第63話 MARS七三〇事件
一九九九年七月二十八日とある公園──
セミの鳴く声が響く中、木漏れ日の下で燈と××は地面に絵を描いていた。
「できた! 椿と×××の絵!」
木の枝で描いた幼女の絵は、人らしい者と獣というのが、かろうじてわかる程度だ。それでも彼女は満足気ににこにこと笑った。
「……なんでアヤカシなのさ。普通は家族とかじゃないの?」
「むう。椿と×××は家族だもん」と燈は頬を膨らませて怒る。××は幼女の表情がころころと変わる姿が見たくて、ついついからかってしまう。少年は自分の変化になんとなく気づいていたが、それを表には出さなかった。
「大人になったら、×××をかいほうして、椿もじゆう、にするの!」
(椿はあの鎧武者だとして……、×××はなんだ?)
少年は話がズレたので戻そうと口を開いた。よく考えれば××は燈の両親のことをあまり知らない。保護者として顔を合わせたのは、祖父である
「そうじゃなくて、本当の家族とかは?」
「うーん。お父さんとお母さんと妹がいるけど……」
珍しく幼女は言いよどんだ。
「けど、なに?」
「あんまり好きじゃない。いつも妹ばっかり構って、わたしは外で遊んできなさいっていうの……。わたしがこどもっぽくない、かわっている子だから、お家に帰るの……いやだったりする……」
苦いものでも食べたような顔で燈は笑った。××はそこで自分の家族が、普通じゃなかったことに気づく。そしてどれほど恵まれているのかも理解した。
人とは違うものが見える、聞こえる、触れられるなら──
それは常人には理解できない世界だ。人は理解できない者を忌み、蔑む。それをすべて知っていながら、目の前の幼女は「世界が好き」だと笑っている。
「……キミは、人間が嫌いにならないの?」
「じーさま好きだし、××や、××のおにーさんも好きだよ。それに、なつきも好き」
少年は「好き」という単語にビクリと肩を震わせた。だが、その機微に燈は気づいていない。
「××は? 世界が好きになった?」
「……さあ」と言葉を濁す。だが、幼女はいつも目をキラキラさせて少年を見つめる。その力強さと輝きに、直視できない時がある。
「ねえ、××! 明後日、七月三十日は、ひま?」
相変わらず唐突に話を変える幼女に、××は溜息を漏らした。
「たぶん、大丈夫だと思うけど? なに?」
「んとね! いちにち、かおけおち しよう!」
「…………はぁ」
少年は片手を顔に当てて深い溜息を吐いた。目を爛々とした幼女が「かけおち」という単語をどこで知ったのか、などというツッコみが喉まで出かかったが、堪えた。
「…………えっと、意味が分からないんだけど」
「んとね! 明後日、お父さんとお母さんが、水族館に行くって! あの新しくできた、まぁずーしてぃー」
「ああ、池袋の……。両親と行きたくないってこと?」
燈は首を横に振った。ぶるぶると首を振る姿に口がほころんだ。
「ううん! 水族館好き。……でも、あの辺、ヨクナイモノがたくさんいて、すごく怖いの。じーさまも、あそこには近づくなって……。椿もえいきょうを受けるから、しばらく姿が出せないって……」
燈に見えるように、少年にも黒々とした霧の塊が、池袋周辺の空に漂っているのに気付いている。まるでヨクナイモノをわざと一か所に集めているかのようだった。
「いいけど……。どこにいく? この辺じゃ、親に見つかるだろう」
「んとね。××となら、どこでもいい!」
恥ずかしげもなく答える燈に、××は顔を俯かせた。
「そういうセリフ……」
「ふえ?」
「誰でも言うのは、やめろよ。あと……好きとかっていうのも……」
「やだ!」
「キミは……」と顔を上げた瞬間、燈が目の前にいた。同じ目線で、視線がぶつかり合う。
「好きっていっぱい、言わないと伝わらないから、いっぱい、いうの」
「なっ!?」
××は燈との距離が近くて、慌てて後ろの下がった。思わず尻もちをついてしまうほど、少年は心臓が高鳴っていた。
「ふえ!? ××、大丈夫?」
幼女の差し出した手を少年が掴む。燈は頑張って引き上げようとするものの、力が足りず逆に××の上に倒れた。
「ふあ!?」
「……はあ」と、少年は深い溜息を落とした。服は砂まみれで汚れるし、痛い。散々だと思いながらも、小さな心臓の音と確かなぬくもりに××は顔を上げた。
太陽のような笑みを浮かべる幼女と──澄んだ青い空。
眩しいほどに世界の色が、少年の視界を明るくする。単なる空がいつから、煌めいて美しくなったのだろう。
「……××? だいじょーうぶ?」
