第六幕 ~逃亡編~ 「失うことで幸福を知る」

第67話 イキテ……生きて

《真朱の宮廷》は一夜にして陥落。

 冥界の理が揺らぎ、天に向かって光の粒子が舞う中──

 秋月燈あきづきともりたちと護衛の任を引き受けた烏天狗の柳は、無事に合流を果たし竜馬りゅうまに騎乗して《鸚緑おうりょくの森》を抜けていた。目指すは東に位置する《青龍の鳥居》。


(すごい。馬の速さとは比べ物にならない……!)


 燈は肌襦袢の上に、白亜色のロングコート──軍服を纏っている。金色の刺繍には椿の紋様が編まれている。腰に佩刀はいとうしているのは、《退魔の刃》だ。あの戦況で式神である椿が刀を回収してくれていた。登山靴に近い黒のブーツは竜馬の鞍と共についているあぶみに乗せている。

 まるで風の如く竜馬は、白銀の竹林──舗装されていない獣道を駆け抜ける。

 竜馬とは龍と馬の混血獣で馬の体をしているが、花緑青はなろくしょう瑪瑙めのうの鱗。背丈は二・五メートルと大きく、頭部は龍で角が二本生えている。千里の道を駆け回り、水の上も沈むことなく走り続ける事が出来るという。

 柳と式神がそれぞれ手綱を引いて竜馬に騎乗している。燈は式神の前に座り、落馬しないように支えて貰っていた。


 一見、脱出は容易に思われていたが──竜馬の前には黒い外套を羽織った者が、有象無象に姿を見せる。否、それだけではない。冥界に住むであろう者たちがこぞって燈たちを襲撃してきた。四メートルを超える巨体、三つ頭を持つ番犬ケルベロスが、青銅の器具をこするような咆哮を上げる──いや、上げた筈だった。


 閃光が煌めいた刹那──漆黒の刃が三つの首を同時に切り落とす。


「邪魔だ、駄犬」


 迸る返り血を浴びる間もなく、竜馬はケルベロスをすり抜ける。燈の目には一瞬でケルベロスの姿が消え、その遠くで巨大な何かが倒れた音が耳に入った。


(み、見えなかった。……ってか、伝説や伝承の幻獣が、こんなにたくさん襲ってくるなんて……)


 式神は片手で手綱を引き、もう片方で敵を迎撃する。それもほぼ一撃必殺だ。


 ──ケケケッ! ミツケタゾ──


 鋭い爪と牙、長い尻尾、蝙蝠の翼、姿はゴブリンに似ているがれっきとした悪魔だ。名は邪悪の尾マレブランケ。彼らはヨーロッパ・中東の思想から生まれた《地獄国》、第八圏第五ののうに生息する。ほとんど短慮で残忍。他にも汚い乱れ髪スカルミリオーネ愚かな道化師アリキーノ霜を踏みにじる者カルカブリーナなどを十一人の悪魔が一斉に襲い掛かる。全方位同時の攻撃──だが、今度は烏天狗の柳が動いた。


「秘技、雹鬼の鎌鼬」


 その烏天狗は、漆黒の翼を背中に生やしていた。白い山伏の衣を纏い、白群色が混じった黒髪が揺らいだ。燈より背丈はあるが、小柄だ。烏の仮面のため素顔は拝めない、故に少女は傍に居る烏天狗が、養護教諭の柳だということに気づいていない。


 風が凪いだ。刹那──


 舞うように鋭い太刀筋が、襲い掛かった悪魔全てを返り討ちにする。烏天狗の武器は錫杖や扇などが多いが、柳は太刀を愛用していた。斬り倒した彼は、刀に付いた血を振り払う。


「我が王の聖域に土足で踏み込んだんだ、お前たちが死ね」


(うわー、強い。にしても、誰かに似てるような……。気のせいかな?)


 ──シネェ──



 柳の背後から悪魔──邪悪の尾マレブランケが鋭い爪を伸ばす。だが、柳には届かない。式神の影による漆黒の刃が、悪魔を塵へと還した。


「おい、。一人討ち漏らしてるではないか。主に刃が届いたらどうする」


「ん?」と燈は式神──椿の告げた名前に、クエッションマークが浮かんだ。初対面だったはずの二人だが、妙に連携が取れた戦い方。呼吸もあっている。


(もしかして、昔の知り合いだったとか?)


