第四幕 ~冥界編~ 「幸福を与えるな」

第52話 新たな始まり

──どうか僕を幸せにしようとしないで下さい。それは僕に任せて下さい── 

             ──アンリ・ド・レニエ──


 暗闇。

 ともりは目を開いているのか、それとも閉じているのかも分からないほど、暗闇が視界いっぱいに広がっていた。


「あれ、椿?」


 ついさっきまで傍に居たのに振り返ると誰もいない。彼の気配も消えてしまっている。

「ああ、これは不味い」と少女は直感した。

 体が硬直して動けなくなる感覚を、燈は良く知っていた。思わず背中に悪寒が走る。


「…………」


 一拍の間が、恐ろしく長く感じられた。

 音がした。ひた、ひたと近づく音。逃げたくても足が動かない──

 燈は汗が吹き出し、呼吸が乱れつつあるが──悲鳴だけは堪えた。


「────」


 何か言っている。燈の傍で深淵が何か口にしていた。

 けれど人外の言葉と、はかけ離れた声──音階が並べられた。わからない──それが余計に少女の恐怖心を募らせた。

「あなたは、なにがいいたいの?」そう尋ねたくても、声がでない。人魚姫が声を失った時のように喉が焼ける痛みが走った。


「あ……が……」


 身体が酷く熱くて、指が燃えるようだ。

 煉獄の中にいるかのような、熱さと痛みが燈を襲う。

「もう、駄目だ」と思ったその時──


「まったく、なかなか戻ってこんと思っておったら、こんな所におったのか」


 それは年老いた声だった。しかしどこかで聞き覚えがある。


「ほれ、ワシが途中まで連れて行ってやる。あとはアヤツがおるしな」


 そう言うと燈の手を取り、初老は歩き出す。目の前にいるというのに、その姿は深淵に溶け込んでいるのせいだろうか──どんな人物なのかまったく分からない。

 ぐいぐいと引っ張る手は枯れ細った木乃伊のような手だというのに、力強く温かい。


(このひとは……だれ? 私を知っているの?)


「唐突じゃが、仕方あるまい。燈よ、を始めるぞ」


 沈黙、僅かに間をおいて燈は叫んだ。


「は、はいぃいい!? な、なんでこんな時に?」


「昔教えただろう。日本の子供たちの遊びの多くは《魔除け》じゃと。影ふみや鬼ごっこ、かくれんぼもな。しりとりは即席の《結界》となる。言葉を繋ぎ、ヨクナイモノを一時的に引き離す」


 初老は暗がりを迷いもせずに突き進む。燈は見えないはずの背中を見つめた。

 朧気な記憶。セピア色の夢のように淡く、あいまいな出来事。

 雨の日に手を引いて歩く大きな背中──


「××××」


 名を呼んだ、その大きな背中が動いた。振り向いた顔は──


「じーさま?」


 燈の口からこぼれ出た言葉。しかし初老の男は「ほれ、しりとりを始めるぞ」と言って、その言葉を無視した。

 燈は渋々ではあるが、初老の声に従ってしり取りに興じる。


「睦月」

「き? ……きさらぎ?」

「銀座」

「ざ? ……んー座敷童?」

「死に神」

「み、み? ……みつば」

「媒介」


 まるで最初から次に口にする言葉が決まっているのか、初老は即答する。対して燈は何度も考え、「」にならないように慎重に言葉を選ぶ。


「い? んー、イノセンス」

翆玉すいぎょく

「く? 区域」

機運きうん

「あ、を着いたから、じーさまの負け」


 勝ち誇る少女に、初老は「かかかっ」と軽快に笑った。


「そうじゃな。じゃが、迎えが来たので行くがよい。ワシはこの先には行けん」


 掴んでいた手が、光の粒子によって消えていく。

 握っていた感覚も、温もりも消える。


「え、待ってよ。じーさま。あと少しで、なにか思い出せそうなの……! だから、まだ消えないで!」


「深淵と寄り添いあい、向き合うには今暫く時と準備が必要じゃ。今は記憶を取り戻すことに専念するとよい。なに、深淵はいつだってすぐ傍にある。お主が気づきさえすれば、大丈夫じゃ」