「平気。……じゃあ、明後日の朝八時にここで待ち合わせ。どこに行くかは、当日になってから……。それでいいだろう」
燈は「うん」と頷いた。自分で起き上がるとぴょんぴょんと飛び跳ねて、幸せそうに笑う。
「…………」
××は自分の心臓が、未だうるさく鳴り響いていた。
***
一九九九年七月三〇日朝七時半過ぎ──
××と燈が一緒に遊ぶ時間は前より短くなっていたが、まったく会えないわけではなかった。実は××の一番上の兄、
見た目は父にそっくりだが、片方の前髪だけワザと伸ばしているのは、彼なりの苦労があるからだ。中学生になったばかりだというのに、その辺にいる大人より、この世界のことを熟知していた。
「ねえ、××は父さんが嫌い?」
「あんまり好きじゃない。……家族を想ってとか言っているけど、家族の意見を聞かない所とか、嫌い」
××は不機嫌そうにそっぽを向く。それを見て冬樹は微苦笑をする。
「まあ、父さんは《そういった業》を持っているから、しょうがないと言えば、そうなんだけどね。……こればかりは、自分で気づくしかない」
「……トモリのことを、悪く言うのも嫌だ」
ポツリとつぶやいた××の本心に、冬樹は目を瞠った。弟の表情の変化に、口元が綻んだ。
「へえ。××は、ともりちゃんが好きかい?」
少年はビクリと驚いた顔で兄を見返す。それを見た冬樹は目を細めた。
「ふーん、なるほどね」
「……いってきます」と××は誤魔化すように、家を飛び出した。
***
一九九九年七月三〇日八時前──
××が待ち合わせの公園に近づくと、男女の大人が二人──燈の手を掴んで、車に連れ込もうとしているのが見えた。
「これじゃあ、水族館の開園に間に合わないだろう!?」
「ダメ、今日いくのは……! あぶないの! くろいのふくれてるの」
「また変なことを……! いい、家族全員でいかないと入場許可が下りないのよ。わかるわね」
嫌がる彼女を無理やり車に押し込む。傍から見れば駄々をこねる子どもを連れていく姿に見えるだろう。だが、××と燈には違って見えていた。大人二人に黒い靄のようなものが、巻き付いているのを……。
「あ、……!」
××は駆け出す。あと少しで手が届きそうになるが──
バタン、と車のドアが閉まる。
「××! お父さん、待って……!」車の中にいた燈は××の存在に気づいて叫んだ。だがそんな娘の声を無視して、車は出てしまう。
「トモリ!!」
初めて彼女の名を呼んだ。あれほど、口に出来なかったのに言葉にした途端、心臓が五月蝿く騒ぎ立てる。
(落ち着け。大丈夫、まだなにも手遅れじゃない……!)
××は車を追わずに、踵を返して駅に向かった。行先はわかっている。池袋駅に直結しているMARS CITY──
***
一九九九年七月三〇日十二時ごろ──
四季××は池袋駅のごった返す人混みの中にいた。あまりにも人が多く、水族館まで辿り着くことが出来なかったのだ。
この駅直結の巨大なショッピングモールMARS CITYは、日本初で、今までの百貨店の印象を大きく変えたテーマパークと言っても過言ではなかった。豊富な食品、衣服から、家具、専門店に、子ども預かり場として設計された遊園地に、水族館。特に最上階のフロア全て水族館にするというのが、目玉だったらしい。
駅からでは 、すでに入場規制がかかっており、建物内に入ることすら出来なかった。××はMARS CITYの入り口を探そうと、駅の外に出る。だが、予想以上に駅の外は人で、ごった返していた。また紺色の軍服を着用した大人たちが物々しい空気の中、車道封鎖を行っており、交通渋滞──事故、立ち往生する人たちでしっちゃかめっちゃかだった。
MARS CITYの建物に外から入ろうにも、軍服の大人たちの目がある。
少年の抵抗をあざ笑うかのように、一面ガラス張りになった銀色の建物が煌めく。しかし、彼の目に黒い塊が膨れ上がり、今にも爆発寸前なのが見えていた。
(時間がない……!)
××は構わずに、人混みの中を駆け出す。地下駐車場の入り口から中に入ろうとした瞬間──
「おい、キミ。どうしたんだい、親御さんと離れたのかな?」
紺色の軍服を着た警察関係者が少年を呼び止める。だが、××は立ち止まらずに走り出す。大人と子供、すぐに追いつかれるのをわかっていながらも、少年は走った。今ここで捕まれば、燈と会うことができない──そう直感したからだ。
膨れ上がる黒い塊が霧散しては、膨れ上がる。恐らく誰かが何とかしようとあがいているのだろう。だが、それも僅かな時間稼ぎでしかないと、少年は知っていた。
(トモリ……!)
