《幕間》 空白の黒幕

 夏の熱気を含んだ生暖かな風が暗がりの病室に入ってくる。緩やかに白いカーテンがなまめかしく踊る中、銃を向け合う二つの影。

 一人はArtifactアーティファクト knightsナイツ試作九号機・通称ノインと、警視庁、《失踪特務対策室》室長──浅間龍我あさまりゅうが。二人ともすでに《特別災害対策会議・大和》特殊迎撃部隊に所属する言わば上司と部下の関係だ。


 ノインは眉間に皺をよせ、歯を食いしばった。改めて対峙して眼前にいる男を見据える。深緑色の長い髪が風によって揺らぐが、その巨体は大樹の如く聳え立つかのようにどっしりと構えていた。

 向けられる殺意は重く、鋭い。

 纏う空気はより深淵のように黒く禍々しい。眉一つ動かさず、男は銃口をノインに向けたまま佇んでいた。


「少なくとも……俺の知る浅間龍我という男は、味方に凍り付くような殺意を向けるような人間ではない。なにより


 ノインは浅間と直接関わったのは、そう長い時間ではない。だが、それでも浅間龍我という男が、どんな奴なのかを知るには十分だった。

 ノインはやや特殊な経緯で、警察庁に着任している。いくら内部で実力主義階級戦力のランク付けが認められていても、異物または腫れ物に触るような反応の輩が多い。しかし浅間はノインをひとりの人間として扱い、そしてある程度の規則違反やら行動に目を瞑ってくれた。

 だからこそ秋月燈のバックアップや、支援などが迅速に行えたのだ。信頼していた。これからも、《異界化》進む中で過酷な現実と戦う、頼れる指導者だと信じて疑わなかった。


(芝居の可能性──〇・五パーセント。威嚇による反応速度の確認──つまりテストの可能性……二十三パーセント。周囲に《物怪》がいるため……、浅間龍我が《物怪》に乗っ取られた可能性──、荒御魂による暴走──)


 ノインは演算を繰り返すが、どれもパーセンテージは低く邪推もいいところだ。無意識的にか、はたまた気づいていないのか──その可能性を失念していた。


「俺がこの一連の《黒幕》の可能性は考慮したのか?」


「なっ……!」


 完全に虚をついた言葉に、ノインは言葉に詰まった。その一瞬の躊躇いを見据えて浅間は引き金を引いた。が──金属音が僅かに病室に響いただけだ。


(空? 最初から弾を抜いていたのか)


 その僅かなタイムロスがノインに反撃の隙を与える。彼はワルサーP99のトリガーに指先をかけず──浅間に向かってゆっくりと放り投げた。


「!」


 現人神である浅間であっても、目の前に放り出された拳銃に一瞬視線を向けてしまう。そしてその手の陽動は、ある少女がよく使っていたものでもあった。

 秋月燈。

 彼女の姿が浅間の脳裏に過ったのも相まって、一秒ほどノインの存在が薄らいだ。

 それを見越して──もう片方の腕に内蔵されていた棒手裏剣を投げる。予備動作を最低限に放たれたソレは、標的ではなく病室の壁に突き刺さった。

 浅間はあの巨体で──信じられないほどに軽々と窓から素早く飛び出し、戦いの場を外へと切り替える。ノインは素早く浅間の攻撃を読み、棒手裏剣を投げた。

 空中では身動きが取れないと判断による追撃だったが、浅間には掠りもせずに、三階から飛び降り、数少ない足場で建物へ飛び移っていく。

 ノインも拳銃を拾い上げると、窓から飛び出す。浅間の後を追ってビルの合間を飛び移る。もっとも、ノインは浅間ほどの脚力は出せず、腕からワイヤーを使って速度と移動手段をカバーした。


