第51話 式神の名

 水の中。

 黒々とした荒れ狂う海の中だろうか。

 ともりの体は、深い水底に溶けいていく。

 暗くて恐ろしいほどの殺気。その視線が少女の肌に突き刺さる。水も冷たく凍えそうだ。

 奥底にいる何かに呼ばれて、下へ、下へ──

 黒い塊は何を望んでいるのだろう。

 悲鳴にも似た声で、何かを告げている。その声を聞くと胸が軋むように痛い。


(私はどれだけの人と、どれだけの《約束》を交わしたのだろう……)


 悲しいほどに涙が少女の瞳から流れ落ちる。

 そのたびに見える世界が、鮮やかで優しい色に変わっていく。

 暗く濁った色が少しずつ癒され、透明になる。凍てついた温度もひと肌の温もりに変わっていった。


 しゃらん。


 錫杖の音色が響いた。その音が水底にいる闇を鎮めているようだ。


 しゃらん。しゃらん。


 刹那、燈は水中ではなく水上へと移動していた。

 どこまでも続く水面。

 少女が身じろぎするたびに、水面は波紋となってどこまでも揺れる。

 ふと顔を上げると、曇天の空はいつの間にか淀んだ色をしていた。


「あれ……。わたし……」


 ポタポタと頭上から何かが落ちてくる。

 最初は雨かと思った。しかし違う。

 それは緋色に近い鮮やかな赤。


「甘い……香り」


 もう一度、空を見上げようと立ち上がった。

 雨のように鮮やかな赤い花と、粉雪が降り注ぐ。

「そんなことはありえない」そうぼんやり眺めながら、燈はここが《夢》の中だと気づく。


「雪……。それに花の雨……」


 吐く息が白くなり、周囲はいつの間にか水面ではなく雪山に変わっていた。

 ほとんどの木々は葉が枯れて雪が積もっていく。そんな中、青々とした葉を生い茂らせる木々が密集していた。

 まるでひっそりと隠れるように甲冑が転がっている。そこに中身はない。武具や籠手、大袖が転がっているだけ……。肝心な中身はない。

 赤い花は雪の上に落ち続ける。花びらが崩れることなく、綺麗なまま落ち続けた。

 燈の目にはある文字が浮かび上がる。それが式神の《名》だと気づくのに時間はかからなかった。


「やっと見えた。式神──あなたの《》は椿だったんだね」


 燈の呟いた《名》に反応して、甲冑が意志を持ったかのように勝手に組み上がっていく。

 中身のない空っぽの甲冑──

 けれど、組み上がった緋色の甲冑に、赤紫色の光が双眸そうぼうに宿る。


「随分、遅かったじゃないか。我が主よ」


 中身がないのに式神──椿は軽快に笑った。いつものダミ声で。


「ごめん……」


 しょげる燈に、鎧武者は彼女の頭を軽く小突いた。


「思い出してくれたのならいい。……ようやく主に話せる」


 そう言って鎧武者は立膝をつき、少女を主君と仰ぐ武士しんかそのもののようにかしずいた。その姿に燈は慌てて背筋を伸ばす。


「我が主よ、某はあの神や、主と違って《某の力の全て》を触媒にした。ゆえに、お前が記憶を取り戻せば某は強くなる。それはもう化物染みた強さにな。だから……」


 式神は何処か躊躇うかのように言葉を言いよどんだ。その間、燈は彼が口を開くまで待った。雪と椿の花が降り注ぐ中、ずっと。ずっと。


(椿は本当に強い。……それは分かる。甲冑だけしかない中で、ずっと私を待ってくれていた。でも、どこか臆病に感じるのは──なんでだろう。それに私が損をすることに酷く腹を立ててくれるのは、私を主としてくれているから?)


 燈は自分が式神──椿の主としてふさわしいのか。疑問が残った。


(でも椿が主人と仰ぐのならば、仕えるに値するだけの人間になろう)


 少女は胸を張ろうと、さらに背筋を伸ばした。

 二人の足元一杯に椿の花が埋もれた頃、式神はようやく決心がついたのか重い唇を開く。


「……すべての記憶を取り戻したら、我が主よ。。そうすれば《本契約》は無効となる」


 ささくれだった棘にも似た言葉が燈の胸に突き刺さる。


「嫌だ……」


 喘ぐような声で否定をする。しかし、式神は言葉を重ねた。それは駄々をこねる子供を諭す親のようでもあった。


「これは主が背負うべきものではないし、受け継ぐ必要はないのだ。某は全て引き受ける故、心配めされるな」


「引き受けたらどうなるの?」そう燈は口にしかけて黙った。たぶん、消えてしまうのだろう。全部の厄介ごとを背負って勝手に自己満足をして、いなくなるつもりなのだ。


(そんなの絶対に嫌だ……!)


 燈は勢いに任せて鎧武者の手を取ろうと歩み寄る。だが何もない所で足をもたつかせ、危うく転びそうになった。


「び、びっくりした……」


「なにをしておるのやら」


「えへへ」と少女は笑って誤魔化し──当初の目的だった式神の篭手に、そっと手を置いた。燈は屈んで椿に告げる。


「椿、私は嫌だよ。誰かを犠牲にして自分のすべきことから逃げるのは……」


 鎧武者は溜息を漏らす。少女のそれは分かり切った返答だった。だからこそ式神椿が主として選んだ、ただ一人の君主。


「平行線だな。……では、舌弁で決着がつかないのであれば、実力行使に出させてもらおう」


「それも嫌。椿と闘いたくなんてない」


 鎧武者は笑った。

 どこまでも子どもの理屈だ。「嫌だ、嫌だ」と言えばいいのだと思っている少女に、脅しのつもりで刃を突きつけようとする。

 だが──

 真っ直ぐに見つめる少女の姿に式神は気圧された。


「大丈夫だよ、椿。私一人なら無理かもしれないけど、椿やあの神様もいる。だから、ひとりで無理なら手を貸してもらおう。それで一緒に《本契約》を受けよう。……私、椿がいなくなるのは嫌だもん」


「一緒の同じ高校を受験しよう」みたいなノリでいう少女の言葉に重みはない。その《本契約》がどういったものか思い出せていないからだろう。

 はたしてその意味を、内容を知って同じ言葉が出て来るか。式神は熟考する。


(言うだろうな……。それでもこの主は決断する。それぐらい愚かで、どこまでも他人に甘い……)


 式神は何度もその姿を見てきた。自分の為ではなく誰かの為に自身を奮い立たせて、挑んでいった小さな背中。

 それを見てきた──

 守られてきた──だから今度こそは守ろうと決めた。祀ろわぬモノを最期まで見捨てなかった愚か者。


もう平気か?」


「ふえ? あ、うん。平気だよ?」


 燈は首を傾げながら左肩を元気よく回して見せた。確かに黒い痣はどこにもない。それを見て式神はホッと胸をなでおろした。


 チクリ。


(ん? 気のせいかな?)


 燈は左の指先に痛みが走った。妙な違和感を覚えるが──


「この話は終わりだ。そろそろ浮上しない起きないと、アイツが心配して離れないだろうから」


「ん? だれ?」


 燈は小首を傾げたが、すぐに理解する。


「あ、神さま!?」


 少女は驚愕の声を上げた。そのいつも通りの姿に式神は何か思い出したのか、喉を鳴らして笑った。


「ああ、そうだ。あと色々覚悟しておけよ」


「へ?」

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