第59話 一ノ瀬花梨の証言
***
あり方を。願いを。その本心を映し出す──
彼女は名家の令嬢として全ての物を手に入れてきたが、ただ一つ、愛情というモノを知らないで育った。だからかクラスメイトとの仲を大事に──それこそ宝物のように扱った。
あの日までは──
それは夏休みで地元を離れていたからこそ免れたのだ。一九九九年、《MARS七三〇事件》において直接的な被害者ではないが、結果的に彼女の両親は人材育成――政府公認の学び舎を構築、その事業を拡大し成功を収める。
しかし、事業が大きくなればなるほど一ノ瀬花梨は一人で過ごすことが増え、家族との繋がりが今まで以上に希薄となった。代わりに彼女は《
そこで出会った
その日から、彼の力になりたいと考えるようになった。その過程で
蒼崎匠。彼は一ノ瀬とは違った歪みを持っていた。それを知った時、ますます惹かれた。孤独を畏れる一ノ瀬と、夜を恐れる蒼崎。けれど彼は一ノ瀬を妹のように扱った。実らぬ恋に彼女は自分の想いを誰にも打ち明けずに閉ざして、兄として慕う。それが《ファンクラブ》の会長として決めたことだった。
それが崩れたのは──いつだったか。きっかけは些細なことだったのかもしれない。蒼崎匠と榎本佳寿美が並んで歩く姿を見た時だろうか。
実際に彼の隣にいるのが自分ではなく、別の女性だったから──
とあるショッピングモールの屋上で、一ノ瀬は二井藤に彼が好きだったことを告げた。
夕暮れ時、桃色の空が赤紫に変わる。乾いた空気と肌寒い風は秋の匂いがした。一年ぐらいで着慣れた袴と着物の裾が風によって揺れる。
「ああ、あのさ……。私は一ノ瀬と匠さんが付き合うと思って……いたんだ」
「だったら……よかったのにね」
失恋。実らない恋は、思った以上に重くて苦しい。頬に流れ落ちる涙を拭うと一ノ瀬は微苦笑を漏らす。
「でも《ファンクラブ》では恋愛はご法度。失恋したから二井藤だけに告げたのよ」
学生時代によくある恋愛話。本気で好きだったけれど、それは自分で想いを口にせずに終わらせた。そう終わるはずだった──
「ど、どうして?」
二井藤の言葉に「え?」と一ノ瀬は声が出た。振り返ると彼女のツインテールが風によって生き物のように不気味に揺らいだ。
「どうして? どうして結ばれないの?」
どもっていた口調が消え、剣呑な空気に一ノ瀬は眉をひそめた。
「それは……私だけの気持ちでは成立しないものだもの。しょうがない」
こればかりは相手の気持ちがなければ意味がない。分かりきったことだというのに、二井藤はまったく理解していなかった。
「私たち、一ノ瀬と匠さんにお返しがしたいの。いつも病室に見舞いに来てくれた。そのお返しをしたいのに……。あの女が匠さんの隣にいるの?
「人じゃない?」
「そう、その通り」
瞬き程の刹那の間に黒い学生服姿の少年が、二井藤の隣に立っていた。あまりにも目立つ服装だというのに、今の今まで気づかなかった。
(この人……いつの間に……)
一ノ瀬は背筋に冷たいものが走った。
「彼女──榎本佳寿美は普通の人間とは違うかな。簡単にいえば人の形をした《願望機》。けれど願いを叶えるための《代償》は、天秤の針が傾く。あまりにも大きな《代償》を支払うんだよ。不条理で、理不尽極まりない。それでも、彼女は薄氷ほどしかない世界の均衡を保とうとしている。彼女なりに、だけど」
道化師のような少年だった。その笑みも、表情すら全てが嘘くさい。一ノ瀬は彼への警戒心を強めた。
「背負いきれない負債を分散させようとして《願い》を叶えている。まあ、本来受けるはずだった《試練》を放棄した人間には、ちょうどいい罰かもしれないけれど」
「……意味がまったく分からないんですけど? 二井藤、この人知り合いなの?」
一ノ瀬は帯にしまい込んでおいた携帯に手を伸ばそうとする。だが、それは叶わない。
「うん、《黒い手紙》のオマジナイを教えてくれたの。これで昔みたいにみんなで楽しい時間が作れますように……って。じゃなきゃ、私たち何のために……目を覚ましたのか、わからなくなる……」