「反応速度──予想より三・七秒速い。動きや反応パターンの更新──同期」


 都内からの避難勧告もあり、ビルの灯りは転々としている。街灯の明かりもか細く、ここが首都圏とは到底思えないほど、人の気配がなかった。


 暗がりのビルの合間を飛び交いながら、先に発砲したのは浅間だった。病院だから気遣っていたのか、抜いたのは回転式拳銃、四十四マグナム。正式名はS&WM、二十九回転式拳銃の中で、世界最強の拳銃と言われた破壊力のある銃。昔の映画で車のエンジンを破壊するシーンは、フィクションではあるがそれに近い威力はある。それを躊躇いなくノインに向けて撃った。


「予測可能領域──戦術コード〇二三五」


 凄まじい銃声音と共に、弾丸がノインへと襲いかかる。

 だが、ノインは棒手裏剣を投げて弾丸の軌道をずらす。間髪入れずに浅間はトリガーを引いた。その全てをノインは予測と分析で回避する。ゴールデンウィークでの賭け試合とは比べ物にならないほど動きは洗練され、浅間に取ってノインはやり辛い相手へにまで成長を遂げた。


(単騎で追撃と見せかけておきながらの、ドローンによる援軍か……!)


 浅間は舌打ちしながらドローンに警戒しつつ、一撃撤退を繰り返す。

 外に出た瞬間からノインは周囲を巡回していた警備用ドローンにアクセスし、上位命令を上履きして援軍として浅間に追撃命令を出していた。


 浅間を直接狙うといったものではなく、誘導させるためのドローン。主に飛行可能な形状は六十サイズの段ボールに似ている。クアッドコプター四枚翼形のものだ。素材は高熱、高圧環境でも使用可能の耐熱特殊合金によって作られた警備用ドローン。主に山手線内に人が戻らないように随時警備を行っている。センサー付きカメラはもちろん、立ち入り禁止区域に入った瞬間、強制退去コード〇〇九が発動し、機内に内蔵されいている炭素繊維に特殊合金の鉄線で編み込まれた捕縛ロープによって拘束する仕組みになっている。

 それ以外にはペイント弾、閃光弾、ゴム弾と殺傷能力は低い。しかしノインはドローンのスペックを最大限利用しつつ、浅間を廃ビルまで誘導するに至った。

 足止め、一撃撤退、陽動、けん制の発砲。そのすべては浅間の呼吸を常に感知し、それを崩す。


 五月に起こった《異界化》及び《物怪》との、大規模戦闘の経験があってこその成果ともいえた。それぞれの役割の中で最大限生かす方法──


 浅間が窓ガスもない倒壊寸前の廃ビルに入った瞬間、真昼ような照明が彼の姿を照らし出す。ドローンの照明機能により、黒い軍服が闇からあぶりだされたように見えた。

 浅間は殻薬莢を地面に落とすと、すばやく装填する。その時間は数秒であり、ノインが廃ビルに入り込んだタイミングでもった。

 ノインと浅間。互いに相手の心臓に銃口を向けて対峙する。

 先ほどとの相違点。

 浅間の周囲にドローンが数機飛び交い、いつでも拘束可能な準備を整えていた。

 囲まれた中で、浅間は脱出経路を確認するが、全て絶たれており、力業で押し通るか、援軍などでない限り難しいと判断する。

 ──というのも、ノインの影にいる眷族ヤマツチによって、この建物全体に透明な糸が張り巡らされている。これも捕縛用と同じように鉄線で編まれた糸を、触媒として使っているため、浅間が万が一本来の力を使ったとしても、耐えうる強度に仕上げていた。


「降参だ。ゴールデンウィークでの戦いとは別人だな。己の武器が何かを知ったか」


 浅間はあっさりと殺意を消し去り、拳銃を床に置いた。いつもなら「不意打ちによる試練」とノインも安堵するのだが、今回ばかりはそうもいかない。より一層緊張した面持ちで、眼前を男を睨む。


「虚を突く。……嫌というほど、あの時ゴールデンウィークに体験している」


 ノインの銃口は浅間の心臓に向けらたまま、未だ指先はトリガーに触れていない。


「そうか」


「…………」


 ノインは浅間の周囲に纏わりつく深淵を見つめた。黒々とした炎が影から湯気のように噴出している。その影は《死》という概念そのものが、形を帯びて顕現したかのように思えた。


