様でした」


 そっと、龍神は私の頭を撫でた。それがくすぐったくて、嬉しかった。


「龍神も……お疲れ様です」

「……まだ、この仕事を続けるのですか?」


 龍神の言葉に私は胸が痛んだ。

 彼は、私の心を現実に引き戻してくれた恩人であり、大事な人。この人と並んで歩きたくて、そういう人になりたくて私は《ゼロ課》に入った。

 私でなくても出来る役割。わざわざ引き受けたのは、いつかの自分の時のように、誰かを助けられるかもしれないと思ったから──というのもある。


(あとどのくらい頑張れば、貴方の隣に立てるんだろう)


 夜風が私の頬をかすめた。不意にモミジの葉が頭上から降り落ちてきた。お星さまのような赤や黄色の葉が、ほのかに光を帯びる。

 こんな粋な計らいは木霊たちだろう。その気持ちに感謝しつつ、私はぼんやりと降り堕ちる木の葉を眺めた。


「…………」


 せっかく一緒に居るのに、言葉が出てこない。あの病室を出てから、龍神は私と一緒に居る時間は短くなった。

 一緒に棲んでいるとはいっても、顔を合わすのは夜と朝のほんの少しだけ。前よりも素っ気ないし、手厳しいのは、私を大切に思っているから──と思いたい。


(……好きだって、気持ちを伝えたい。けど、《あの事件》で私は大事な何かを、忘れてしまっている……。過去と向き合わないまま、気持ちを伝えるのは……、あの男の子に対して……失礼な……気がする)


 モヤモヤする気持ちが、どうしても晴れない。寝起きで頭が働かない私は、ぐるぐると考えてしまう。


「姫……」

「なんですか?」と傍にいる龍神に言葉を返す。「お説教だろうか?」と私は身構えていたが──

「……先ほどの行為ですが、見苦しいと受け取ってもらっても構いません」

「…………へ?」


 龍神は唐突に告白をする。私は彼から「嫉妬」という言葉が出てきたことに目を見開いた。


「しっと……?」

「ええ。……ここ数年で貴女を慕うアヤカシは増えていきました。それもひとえに貴女の魅力であり、当然の結果ともいえるでしょう。もちろん、私もその一人ですが……」

「し、慕う? 嫌う、じゃなくて?」

「貴女は嫌ってほしいのですか?」


 どこか寂し気な声に、私は頭を振った。


「ううん! 慕ってくれていたなら、すごく嬉しい……」


 心臓の音がうるさいほど高鳴った。私は「自分も龍神が好きだ」と伝えるべく唇を開き──


「龍神、私は──」


 ──誰でも言うのは、やめろよ。あと……好きとかっていうのも……──

 ──僕は死なないし、トモリも絶対に死なせない──

 ──……生きて戻るんだ、今度こそ──


 男の子の声が耳朶に響く。まるで呪いのように、それは私の心に重い影を落とす。

 忘れることなど許さないと告げているかのように……。


「……龍神に伝えたい気持ちがあります。でも、その前に……《あの事件》で私に何があったのか、思い出さないと前に進んじゃダメな気がする」


 私は胸に募る想いを押し込めて、言葉を紡ぐ。


「……思い出したい人がいるの。何にも思い出せないのに、その子の声は私の中に残っている。《世界が嫌いだ》って言っていた男の子を、私は思い出したい。そして会いに行こうと思う」


 私は恐る恐る龍神へと視線を向ける。彼はしばし目を見開いて、言葉を失っていた。


「……姫がそういうのなら、私はいくらでも待ちましょう。《あの事件》の真相がどうあれ、私の気持ちは変わりません」


 龍神の冷たい手が私の頬に降れた。私は自分の手をそっと重ねる。


「うん。……じーさまや、×××式神なら思い出す方法を知っているかもしれない。……たぶん、この記憶は何かがトリガーになって封じていると思うから。だから、もう少しだけ、待って……」

「わかりました」


 きっといい方向に向かう。そう私は信じて疑わなかった。

《あの事件》よりも最悪なことなんてないって、そう信じていたからだ。

 なにより、龍神に好かれている。それが嬉しすぎて、正直浮かれていたんだと思う。


 私は絶望の足音が忍び寄っていることに──気づいていなかった。

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