ドロリと二井藤の頬から黒い液体が流れ落ちた。彼女の肌は黒い痣が全身に広がっていく。
「二井藤!?」
「そうだよね。榎本佳寿美がキミたち……ああ、一ノ瀬だっけキミを除いた、彼女らを《未帰還者》から無理やり引っ張り出して起こした。その《代償》は大きいのに。それで願いが叶わないんだから……本当に世界は理不尽だよね。こんな世界、いっそのこと全部滅んじゃえばいいのに」
一ノ瀬は二井藤に駆け寄る。彼女が握りしめたのは、黒い封筒と便せんだった。最後に彼女が寄る辺としたのは、《オマジナイ》だ。あやふやで不確かなもの。けれどそれが人として繋ぎ止めている最後のピース。
「……どうすれば、二井藤たちを元に戻せるの?」
「元に? それは《未帰還者》のこと? それとも《物怪》のこと? それとも──一九九九年七月二九日まで戻せということ?」
少年は張り付けた笑みで歌うように告げた。
「そんなの世界と戦うようなものだよ。いいや《理》そのものかな。時間は巻き戻らない。どんなに願っても《あったこと》を《なかったこと》にはできない。絶対にね。……でも、やり直しだけは出来る。それは人間が唯一誇れることだ」
一ノ瀬は少年の言葉に耳を傾ける。そうしたくなくても体は彼の声を、話を聞き入れようとしていた。まるで緩やかに効く毒のように──よく響く。
「キミたちはまず蒼崎匠を《獲得》しなくてはならない。なにせキミたちの《望み》は彼なしではありえないのだから」
「そんなことはない」と叫ぼうとしても声が出ない。
「だからキミたちのスタートラインは、邪魔な榎本佳寿美を《排除》して初めて《やり直し》がはじまる。いつまでも、みんなが仲良く笑い合う
それは甘い砂糖菓子を並べられたように胸躍る言葉だった。我慢しなくていい、欲望のままに生きていいと許可証を貰った気分になる。
「……そんな世の中に……なったら……」
「うん、そうだね。そんなのは秩序もなにもない《混沌》だ。心の安らぎも、安全も、幸福もみな平等に崩れ去る。ボクはね、そんな世界が視たいんだ」
心の底から願った想いなのだろう。そう一ノ瀬は切れ切れの意識の中で思った。自分の中に別の何かが喚きたてている。
「こんなはずじゃななかった。こうなったのは全部、あの女のせいだ」
一ノ瀬は自分の胸の奥底にあった感情に衝撃を受け、そしてその責任転嫁に笑ってしまった。どう取り繕ってもそれが本音だ。一度、芽生えた殺意は押し留まるどころか、さらに加速しようとアクセルを踏んだのだ。
一度坂を転がった石ころがどうなるのか簡単に想像できるのに……。それが「きっと正しいことなんだ」と思ってしまった。
***
一ノ瀬は蒼崎匠と《個人的な契約》を結びたいと、始司零奈のマンションを訪れた。
部屋を訪れると鍵は空いており、恐る恐る部屋に入るとおびただしい程の黒い封筒と手紙が部屋に敷き詰められていた。それらは全て一ノ瀬たちが送った手紙だ。
ある種、効果的な《嫌がらせ》だと、教えてもらって送り続けた──彼女たちにとってはデモ活動に近い感覚だったのだろう。
「うん、大丈夫。
玄関を通り、リビングに入ると数千の黒い手紙の上に、始司零奈の遺体が転がっていた。
「え?」
死体の傍には学生服を着た少年と、カーキ色のコートを羽織った
その少女の横顔を覗き込もうとした瞬間、一ノ瀬は背中に強烈な痛みと熱を覚えた。
「かはっ……!?」
その痛みよりも驚愕したのは、彼女を襲った人物の正体だった。
振り返ると同じカーキ色のコートを羽織った男が一人。虚ろな瞳で一ノ瀬を見返す
「なんで……あなた……が」
***
燈を囲っていた空間は消え、夜明け前の世界が広がっていく。地平線が見える海辺。水面は淡い赤紫色で水面が静かに揺らいでる。
空と海。鏡合わせの世界が燈の心の世界だ。