 少女は唇を開くが、言葉が出てこなかった。大事なことを言いたいのに、考えがまとまらないのか、声がでない。


「燈、《しりとり》じゃ。そしてワシの告げた単語を忘れぬなよ。いずれ重要となる。お主の告げた単語も偶然ではない全ては──」


 花吹雪が初老の声を遮った。真っ黒な空間に桃色の花びらが舞い、世界を彩る。


「まって……。もう少しだけ……!」


 燈は手を伸ばすが、空を切る。

 初老の雰囲気も、痩せこけた手も、しわがれた声も──

名前を知っているはずなのに、それすら叫べない。


「待って、お願いっ!」


 手を力一杯伸ばす。

 だが少女を受け止めたのは、うららかな春の温もりと光だった。

 厚く覆い重なった雲から、目映い光と春風が燈の頬を撫でる。

 あたたかな温もりに抱かれ、懐かしい花の甘い香りが鼻孔をくすぐった。


「────姫、大丈夫です。また会えますよ────」


 誰かに抱きしめられている。

 それが無性に心地よくて、胸が苦しくなるほど歓喜に震えた。

 陽だまりの中、日差しが深淵を照らし──燈は眩しさに目を瞑った。




***



 二〇一〇年日 冥界、《常世之国》王都。

 命あるものが寿命を終えたとき、必ず辿り着く場所。それが冥界、冥府、冥土。呼び方は古今東西ここんとうざい様々であるが、行き着く先はみな同じ。人も神も等しく。

 冥界、《常世之国トコヨノクニ》は、ちょうど春の息吹によって花々が咲き誇り始めていた。森の山々は淡い若草色、湖は白銀に煌めき水面を照らす。

 宮廷の傍には数千の蓮の花が咲き誇り、蛍火に似た淡い光を放っている。


 宮廷──その建物は厳島神社に似た湖の上に存在し、左右非対称の屋敷と母屋に別れている。左右に回廊が長く入り込んで繋がり、緋色の柱が目立つ。

 神社の造りには似ているが本来の目的は宮廷──まつりごとの場であり、王の住処でもある。そのため、人の出入りが多くせわしない。


 そんな喧騒も回廊から外れた母屋の一角までくると、途端に静かになる。聞こえてくるのは湖の水面が揺らぐ音と、波風に揺れて風ぐらいだ。

 母屋にある客部屋──そのの天井は十五メートルほど高く、浅緑色あさみどりの真新しい畳が敷き詰められた部屋に、白百合色の布団に包まって眠る燈の姿があった。


「…………」


 燈は肌襦袢はだじゅばんに着替えており、と首から下は紋様が入った包帯が巻き付けられ、手当の痕が見えた。呼吸音は規則正しく、漆のような艶やかな黒い髪が僅かに揺れる。

 御簾の外には式神が黒狐の姿で、身体を丸めて控えていた。ふと何かを察知したのか黒狐の耳がピクリと反応する。


「ん……」


 燈の目蓋まぶたが揺らいだ。


「んー」


 重たげな目蓋が二、三度瞬きを繰り返す。

 見慣れない天井に見知らぬ場所。遠くで、波の音は耳に入るが潮の香りはない。あるのは──花と、白檀の香りだろうか。少女は夢見心地のまま寝ぼけていた。


「あと五分……」


「え」「は」


 龍神と式神はあまりにも驚いたのか、思った以上に大き目な声が部屋に響いた。それは少女の耳にも届き、慌てて猫のように目を見開いた。


「あ……え、へ?」


 燈は一瞬、自分の状況が把握できず変な声が漏れた。

 落ち着いて周囲を見回すと、燈の左手を龍神はずっと握っていたのだ。その手の先へ視線を向けると、燈は目を見開いて固まった。


「…………な、何しているんですか神様」


 全身黒ずくめならぬ、白ずくめの和装の男が燈の傍に正座で座っていた。

 あまりにも微動だにしないので、石像かと思ったが手の温もりは温かい。よくよく見ると、白銀の長い髪。服装は神社の神職が着ている浄衣という白い服を纏っている。


「ええっと……。え、これ、夢?」


「違います」と、くぐもった声が漏れる。

 即答され、燈は頭巾をかぶった白ずくめの龍神を見返す。その彼の後ろに見えるは白銀色に染まった世界。空は白く、龍や麒麟が悠々と飛び交っている。


「…………」


 おおよそ現実味を離れた光景を目の当たりにした燈は、夢だと判断した。


「いやいや。白銀色の空とか見たことないし……おやすみなさい」


 いそいそと布団の中に潜った。


「…………」


 白頭巾の男龍神はコクリと小さく頷いた。


『いやいやいや、主よ。なにを考えておる! そして龍神! なに頷いてる、止めよ!』


 慌てて式神は御簾の中に飛びこんできた。

 一メートル弱と言った毛並みのよい黒い狐の姿に、燈は閉じかけた瞼を見開いた。


「つ、椿!?」


『如何にも。我が主よ、よく聞くんだ。ここは──』


「椿ぃいいー!」


 燈は布団から飛び出し、黒狐を抱きかかえようとした瞬間──腹部に痛みが走った。


「痛っ……」


 龍神は見かねて声をかけた。


「呪詛による攻撃ですから、式神がその傷を肩代わりしても痛覚は残ります。しばらくは安静していないと……」


 ズキン、と燈の腹部に痛みが走った──


「痛っううう……」


 燈は畳の上で座っていられず横に寝転がる。


『言った傍から、げふっ……』


「椿……!」


 燈の痛みに反応してか、式神も同じく咳き込んで血を吐きだす。

 龍神は辛辣な言葉とは裏腹に、燈の背中を優しくさすった。


「言った傍から……。その耳は飾りですか」


「うう……。ごめんなさい」


「まったく。横着な所は相変わらずなのですね。今、何か飲むものを用意しますので、大人しく布団に戻って下さい」


「あの……神様。私ちょーーっと動けそうにないので、抱っこして運んでもらえません?」


「自業自得です。自分で布団に戻ってください」


 苛辣からつな言葉は鋭く、少女の甘えを叩き斬るには十分だった。

 めそめそと這うように大人しく燈は布団へと戻る。椿も主の傍に控えようと布団の傍まで歩み寄った。


「うう……。っというか、ここ何処です? に、日本?」


「日本ですよ。ただし、冥界──《常世之国》。つまりは私の国です」


「は。はあああああ!?」


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