 柳は式神を睨み返す。


「人違いだ。小生は龍神に仕える臣下、烏天狗のやなぎと申す者。それより急ぎ鳥居に──」


「牛若。お前は主を先導して、先に行け」


 式神は指摘されようとも、その名を呼んだ。柳は憤慨しかけるが、彼の視線の先を見ると黙った。

 竜馬が嘶き足を止めたのだ。何か気配を感じたのかぶるぶると、鼻を震わせている。


(人……?)


 竹林から姿を見せたのは、男だった。人の姿をした彼は三十代ほどだろうか、精悍な顔立ち、黒い髪は漆黒の外套のようで、前髪も同様に長い。額には目があり、ギョロリとせわしく動く。修行僧のような絹の白布を羽織り、腰巻のスカート、肩に紅のスカーフを巻いている。両耳のイヤリング、腕輪は金色──身なりからそうだったが、雰囲気からして只者ではなかった。一歩動くたびにシャラン、と涼やかな音を奏でる。


「余がこちらに出張る必要は無かったか?」


 柳は一歩前に出ようするが、式神がそれを止めた。竜馬の手綱を引いて、式神は前に出る。


「相変わらず戦闘馬鹿なのはいいが、お前が倒れたら主の護衛はどうする気だ? ここは某が抑える」


 式神──椿の言葉に燈が動揺する。しかしそれは烏天狗の柳も同じだった。


「なっ、お前のような得体の知れぬ者に、この場を任せられるか!」


 二人のやり取りに、三つ目の男は気怠そうに頭をガシガシとかいた。


「ん、余はどちらでも構わんぞ。これもまた試練の一つだからな。二人掛かりでも構わんし、逃げてもよい。ただし……」


 三つの目が燈に向けられた瞬間、心臓を貫かれたかのような錯覚が起こった。威圧だけで戦意を折るほどの圧倒的な力。


「追いかけて殺すだけだ」


「あっ……」


 人間である燈は、眼前の相手に勝てるビジョンが全く浮かばなかった。体の震えが止まらない。歯がカチカチと音を鳴らす。眼前の男が人ではないのは明白だったが、神というにはあまりにも恐ろしすぎた。


「主」


 ぽん、と式神はその大きな手で燈の頭を軽く撫でた。少女が振り返るまもなく、彼は竜馬から飛び降りる。と、同時に三つ目の男が放った紅蓮の炎に、式神は漆黒の影をぶつけて相殺する。


 轟ッ!!


 双方の凄まじい威力によって相殺された衝撃波は、周囲の竹林を大いに揺らす。また乗馬していた燈や柳たちも、思わず目を瞑ってしまうほどの風圧だった。


(なんて威力……! 援護して三人で戦おうって言おうとしたけど、駄目だ……。これじゃあ、私が居たら邪魔にしかならない)


 燈は彼我の戦力差を冷静に判断し、式神──椿を見つめた。

 式神の姿は以前に見せた少年から二十歳前後の男性に成長をしている。少年とは別人と思えるほど逞しい印象を受ける。筋骨隆々、身長も以前は百七十ほどが今では百八十に届くほど。何より雰囲気が違う。武将と呼べるような貫禄が備わっていた。服装も着物と薄着では無く、紅の甲冑を身につけている。見ると頭部に、黒い二つの角が目立つっていた。


(以前の少年の姿から、どのような経歴を積めば、こんな歴戦の猛者みたいになるんだろう。ツッコミ──ううん、今はそれどころじゃない! 椿の話を聞くのは落ち着いてからにしよう!)


 重苦しい沈黙と、遙か向こうで響く衝撃破と爆音。白銀の空が緋色と黒い煙が目に入る。あそこで龍神は戦っているのだ、燈はここで本当に式神を残していいのか迷った。


「先に行け。なに、すぐに追いつく」


 椿はそういって暢気に笑った。燈を不安にさせないように虚勢を張っている訳でも、無理をしている訳でもない。普段の彼そのものだった。


「椿っ……!」


 式神──椿は横目で柳を見やった。それで彼は何をすべきか理解し、まず燈が騎乗している竜馬の腹を軽く足で蹴った。

「ヒヒン」と竜馬は驚き、前足を上げて素早く駆け出す。燈は慌てて手綱を握る。


「うわあ!!」


 燈の声は、連続的に爆発した轟音によってかき消えた。

 振り返る余裕など少女にはない。乗馬の経験もないというのに、猛スピードで竜馬が駆け出したからだ。


(のおおおおおおおお!! 無理無理無理無理!)