歯を食いしばり、少年は走った。絶対に間に合わない距離に居ながら、彼はあがく。
「あ、こら! そっちはダメだ!」
大人の大きな手が××に伸びる。
(トモリに……まだ言っていないことが沢山あるんだ……!)
脳裏に浮かぶのは、連れていかれた時の泣きそうな燈の顔だった。
(泣かないで、頼むから……)
心臓が苦しくて、呼吸が乱れる。走っているからじゃない。もっと、胸の奥が痛い。
流れ込んでくる記憶。
太陽の日差しをたくさんに浴びて、眩い笑顔で燈は××の名を呼ぶ。
「大好き」と、恥じらいもなく、幸せそうに笑う。
同じ世界が見えるのに、「世界が好き」だと言い切った幼女。この世は、ごちゃごちゃして、醜悪で、残酷だ。見える色は灰色だったのに──
「××、だいすきだよ! いっぱい、いうの。そうしないと、ぜんぜん、つたわらないから!」
(それはボクは、キミに……なにも、伝えてない!)
だが、少年の想いは虚しくも届かない。軍服を着た男につかまり、高い高いでもするかのように軽々と××を持ち上げた。
「まったく……。さあ、駅まで連れて行ってあげるから、大人しくしてくれ」
少年は打開策を模索する。諦めない。まだ何一つ目的をなしていないのだ。
ふと、少年の視界に白い何かが映り込んだ──××の傍にいつかの白い狼──犬がいた。凛としたその姿は以前と雰囲気が違う。
──我の力を使うと良い。ただし、子どものお前が使えば、腕が一瞬で灰になるだろうが……それでもいいのか?──
バリトンの低い男の声だった。平坦な物言いだが、××は力強く頷いた。
「かまうもんか!」
××は力いっぱい叫んだ。それを聞いて犬は雄々しく吠えた。
──いいだろう。なら、持っていくがいい。今度こそ、我らが《あの魂》を守ろう──
まず右腕に熱が宿った。その熱量は灼熱の如く、二の腕まであった服が燃えて──拳から腕が煌めいた。
「ぁあがっ……!」
凄まじい激痛に、少年は歯を食いしばる。
(これで、黒い塊を霧散できる。……でも)
次に距離が足りない。少年は片足に熱を宿すように意識する──轟々と燃え上がる炎が足に巻き付くように生まれた。
片腕と片足の激痛が全身に広がる。痛くて体中が悲鳴を上げているようだった。
「ぐっ、ああああっ……!」
少年を持ち上げていた軍服姿の男は、突然起こった出来事に動揺して、咄嗟に彼の体を放した。
××は地面に降り立った瞬間、力強くコンクリートを蹴った──刹那、少年は人類の限界を超えた速度を手に入れる。ロケットの如く、地下駐車場を跳んでエレベーターへと向かう。
エレベーターのドアは片腕の炎で溶解してこじ開けた。すぐさま、主ロープと調速機ロープを同時に破断し、片方のワイヤーロープを掴むと
(ぐううっ……! この力、あと持って一五〇……いや一三〇秒)
少年は痛みで神経が焼かれ──意識が飛びかける。
──今度こそ、我は《あの魂》を守りたい……。奪うのでも、殺めるでもなく……。あのものから受けた優しさを、ぬくもりを、感情を──
流れ込んでくる感情は、あの白い犬──否、本体である神──龍神の記憶。万物、理に近い最も近い存在──
何度も《ある魂》と、出会い、そして失った。
大切なことを教わった──大事な思い出、ささやかな願い。どんな形であれ、もう一度、《あの魂》との再会を望んだのだ。
──世界を敵に回そうとも、我は──
(世界が嫌いでも、僕は──)
龍神と××は共に思った。《
××はMARS CITY──水族館内の構造はすでに把握していた。電車で向かう際に水族館の広告が目に入っていたからだ。また龍神の力による視点の広さが加わったのも大きかった。
少年は燈の気配を探す。これもまた龍神の力を宿した一瞬だからこそ、感知で来たと言っていい。すでに足は激痛に苛まれ、骨が軋む。
片腕もあまりの熱量に骨が溶けそうだった。
「ぐうううっ……!」
***
最上階フロア──水族館内
夏休みと言うこともあり、子ども連れの家族で水族館内の通路がいっぱいになっていた。これでは人を見に来たのか、魚を見に来たのかわからないほどの混雑だ。もっとも大人たちの目的は魚を見るためでも、家族サービスでもない。
「家族連れで先着八〇〇名から抽選で一億が当たる」と大人たちは、声を潜めて口々に語った。その声が幼い燈には恐ろしいモノのように感じられた。膨れ上がる黒い塊は、幼女の視界を闇色に染めていく。