「警戒を解かない、か。まあ、おおむね正しい判断だ。今後の事を考えればやはり、貴様が《適任者》だと言わざるを得ないな」


 浅間は目を伏せると、小さくため息を吐いた。ノインは浅間の言葉が飲み込めず、口を開く。


「……今後?」


「ああ、俺が現世からいなくなった後は、貴様が皆を引っ張っていけ」


 浅間の言葉に、ノインは耳を疑った。彼の受けた衝撃を他所に、浅間は話を進めてしまう。


「──と言っても、俺からの言葉だから、その時が来るまではピンとこないだろうがな」


 妙な言い回しに、ノインは眉間に皺を寄せた。彼の表情を見やって言葉を紡ぐ。


「簡単に言えば、今の俺は一九九九年の《MARS七三〇事件》から起こったこと全てを把握している。つまり、《理》の施した記憶喪失や上書きもない」


 浅間は続けてこう口を開いた。様々な要因と《荒御魂》による演出が、今まで悲劇を生んだ。それは浅間の半身による業だから、引き受ける責任があると語った。


「貴様のよく知る俺は、いくつかの制約のため、記憶が抜け落ちている状態というだけで多重人格者だとか、乗っ取られたとか、別人という訳じゃない」


 全てを知らないからこそ、記憶が欠落した浅間の行動には演技や裏がない。だからこそ誰も──おそらく本人すら気づいていないだろう。

 確かに《荒御魂》が《黒幕》の要因を占めているなら、筋が通らなくはない。だが、それならば責任を取るのは木下馨一や、《荒御魂》が取り憑いた者たち自身だ。浅間は常に戦ってきた。誰よりも世界を守ろうとしていた人物の最後が、世界に裏切られる。そんな事があっていい訳がない。ノインは思考するが、感情が先に出てしまって、考えがまとまらなかった。


「理解不能。……疑問。何故、記憶の一部を削除している?」


「それが《理》と話し合った結果、俺が唯一願いを叶える方法に繋がるからだ」


 浅間の言葉にノインは釈然としなかった。彼はすんなりと悪役を受け入れていたからだ。そして彼は個々人の願いの為だけに、全ての人間を欺いていたというのだ。秋月燈はもちろん、ノインも浅間のことを信頼していた。だからこそ、彼の言葉に衝撃と失望、そして怒りが込みあがった。

 全てをノインに押し付けて、眼前の男はいなくなるというのだ。


「…………貴方は」


「俺不在でも、戦力増強ということで宇佐美楓うさみかえでの配属を推薦してある。もろもろの雑務や情報に関しては滝千夜たきせんやに聞くと良い。アイツにはすでに話を付けている。それと呪術関係の専門家として出羽耕哉ではこうやもいるが、《異界》が顕現しつつあるこの状況下では、あの男を引っ張ってくる必要がある」


「……あの男?」


 ノインは自分の声が掠れていたことに驚いた。これも動揺から来るものなのか。全身義体化しているというのに、妙な気分だった。


「ああ、貴様が《心の友その弐》と認めた男の兄だ。……といっても柊次しゅうじではなく、長男である冬樹ふゆきの方だな。恐らく山手線内にアイツの店も含まれるだろうから、店ごと異界から守る為の術式を組むよう手配すること条件に、引き入れが可能だろう」


 淡々と今後のスケジュールを口にする浅間にノインは感情が追いつかない。けれど、彼が口にしていること全ては理解が出来た。頭にも入ってきている。

 それなのにモヤモヤが晴れない。


「…………っあ」


 ノインは口を開くが、言葉が出ずに歯噛みした。


「木下馨一は隔離施設にいるが、万が一……。術者が足りないという非常事態の時にだけ条件付きで、釈放できるように目途を立てておく。詳細は後でメールでいくつかに分けて送っておこう。今後予想される出来事も──」