 燈の後を追って、柳は竜馬の手綱を引く。柳は紅の甲冑に身を包んだ男を一瞥すると、背を向けて駆け出す。


「無駄な足掻きを」


 三つ目の男は炎の矢を無数に生み出し、燈たちに向けて放った──いや、はずだった。漆黒の影が炎のように周囲を駆け巡る。

 三つ目の男が放った矢の全てが影に飲まれて溶解していく。万物すら飲み込む影は、不気味なほど黒々とした禍々しさを孕んでいた。


「へえ、やるね。……キミも零落した神だったとか?」


 三つ目の男に対して、式神は口角を吊り上げた。


「そんな高尚なもんじゃない。……それと矢はトラウマものでな。我が主に向けるのはやめて貰おうか──神の敵対者アスラ


 式神の膨れ上がる殺意に三つ目の男アスラは目を細めた。シャラン、と両腕輪の金属音を鳴らす。


「余の名を知って撤退を選ばないとは──面白い!」




 ***



 身近な所で爆ぜる音が止めどなく聞こえてくる。だが、今の燈は背後を振り向く余裕などなかった。なぜなら──

 少女は鞍にまたがり、手綱を握っているが、先ほどの勢いで片足のあぶみが外れてしまった。これではいつ振り落ちるか分からない。


 ──です……。……ずに……の……がみを……──


「ん?」


 燈の脳内に直接声が届く。だが切羽詰まった状況だからかノイズが酷い。何を伝えたいのかが聞き取れなかった。


「え、なに……!? と言うか誰……?」


「一人で急に何を言い出している! 手綱をもっと強く引け」


 燈は手綱を引こうとするが、あぶむが外れているせいで、踏ん張りが効かない。思わず前のめりになりすぎて、竜馬のたてがみに突っ伏した。


「ヒヒン!」と竜馬はいななくと、先ほどの倍のスピードで竹林を抜ける。が、燈は手綱よりも竜馬の首周りを必死に抱きしめる形になった。もはや下半身は、鞍から浮き上がりつつある。


(ふぁあああああ!! なんで、なんで速度上がったのぉおお!)


 すでに両手が痺れ始めしがみついている。限界に近かった。いや──


「あ」


 限界を超えた手はするりと竜馬の首から離れて、燈は落馬する。咄嗟に両手で頭を守る形で構えていたが──


 ぽよん


 柔らかながクッションとなって、少女は地面に叩き落されずに済んだ。とはいえ、獣道にずさーーっと、転げ落ちた。


「痛く……ない?」


 燈は慌てて起き上がり、自分の体に触れながら確認する。やはり、打ち身一つない。


 ──わーわー、トモリ──


 ──トモリ、ヘーキ?──


「あ、うん。大丈夫!」


 振り返るが、そこには何もない。竹林が爆風によって乱雑に揺れる。しかし、それらしい姿はなかった。ただ、何かいる。その気配は感じ取れた。


「あ──」


 何か口にしかけた燈だったが、脳裏に身に覚えのない映像が流れ込んできた。

 紅焔の炎と絶望的な出来事──

 奇跡に近い賭けを躊躇いなく選び、駆け出した自分自身──

 一緒にそこまで付き合うと告げた──あれは──


「あれは……」


 ぽろぽろと、燈の頬から涙が零れ落ちる。忘れてしまった《何か》が、今息を吹き返すように脳裏に過ぎった。


 ──わー、わー、トモリ。無事、ヨカッタ──


 ──トモリ、無事、死んでない、ウレシイ──


 それはか弱い存在。些細なことで消えてしまう。けれど、時間が経てば再び木漏れ日の元に現れる。《代替わり》と呼ばれるもので、転生に近い。ただ前の記憶も引き継がれる。そうやって彼からは生と死を繰り返し、万物に寄り添っていた。古きものであり、山神の眷族であり、精霊である《木霊こだま》。


「うん。貴方たちのおかげだよ。ありがとう」


 燈の目に彼らの姿は見えていない。冥界であっても微弱だからだ。目を凝らせば薄っすらと姿を見ることが可能だっただろう。だが、今の少女にそれほどの余裕はなかった。


「なにをやっている!? 死にたいのか!」


 燈から五十メートルも離れた所で柳は竜馬を止めて叫んだ。あまりの速度だったため止まるまでに、距離が開いてしまったようだ。もっとも燈を乗せた竜馬の姿は、もう見えない。


「すみません……!」


 燈は改めて周辺を見回す。竹林の中で見にくいが三メートルほどの巨大な岩境があり、注連縄が巻き付けられていた。白い火成岩の上で、白い蛇がとぐろを巻いてうたた寝をしているようだ。空が赤く爆音が聞こえる中で、蛇は呑気に微睡んでいた。


(すごい……。こんな戦場でも暢気に眠っているなんて……)


「スピードは落ちるが、小生の竜馬に乗れ」


(わっ!)


 いつの間にか柳が駆け寄り、燈へと手を差し出す。


「あ、はい!」


 燈は未だ傍に居るであろう《何か》に向かって、頭を下げた。


「助けてくれて、ありがとう!」


 ──トモリ、喜んだ。笑った!──


 くすくすと無邪気に笑う声が、少女の耳に届いた刹那──


「その通りですね~。やはり女性は笑っている方がいいものです。ですが……」


 唐突に現れた第三者の声に、柳と燈はぎょっとした。緋色の羽根を広げて、そのは突如姿を見せたのだ。

 柳と同じく背に烏の翼があり、藍色の僧衣姿に、目と鼻だけ覆った面をしており、口元は常に微笑んでいる。黒髪に朱色が混じった髪で、横髪は短いのに後ろだけが長く整っていた。彼は少女に向けて言葉を紡ぐ──


「すみませんが、死んでください」


 烏天狗は紅蓮の炎を生み出し、燈を飲み込まんと襲いかかる。


(なっ、間に合わ……!)


 ──トモリ、あぶない!──


 傍に居た木霊たちは、紅蓮の炎に向かって動いた。


 ──トモリ、……イキテ、生きて──


 風に乗って届く声は、懇願に近い想いが詰まっていた。










 それは木霊の記憶。何度失っても次の代替わりに引き継がれる想い。

 遥か昔、山と共に暮らしていたある集落の少女。万物を愛し、大地の恵みと恩恵を誰よりも慈しんだ、目のいい変わり者の娘だった。

 《木霊》は森に棲む万物の末端であり、清い場所を好んで木漏れ日に、わらわらと存在するモノ。力を使っても苔が、すこし増えるぐらいだ。

 《木霊》は話しかけてきた少女が、いつしか好きになっていた。一緒にいることが何よりも幸福だった──はずだったのに。

 少女は大人になる前に人間の作った法則ルールで、人身御供神への供物にされた。

 濁流に流され、冷たくなった少女。唇は緋色の紅が塗られ、白い衣に身を包んでいた。緩やかな川辺に上がった体は、あれだけの激流であっても傷一つついていない。


 そんなことを望んだつもりも、願ってもいなかったのに──

 とても悲しくて泣いた。とても苦しくて──

 人はそれを《神の恵み》だと言って喜んだ。違うのに。そんなんじゃないのに。


 白銀の長い髪の龍神も、同じことを思ったのかもしれない。

 万物に近すぎてそこに人格らしいものはなかったけれど、酸漿色の双眸はどこか寂し気に人間の頬に触れた。


 ──ヤクソク……ヲ……ハタサネバ──


 そう龍神は初めて口を開いた。

《木霊》は少女と約束はしていない。あまりにも当たり前のように傍にいた。だから、これからもずっと傍にいよう。

 死なないで、生きてほしいから。

 また笑ってほしい。魂の転生を繰り返して、忘れていても彼女は《木霊》を見つけた。

 声をかけてくれた。

「おはよう」「ありがとう」「だいすき」「いってきます」

 言葉を聞くたびに温かくなる。

 傍で抱き締められると、優しくて心地よい。

 お日様とおなじ、ぬくもり。










 ──わーわー、イキテ、生きて──


 ──トモリ、……また、遊んでね──


 《木霊》は躊躇ためらいなく炎に向かって飛び込み、燈の身を庇った。


「あ!」


 透明な何かが炎によって燃えて消えいく。それだけは少女にもわかった。だから──炎の中に手を伸ばす。

 、と。

 しかし、少女は背後から襟首を掴まれ、炎から引き剥がされた。

 柳は細腕でありながら、燈を後方へと吹き飛ばす。


「馬鹿者。自殺志願でもあるのか」


 烏天狗の柳に罵倒されるが、燈の耳に届いていない。

 少女の瞳には消え逝く《木霊》の姿がはっきりと見えた。お饅頭のように丸くて、ぴょんぴょんと跳んでいる。


 ──トモリ、また……──


「《木霊》さん!」


 その手は空を掴む。届かなかったと、悲観することすら許されない。何故なら──


「あれれ? 的が外れましたか」


「冬青、何のつもりだ!?」


 柳は突如現れた同僚に、冷ややかな視線を注いだ。しかし、冬青は何食わぬ顔で受け流す。