カタカタと震えながら、燈はこの場にいない少年の名を呟いた。
「……××」
足元から地鳴りのような音が響いた瞬間、凄まじい爆発音が轟き──燈の目の前に爆炎が襲い掛かる。黒い塊の暴発ではなく、物理的な
「!?」
目を瞑った燈は、いつまでも来ない痛みに目を開く。
幼女の目に緋色の炎が映る。爆発から幼女を守らんと、それは赤々と燃えていた。そして彼女の前に、見慣れた少年が独り──
「間に合った。今度こそ、
燈の目には白銀の長髪の偉丈夫と、見知った少年の姿が重なって見えた。
「××……?」
少年と幼女しか見えない真っ黒な塊が、連続して弾けた。
「!?」
燈と××の背筋がゾッと凍りつく。禍々しい邪気が圧縮して生まれたソレは、人の形をほとんど保っていなかった。
──というのも人間だったモノが内側から、ゴム風船のように膨らんで破裂。ドミノ崩しに似ていた。独りが爆ぜれば、周囲も同じ末路となる。
「××……! に、にげなきゃ……!」
「ダメだ……。ここで倒していかなきゃ、追いかけてくる」
──嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!!──
それは人だったモノが、アヤカシの形を得て──顕現した。それらを知る者は、総じて《
「にげないと……、××がしんじゃう!」
燈は悲鳴に近い声を上げた。××の片腕は黒焦げとなり二の腕まで、灰になりつつあった。気が狂いそうになる激痛を堪えながら、少年は不敵に笑う。
泣きじゃくる幼女を、少しでも安心させようとして──
「僕は死なないし、
少年は、残った左腕に熱を宿す。先ほどよりは熱量は低く、少しでも《物怪》を滅ぼすために──
金色の炎が左腕を包む。朝焼けの太陽に似た煌めきは、神々しく美しかった。
襲い来る《物怪》を蹴散らし、
「××……! これ以上は、だめ……! 椿……!」
悲鳴にも似た声で燈は叫んだ。泣きじゃくりながら、幼女は涙をぬぐう。
──分かっているのか、
今まで幼女の影に潜んでいた式神は、己が主に問う。
「でも、……でも、××が死んじゃうのは、もっとイヤ!」
──……そうさな。あい分かった──
ふらつき、崩れかけた××を燈が抱き止めようとして、一緒に倒れた。
「トモリ……。だいじょうぶ、まだ……。戦える……、守れる」
ポタポタと振り落ちる涙が少年の頬を濡らす。
「××の……ばか」
(ああ……。泣かせたかった……訳じゃないのに……)
「きらい、××なんて、だいきらい! しんじゃったら、だめなのに!」
××が気を失う寸前、幼女の喚き声が耳に響いた。彼女の言葉が胸に突き刺さる。
(……きらい、か。はじめて言われたけど、腕の傷よりずっと……痛い……や)
意識が途切れる寸前、燈の左腕に赤紫色の紋様が浮かび上がる。まるで生き物のようにうごめく痣に、少年は手を伸ばそうとするが──それは叶わなかった。
──暗転。
***
次に四季××が目を覚ましたのは、全てが終わった《MARS七三〇事件》の後から三か月が経った頃だ──
重たげな目蓋を開くと、見知らぬ天井、物々しい雰囲気、石鹸の匂い。目がさめて分かったのは、ここが病室だということだだった。
「……無差別テロ? 《MARS七三〇事件》? っあ、
ぐにゃり、と視界が歪んだ。
妙な違和感が××の中にあった。
「おうおう、ようやっと目が覚めたか。まったく呑気な童だのう」
「お主の魂は、龍神という神と混ざり合って今も同調しておる。まあ、元々は同じものじゃから、まあ拒絶反応はない。……とはいえ、このままではお主の体が成長する前に壊れかねんので、多重術式によって力を封じておいた」
「そんなことより、姫は──あの子は?」
なぜかいつものように《トモリ》と口にできなかった。六条院は、目を伏せて、小さく吐息を吐いた。
「そうじゃな。会わせることは可能じゃが……。ショックを受けるかもしれん。それでも会うかね?」
その老人の言葉の意味は、燈に会ってすぐに理解した。
確かに燈は、意識不明となる《
ある日
ある日突然この世界を呪い、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます