第53話 龍神と秋月燈
「えっと、神様。今、冥界と……?」
「その通りです。ちなみにここは、私の国でもあります」
燈は寝ぼけた頭をフル回転させ、「寝ている場合ではない」と、布団の上で唸る。
(落ち着け私……! なんか眠っていたせいか体はあちこち痛いけど、頑張れ私……!)
ゴールデンウィーク明けから数日経った五月十日に燈が学校に登校すると、そこはすでにヨクナイモノの溜まり場だった。
しかし学校は《異界》に侵食され──結果、《
「って、ちょっと待って……。私が夢の中で《鵺》と戦っている間、学校は? ううん、それよりも委員長──杏花は? 佳寿美たちは? 柳先生……、ノインはどうなったの?」
「みな
それはまるで燈が何を聞くのか分かっていたような──そんな隙のない返答だった。しかし少女は何があったのか、詳細を聞くまで口を閉じないだろう。それを龍神は熟知していた。
「でも……」
「順に話します。……それなら問題ないでしょう」
有無を言わさぬ言葉に燈は「うぐっ」と声が漏れた。
「はい……」
葛藤の末、少女は小さく頷いた。
龍神は一拍おいて、状況の整理が出来るように順序立てで話す。
「まず学校での一件ですが、全国で数十か所同時刻に同じ現象が起こりました。そして貴女の学校が、その中心──核に近い役割を持っていた。……黒幕は、《
龍神の話では、あの学ラン服を着ていた少年が黒幕らしい。
いつの間にかいなくなった彼。その目的は何だったのか、少女は考えるが他にも考えなければならないことがあり、頭の片隅に留めておく。
「姫が心配されていた者たちも
「はい……」
こくこく、と赤べこのように素直にうなずく燈に、龍神は少しだけホッと吐息を洩らす。次いで慎重になりつつも言葉を続けた。
「もっとも心配すべきは、今の貴女の状態です」
急に少女は小首を傾げた。察しが悪いのではなく、すっかりこの状態に馴染んでいるからなのかもしれない。
「その左腕と片目。それは術式強化の影響です。しばらくは違和感があるかもしれませんが、大事ありません」
龍神にそう言われて、燈は改めて自分の左腕に視線を落とす。大層な包帯を巻いているが、動かすのに痛みも違和感もない。ただ学校で──いや、どこだったか左の指先に痛みがあったのを思い出す。
(あれも、術式の影響なのかな?)
片目に至っては包帯を巻いてあるだが──
「視界に違和感がないのは術式?」
「まあ、そんなものだ」と龍神の代わりに式神が答えた。
「じゃあ、冥界に私を連れてきたのは……?」
「その術式を施すための場所の確保と──」
龍神は「
白い頭巾を被ったままだが、燈には龍神が困っているように見え──だから自然と声が漏れた。
「いいよ。言えないこと無理に言わなくて」
敬語ではなく、砕けた言葉が滑り落ちた。まるでずっと前から知っているかのような親しさで燈は言葉を紡ぐ。
「……それは私が自分で探さないといけないことだから」
言い終わった燈は、黙り込む龍神の反応に自分が何を言ったのか心の中で反芻し──ボッと、ゆで上がったように顔を赤らめた。
それを見て「かかかっ」と式神は喉を鳴らした。
「あ、え、その……! すみません、神様」
慌てて頭を下げようとする燈に、龍神はそれを制した。
「構いません。……私の事は
「りゅうじん……」
小さな唇から紡がれた言葉は、たったそれだけなのに龍神の胸に温かさを灯す。一年も経っていないというのに、その名を呼ばれたのが千年ぶりに思えた。
「敬称、敬語もいりません。私が貴女を姫と呼んでいるのも、真名を呼べないが故のこと。いと尊き存在でも、血脈を継いでいる訳でもありませんので、解釈は間違えないようにお願いします」
「うん。わかった」と少女はこくこくと頷き──
「龍神が私を冥界に連れてきた。一応、これも《あなたの出した条件》を満たした……ってことでいいんですよね?」
龍神は「頭巾を被っていてよかった」と心から思った。今しばし目を閉じ、すでに決めている決意を改めて声に乗せる。
「ええ、構いません。いずれにしろ武神との交渉、勝負。そしてここに至るまでの道標をあなたは得ていました。あの学校での事件がなくとも、貴女は私の前にあらわれたでしょう」
「やったあ」と燈は小さくガッツポーズをする。
「ですが、今一度だけ問いましょう。貴女は本当に記憶を取り戻したいですか?」
燈は迷わず「はい」と答えようとした。が──
「たとえ姫、貴女が覚えておられなくとも、私は覚えています。記憶を失った原因、そして失った記憶の内容は私と関わったものです」
「ですよね」
「ですから……え?」
龍神は心底驚いたようだ。
「いやいやいや。これだけ私に関わって、世話を焼くなんて普通におかしいじゃないですか。それにぼんやりですけど、記憶の中で容姿は全く見えませんが、声は覚えていました。だから──」
記憶の大半。それが龍神であると燈は薄々気づいていた。
どこからと言われれば、どこになるのだろう。恐らくは宇佐美杏花の術式によって《第一級特異点》──あの場所で出会った時だろうか。
それとも那須で電話越しに会話した時──
《
燈が小さな気づきを見逃さず、ちょっとずつ集めて行った手がかり。それがようやく実を結んだのだ。
「そう……ですか」
龍神は内心でホッと胸を撫で下ろす。
「ところで神様。どうして白い頭巾を被っているんです?」
燈はずっと気になっていた事を尋ねた。
「私と姫が会うことで封印術式が発動しかねない──そのための保険です」
(そんな感じで回避できるものなのかな……)と燈は思ったが黙った。
(ただ会うのが気恥ずかしかっただけだろう。……まあ、
「大丈夫なんじゃないですか? 私は龍神とここ一か月何度も会っていますし」
燈は楽観的にとらえていたが、龍神にとっては前科があるので慎重かつナーバスになっている。以前、病室で彼女と会って言葉を交わしただけで額から血が滴り、意識不明に陥ったのだ。
しかしあの時と、今では状況は異なる。
「……そうですかね」
龍神の両手は重く、頭巾を取ることが出来なかった。だが──
「大丈夫です。それにこれは私が勝手にするんですから、何かあっても私のせいです」
燈の細い手が龍神の頭巾に触れると、そっと外す──?
「あれ? えっと……」
頭巾を上にあげるが取れず、右左と引っ張っても取れない。しまいには強引に引っ張る。
「ぬぬぬぬ! ……って龍神、なぜ手で押さえているんですか!?」
「わ、私がそんなことする訳がありません。見間違いでは?」
この期に及んで龍神は頭巾を手放そうとせずに、頑なに両手でつかんでいた。
「いやいやいや! 素直に手を離してください」
「頭巾の事はいったん忘れて話を戻しましょう」
「い・や・で・す!」
いつの間にか龍神と燈は両手をがっちり組み合い、力比べをしている構図になっていた。
(頭巾一つでここまで盛り上がるとは……)
式神は茶々をいれず温かい目で事の成り行きを見守る。
その後、燈が先に「力比べは卑怯だ」と言いだし──ジャンケンと《あっちむいてほい》のやりとりの果て、隙をついて燈が頭巾を奪い取ったのだった。
「私の勝ち!」
(いや、最初の力比べの段階で普通なら、我が主の勝ちなど皆無だぞ。何せ相手は神なのだからな)と式神は思うが口に出しはしない。
「いいえ。勝たせてあげただけです」
白銀の髪の長い前髪、酸漿色の双眸、陶器のような肌に目鼻立ちが整った顔が姿を見せる。
コホン、と咳払いをたてて龍神は話を戻す。
「ではもう一つ。世界は──」
「世界は貴女の命を狙っている」そう言いかけて押し黙った。すでに天界の先兵である
そしてこれは、どうあっても聞いておかなければならないことだった。
「姫。もし貴女の命ひとつで世界が救われるのだとしたら、貴女はその命を投げ出しますか」
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