「なぜ、それで俺を指名した? 浅間龍我、貴方の目的は……」


 浅間は「ああ」とノインの言葉に微苦笑した。


「空白となっている《黒幕》の座を勝ち取ることだ」


「空白……、黒幕……? 勝ち取る?」


 まるで新作ゲームのルールブックを読んでいるような気分だった。ふざけたような話だが、浅間は至って真面目にノインに話す。淡々と用意されたセリフを口にしているかのようだ。


「《異界》は処理し切れないほどの《物怪》が有象無象に存在している。それらを現世に顕現している器に全て押し込めて、《化物》という厄災を人為的に生み出す。それが俺の言う《黒幕》の事だ。その座を勝ち取れば、退として舞台に上がることが出来る」


「ふざけて──」


「ふざけているものか」


「理解不能──疑問、なぜ退治されることを目的とする?」


 浅間は心底羨ましそうにノインを見つめた。羨望に近いかもしれない。


「まあ、それが普通の反応だ。……冥界の神々が《十二の玉座》という《役割》を担っているのには、目的がある。《願いを叶えるきっかけ》を得られるというもの。大なり小なり、可能性がある。龍神は《ある魂》の転生者と出会うこと。……可能性がほぼゼロだったが、数千年の時を経て巡り合う機会が訪れた。それが今というわけだ」


 ノインは黙ったまま浅間の話に耳を傾ける。いつだったか、四季××とチェスをした時に、そのような話をしていた。


 なぜ転生者に会いたいのか、記憶も人格も異なる他人だというのに──という印象をノインは受けたのを覚えている。

 なぜ固執するのか、執着するのか。

 理解できなかった。それだけの長い時をたった一つの些細な願いのために投げうてる。ある種、狂人ともとれる行為。

 しかし、それと同時に彼らの願いは、本当に些細なものなのだ。世界征服だの、破滅や自身の地位を確固たるものにしたい──などという願いからかけ離れている。


「話を戻すぞ。つまりはお膳立てされた舞台、事態収拾のための配役が必要だということだ。歴史を見ればわかるように、化物、厄災、禍津神、鬼、物怪……名称は様々だが、ソレが現れた時に対峙する。世の中を歪めて、悪しきモノが跋扈する分かりやすい展開。押し付けられた《黒幕》が必要だということだ。いつの時代もな」


「……それなら木下馨一こそ《黒幕》であり倒すべき者では?」


「ああ、だが既に先の事件で《荒御魂》は取り除いた。今はただの人間だ。ただの人間であるなら配役からは外される」


 ノインは苛立ちながら、矢継ぎ早に口を開いた。


「ならその配役を決めているモノを──」


「それは集合無意識であり、人類の総意というものだ。そしてそれが破綻しないように、調整をしているのが《理》であり、金色の海を揺蕩う集合無意識であり、また万物そのものでもある。神という概念とは異なるので、何とも曖昧模糊な説明になるがな」


 浅間が言うには歴史、集合無意識とは巨大な川のようなものだという。川の流れを変えるのは容易ではない。


「疑問。これは人類全てが負うべき責務。それを個々人に押し付けては、何も変わらないのではないか?」


「ああ、その通りだ。末法時代の時もそうだったが、《物怪》は人の負の感情から生み出される。そのたびに《異界》との境界が曖昧模糊となって溢れ出た。その時の当時も退治され、悪役を押し付けられた。だからこそ今回は神々と精霊と人間によって、それらを回避するために《MARS七三〇計画》が発案された」


 七福神の転生者たちによる大規模な展開術式。マイナスをプラスに変換させ、個々人が負債を背負わないで済む方法──しかし、それは水泡に帰した。


「あの計画で、足りなかったのは強い《祈り》だと言う結論に至った。だからこそ二〇一〇年に計画した《OperationO AbsoluteA ZeroZ》はある意味、賭けに近かった。本来であれば《特別災害対策会議・大和》の組織編成を先に済ませてバックアップも整った状態にしたかったが……」


「……アクシデントがあった?」


「その通りだ。予想以上に一九九九年で起こった《MARS七三〇事件》の後遺症や影響によって人員が揃わなかったところが大きい。神の転生者だった者たちまで、みな《未帰還者》へと陥った」


 揃わなかったピースと事実がノインの中で、点が線へと結びつく。それは記憶を失った浅間が辿り着けなかった答え。

 否、辿り着いた瞬間に、記憶から抜け落ちたのだろう。


「疑問。負のエネルギーを正に昇華させる構造システムが、他の封じられた場所で正常に働いていたのであれば、《異界》や《物怪》がここまで深刻に増えるはずがないのでは?」


「そうだな。人間が《祈り》を捧げ続けていれば、こうはならなかった」


「祈り……?」


 確かに日本における信仰は、希薄とも言えるとノインは思えた。


「ああ。自身の私利私欲ではなく、万物への恩恵だ。利己的で腐敗した欲望なんぞが《祈り》だとでも思うのか?」


 それも歴史の中で《現世御利益》を高らかに謳ったツケなのかもしれない。人々は代わりに《祈り》ではなく《金銭》を捧げた。それにより立派で贅を凝らした社が建てられたとしても、本来の機能システムを理解している人間が減れば起動せず、逆に欲望という闇が封印を蝕み──《異界》が広がる。


「別に今の時代の人間だけじゃない、この国の歴史は血と怨嗟の上に成り立っている。それを忘れ、否……見ないふりをして、先延ばしにしてきただけだ」


 浅間はノインから奪ったレベッタM92をノインに投げて返した。几帳面にも銃弾の入っていない拳銃を、ここまで持って来ていたようだ。彼はその銃を受け取り、ワルサーP99も戻す。


「だから次は貴方が《黒幕》になると……」


「ん。ああ勘違いするな。俺はずっとその《役割》を望んでいたんだ。それが唯一俺を殺すための方法だからな」


 浅間は自分の願いを告げた。自らの死──

 最強の男の言葉に、ノインはその意図と思いを推し量ることが出来ない。


「……なぜ」


 今日何度目になるかわからない疑問。浅間の考えがノインには理解できなかった。


「数千年生きてきたのは、目的があったからだ。息子だった魂の転生者を殺さずに《荒御魂》だけを回収、そして俺と渡り合うだけの人間の出現。俺は自らの命を絶てない。かといって条件がなければ、死なないからな」


 全ての条件が揃う奇跡。それが今回だという。

 そこでノインはあることに気付く。では、浅間を倒しうる人間なのか。少なくとも浅間と対等に戦える人間はいない。それこそ神々の力を借りない限りは──


「……まさか、貴方を倒す人間というのは」


「神々を味方にでき、尚且つ俺に向かってこれる人間はそう多くない。なにより、アイツはどういう意図があったのかは分からないが──俺の願いを叶えることを条件に弟子入りをした」


 全ての記憶がある浅間は、馬鹿弟子とのやり取りを思い出す。あれは、一九九九年の《MARS七三〇事件》から二年半が経った頃だろうか。



 ***



 二〇〇一年××月

 六条院焔が孫を連れて栃木の訓練場にやって来た時だ。

 山々の連なる緑豊かな土地での体力強化。新たに零課のメンバーを選定する為だったが、目ぼしい人材は今のところ一人ぐらいだ。四季××、いや、その頃は既に龍神と名乗っていた。


 休憩時間に浅間のところにやってきた少女は、小学校低学年だったろう。脆弱な小さな命は、浅間に歩み寄った。普通の子どもなら、強面な顔を見て泣き出すはずだったのだが……。