からの勅命だよ〜。本当は《王の花嫁》を傷つけたく無いんだけど、それが今回の《役割》だから、しょうがないよね」


 緊張をほぐそうと冬青は冗談交じり話すのだが、燈には眼前の男が恐ろしく映った。


「何を訳の分からぬことを!」


 同じ烏天狗の柳は問答無用とばかりに、竜馬に騎乗したまま冬青を斬りつける。人馬一体。即席の竜馬であっても、彼は難なく乗りこなし、見事な技で冬青を追い詰めていく。

 繰り出される剣戟は苛烈にして鋭い。竜馬の体当たりに冬青は竹林の中へと吹き飛んでいく。岩境にぶつかると、眠っていた白蛇がビクリと目を見開いた。


「ぐっ……。ハハッ……本当にキミは容赦ないね~。これでも数百年以上一緒に、我が王を支えた同僚じゃないか……」


「そうだ。だからこそ我が王を裏切る行為は許せない」


 柳は刀を振るわせ怒りに震えていた。それはかつての仲間だったから余計にその想いが強いのだろう。


 燈は彼から少し離れた所で周囲を警戒しつつ身構えていた。あまり長く留まっていれば、侵略していた来た冥府の者たちに囲まれかねない。泣いている場合ではないと、涙を乱暴に拭った。


(私の戦力じゃ、真っ向から開いてなんて出来ない。せいぜい一回か二回の攻撃を防げるかどうか……)


 燈は自分の腰に下げている《退魔の刃》へと視線を向けた。幸いにも地下通路の奥にあった部屋で見つけた白のロングコート。これは警察庁、《失踪特務対策室》の軍服と同じ特殊素材を使っている上に、《織物の神》によって紡がれたという。物理的な攻撃はもちろん、《物怪》による攻撃もある程度緩和してくれる。


(主な戦力は刀。あとは──)


 少女が必死に頭を働かせている間に、冬青は体をゆっくりと起こす。岩境に叩きつけられた時に、肋骨が何本か折れたような音が響いていた。そのせいか動きが緩慢で、のらりくらりとして見える。しかしその動きは柳の神経を逆撫でするには十分だった。


「冬青、絶対に許さない……! 我が王の……臣下でありながら……!」


「まあ、私もキミの立場だったら……、きっと怒るだろうね~」


 冬青は血反吐を吐きながら、立ち上がると同時に紅蓮の炎を宙へと浮かばせる。数十という炎の玉を一瞬で生み出す力。その熱量で周囲の気温が二、三度上昇した。


「そりゃあ、私だって《そちら側》でいたかったよ。でもね、しょうがないじゃないか。不死鳥である私がこの場所に舞い戻るための《条件》が、これだったんですから……」


「また訳の分からないことを! ここで斬り捨てる!」


 柳は竜馬の腹を軽く蹴ると、紅蓮の炎など気にせずに突貫する。


(条件? それにこの人の言い回し、妙に気になる……)


 ふと、燈は冬青と目が合った。ニッコリと微笑む姿に、少女は背筋が凍りつく。にこやかに笑っていながら、放った殺意は簡単に少女の体を氷漬けにした。


「………!」


 柳は燈を振り向かずに、一撃必殺に力を籠める。


「死ね、冬青!!」


 人馬一体の一撃──鋭い突きに、冬青は胸部を貫かれた。血飛沫が大量に吹き出し、白銀の竹林を赤く染め上げる。


「ぐっ、がはっ……」


 返り血がかかろうとも柳は眉一つ動かさなかった。そこに慈愛も未練もない。ただ敵となった者を葬るという顔だ。戦い、殺し慣れている節がある。だが、彼は大事なことを見落としていた。


「……ハハッ」


 掠れた声で、ひゅうひゅうと息を吐きながら冬青は柳を見上げた。虫の息だというのにその双眸は光を失っていない。


「あのさ、柳。キミって……一つのことになると……周りが見えなく……なるよね~」


 柳は眉を寄せるが、冬青が何を指しているのか気づいた瞬間、慌てて振り返った。彼の目的は、秋月燈の護衛だ。遅まきながら彼の視界に飛び込んできたのは、あまりにも残酷な現実だった。


「秋月燈!」


 叫びも虚しく、業火の炎が連続的に爆散した。



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