その水面から黒い髪の少女──燈が顔を出す。体を水面に引き上げると、黒々とした泥の中からある少女を引き上げる。その見た目は燈よりも豊満なボディーで手足も長く、モデル体型に近い。彼女は燈と年が二つほどしか離れていないが、それでも大人と子供と思えるほどの違いがあった。
だから燈が彼女を引き上げた時に思ったセリフは──
「うわ、胸でか。……それに美人さんだ」と呑気なものだった。
「……アンタ。なんで」
引きずり上げた彼女は一ノ瀬花梨──その魂そのものだ。しかし生前と違い髪の色や雰囲気は異なる部分があるが、肉体を失った為、魂そのものの情報量で補われているのだろう。現に彼女は豊満なボディーではあるが、その三割は《物怪》によって食われたため、頭半分と腹部の半分が空洞だ。
普通なら生きていることは困難だが、魂だけの存在なら別。何より燈との縁と《本契約》の術式によって魂がこれ以上食われることはない。
あくまでも現状では──
「なんで……助けたのよ」
「知りたかったから。蒼崎先輩のことや佳寿美のこと……。それにあなたは完全に《物怪》になっていなかった。だから……かな?」
燈はあっけらかんと答える。そのためにどれだけの労力を費やし、リスクを負っているのか一ノ瀬は魂になったからこそ、その待遇に疑念を抱いた。
「そんなことの為に!? わざわざリスクを取ったの?」
「まあ、理由はいろいろあるよ。でも《鵼》の時、二井藤や他の人たちは間に合わなかった。でも、今度は間に合うと思ったから、手を伸ばしただけ」
ずぶ濡れだった燈の着物と袴は春風によって一瞬で乾き、それと同時に空の色が変化していく。薄暗い夜明け前に光が満ちる。
「でも一つだけ。今のあなたの目的をなにか教えて」
「目的?」と一ノ瀬は眉をひそめた。すでに人ではない。《式神》になることで自我と魂は維持できるだろうが、人ではなくなる。もっとも《物怪》だった彼女は《式神》にならなければ魂が消滅するのだ。
だからこそ一ノ瀬は改めて「目的」と問う燈を見つめた。
「目的……。私の……友人はみんな逝ったわ。今改めて考えればバカな選択だったといえる。でもね、そんな簡単に割り切れない。やっぱり私は、あの女が嫌いだし、復讐したいと思っている。私の大切なモノを全部メチャクチャにした……。絶対に許せない」
「うーん。じゃあ蒼崎先輩には腹が立たないの?」
殺気立つ一ノ瀬に燈は「明日の天気」を尋ねるぐらいのノリで言葉を返す。
「腹が立つ。よりにもよって、あんな女を選ぶなんて……」
「一発殴りたい?」
「一発どころか二、三発殴りたいわ。……って、何言わせるのよ!?」
一ノ瀬は今にも噛みつかんと燈を睨んだ。
「いや、《復讐》もある意味、魂の清算的に有りかな、って。ほら、殺しちゃうのとかはダメだけど、今回の一件にケジメを付けるため相手と向き合って……。武器なしの殴り合いぐらいなら許容できるかな、って考えてみた」
燈の真剣な提案に一ノ瀬は「はあ!?」と叫んだ。
「なによそれ!? どういう思考回路していたら、そんな提案を出してくるのよ! 私の人生メチャクチャになったのよ!」
「でも、その半分以上は、あなたにも責任があるでしょう。そうなってしまったのは「自分がそうなって良い」という選択肢を選んでしまったから。だから《式神》となって、出来ることを精一杯考えた結果、それぐらい。それでも嫌なら何も残さず《物怪》に食われたという結果だけで魂ごと消えるだけだよ、一ノ瀬花梨」
空に舞う色とりどりの花びらが春風によって舞う。水面の世界はどこまでも美しく色鮮やかだ。けれど、水面は今にも怨嗟と泥が蠢いている。
美しくもあり、残酷なほど凄惨な世界。
何一つ納得もしていないし、譲歩もしていない。けれど──
「 」
一ノ瀬は短く、はっきりと答えた。
太陽の日差しはあまりにも美しく、眩しい。一ノ瀬は思わず目を瞑った。
「うん、わかった。じゃあ、これで契約は成立。《
そう言って手を伸ばした少女を、魂だけになった
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