 木漏れ日の木々の下で、あの少女は「弟子入り」させてほしいと頭を下げたのだ。「剣術の修行を付けてほしい、もっと強くなりたい」と────


「俺にメリットがない。それとも貴様は、俺に何か提供できるものでもあるのか?」


 下らないと茶番に付き合えず突き放した言葉だったが、少女は必死で考えてこう答えたのだ。


「貴方の願いを叶える」と。


 あの時程、意表を突かれたことはなかった。白紙の小切手を手渡してきた少女に浅間は口元を緩めた。


「俺の願いを? たとえば──俺を退とか」


「退治……? わかりました!」


 あっけらかんと少女は頷いた。あまりにもあっさりというので浅間は、少しばかり殺意を込めて脅かす。


「おいおい、遊びじゃないんだぞ。本気でその覚悟があるのか?」


「うん、そしたらアサマ、?」




 ***



 懐かしい記憶。

 思えばあの時から馬鹿弟子は、予想をはるかに超える答えを返していた。そして宣言通り、彼女の周りには浅間と対等に戦えるだけの戦力が揃っていたのだ。

 何を想ってあの発言が出たのか、その意図は浅間にも分からない。だが、それでも人間でありながら、《神々》と《厄災》の助力を得られる存在は秋月燈だけだった。


「……心の友その壱に、師匠殺しをさせるつもりか!?」


 ノインの目つきは鋭さを増し、声も低いトーンになった。だがそのことを本人は気づいていない。友情、恋慕、それとも恩義──どちらにしても、秋月燈は不思議と人を動かす。

 たとえその場にいなくとも……。


「それも《約束》のうちだ。なにより弟子は師を乗り越えて貰わないと困る。まあ、失敗したら、またその機会が来るまで生き続けるだけだ」


 その宣言は秋月燈の死を意味していた。師である浅間は、あっさりと言ってのけたのだ。あくまでも自分の目的を優先としたその言葉に、ノインは敵意を浅間に向けた。


「……そこまで聞いて、俺が何もしないとでも?」


「いや。むしろ勝手に動いてもらおうと思ってな。保険という奴だ。さっきも言ったが、《黒幕》──つまりは《異界》からあふれ出す深淵そのものの鋳型が誰になるか。誰が《その役目》を担うか。まだ決まっていない。万が一、《黒幕鋳型》が決まらなかった場合、封じた者たちへと力が注がれ、各地の厄災が蘇る。そうなればこの国は崩壊するだろう」


「…………」


 その凄惨な未来をノインは考えて、被りを振った。


「特に厄介なのには、秋月燈の影にいる奴だな。が同時に目覚めでもしたら、目も当てられん」


 二つの厄災?

 ノインは眉を顰めた。学校で見せた巨大な黒い塊、あれが厄災だというならわかる。だが、浅間龍我はと告げた。もう一つは──

 影──強大な力。

 あの時、あの式神は何と言っていたか──


 ──リスクが高いからだ。だから出来るだけ、この手は使いたくなかった──


「なっ……」


 ノインは思わず声が漏れた。

 そもそも浅間のセリフにも出てきていた《厄災》。それをノインは勘違いしていた。

 秋月燈の周囲には神である龍神と、二つ目の《厄災》が傍にいたのだ。


(それなら俺は、俺にできることをするまでだ)


 ノインは知らずのうちに力強く拳を握りしめていた。



 ***



 時は戻り、二〇一〇年八月三十一日

 四季冬樹による術式の再構築が終わりつつある中、ノインは塞がっていく結界の中に彼は突貫する。


(あと一〇メートル……、八……、これなら!)


「甘い」


 浅間の放った金色の雷が、ノインに直撃する。黒い煙と爆発によって彼は意識が飛んだ。


「ぐっ……!」


 ノインは飛びかけた意識の中で、秋月燈の姿がよぎった。


(このまま、行かせるものか……!)


 ノインは手を伸ばし、照準を構える。起動補正を演算する中、唇を開いた。


「室長……、行けば貴方は……!」


「本当に覚えていないのだな」そう言いかけて、ノインは言葉を濁した。失った記憶、それでも彼の中でもすでに何のために向かうのか、気づいていた。

 記憶があろうがなかろうが、おそらく浅間は止まらない。その目的を果たすために手段は選ばないだろう。


「だから何度も言わせるな。任せたぞ」


 ノインの手は空を掴み、紙吹雪が舞う中で再び結界が再構築していく──

 完全に結界が塞がる前に、ノインは指差しをした。刹那、小さな破裂音が鳴る。ただその音はノインだけしか耳に届かなかった。


 打ち出され何かが、浅間の黒いローブに付着する。


(ここで打てる手は打った……。後は頼んだ、ヤマツチ)






















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