第49話 主の剣であり盾であるために


 の少年が一瞬だけ四季柊次の脳裏に過った。あの日、《MARS七三〇事件》で行方不明──《神隠者かみいんじゃ》となった弟。

 四季××。

 引き絞られた弦が、キリキリと悲鳴をあげた。深い憎悪を込めて仇敵きゅうてきを討たんと、燈にの矢を放つ。

 撃ち放たれた矢は、風を切って標的へと飛ぶ。

 しかし式神の放った漆黒の矢が、四季柊次の矢を撃ち抜き、その威力は落ちるどころか一条の光となって隔絶空間さえも貫通する。もし現世で同じような力を振るえば、都市一つは崩壊するだろう。

 刹那とはいえ、黒い霧を霧散させた力は神々の力と遜色そんしょくないほど凄まじい威力だった。


「……んな、あほな。天鹿児弓あめのまかこゆみ天羽々矢あめのははやを砕いたやと……!?」


 そんな芸当が出来る弓は、大国主命おおくにぬしのみことを救ったキ貝比売きさがひひめが誓約をして渡した金の弓箭きんのきゅうせんか、大国主神が根の国から持ち帰った素戔嗚命すさのおのみことの弓矢、生弓矢いくゆみやだ。

 どちらも大国主神が関わり、その後、一切語られない武器である。

 柊次は口元を僅かに歪めた。敗北ではなくを確信して。


(だが、そんなものは関係ない)


 どすっ、と嫌な音が柊次の耳に入る。彼は自分の腹部に視線を落とすと、深々と矢が突き刺さっていた。


は必ず当たる。砕けようと破壊されようとも──必ず標的を貫き、同時に放った弓使いもまた同じ傷を受ける。……それが還矢かえしやの呪……)


 どろり、と柊次の服部に矢が食い込み、血があふれ出る。そしてそれは──標的秋月燈も同じ。

 かつて天稚彦あまつわかひこは、高天原から遣わされた雉の鳴女きじのなきめを射殺したことにより、自らの矢によって命を落としたのだ。

 柊次は唇から垂れる血を乱暴に拭った。この傷は致命傷には至らない。


「……あと、一撃」


 柊次は腹部から血が止めどなく流れる中、構わずに梓弓を握る。構えて標的に向けるだけだと、指先に力を入れた。


 しゃらん。


 重なり合う金輪が千切れて、床に転がったような音が響いた。

 刹那、ゾッとして背筋が凍りつくような感覚に襲われる。殺意などと言うような生易しいものではなかった。もっとおぞましく、魂そのものが震えるような得体の知れないもの──

 その発生場所は──燈のすぐ傍からだった。明らかに少女の影が一気に伸びて校庭を覆いつくし広がりつつあった。黒々とした深淵。校庭の土が全て沼──いやぽっかりと空いてはいけない何かが、いう方が正しいだろう。

 錫杖がはじけ飛んだ音が沼の水面を揺らす。深淵の底に存在するモノは──


「────!!」


 それは咆哮だったのか。はたまた悲鳴だったのか。

 一声で四季柊次は、心臓を握り潰されたかのような錯覚に襲われた。


「─────あ────ああ」


 深淵の闇から巨大な何かがこちらを見ていた。

 それは不吉でおぞましく恐ろしい何か──視ただけで相手を呪い殺せる類いの闇。


「あ──ああ────」


 か細い声、影の中で何がのた打ち回る。

「外に出たい」と、深淵から黒い手が伸びては沈む。枯れ木のような手が伸びては泥となって深淵に戻る。それを何度も繰り返していた。


「ば……化物……」


 四季柊次の気が削がれた瞬間──背後から後頭部を強打され、その場に倒れた。


「燈ちゃんに対して《化物》なんて言うのやめて──彼女は《化物》に憑かれているだけなんだから」


 おおよそ戦場に最も遠い雰囲気の少女──榎本佳寿美えのもとかすみが、体育館の屋上に姿を見せた。その体は痣だらけだったが、時に気にした様子もなく、その場から校庭を一望する。大きく広がった深淵の穴。そこから溢れ出す人の手──

 その絶望的状況をみて、彼女はホッと胸を撫で下ろした。


「よかった。なんとか間に合ったみたい。うんうん。これで《化物》どもから燈ちゃんを引き剥がせる」


 少女は普段と変わらずにこにこと微笑みながら、体育館の屋上から軽々と跳んだ。まるで見えない階段でもあるのか宙を呑気に闊歩かっぽして、燈の元へと向かった。


 ***


 校庭内に広がり続ける燈の影は、もはや巨大な深淵の沼そのものだった。黒々とした塊が影から抜け出そうと、枯れ木の枝に似た腕を伸ばす。そのたびに式神が浮かび上がってくるのを一つずつ潰していく。

 燈を抱きかかえたまま、片腕が血まみれになろうと影から湧き上がるモノを必死で抑えていた。そのたびに少女の左腕は、黒々とした痣が広がっていった。


「お前の出番はまだ先だ。それまで寝てろ……」


 すでに式神の太ももまで、沼は浸かっている。今にも沼から溢れでんと、深淵の底に居るモノが出ようと足掻く。だが、それをギリギリのところで留めているのは式神の力だ。

 同じ属性がぶつかり合えば、質量がものをいう。式神ではこれ以上の力を遣えば、その反動が秋月燈に跳ね返る。

 だからこそ式神は片腕が血で塗れようとも、今できる範囲で抑え込んでいた。

 深淵にいるモノをせき止め、封じる。

 燈の頬に血痕が降り注ぐ。それは式神の額から零れ落ちたものだった。


「質問──絶体絶命だが、打開策はあるのか」


 身体の半分ほど沼に浸かっているノインは、緊張感の欠片もなく式神に尋ねた。


「あるように見えるか?」


「不明。だから聞いた」


 ぷかぷかと沼に浸かるノインはある意味、肝が据わっていた。式神はそれを見て、少しばかり気持ちが緩んだ。


「小僧、お前……首だけでも命維持は可能か?」


「戦力は限りないゼロになるが、生命維持なら三時間は持つ」


「そうか」と式神は呟いた。燈の体に目立った。ただ左腕は黒い痣──いや墨で塗ったかのように、真っ黒になりつつあった。


(腹部の傷を引き受けた代わりに、邪気が余計に入り込んだ……か)


 どくどくと、式神の腹部から血が止まらずに流れ落ちる。幸いにも主の身を守ることが出来たのが、誇らしく思えた。

 ──守れなかったからこそ。過去とは異なる結末に、胸が熱くなった。


(念のため、四季柊次あの男に、憑依しておいて正解だったな)


 柊次が矢を放つ瞬間、式神は彼の肉体──指先を一時的に支配して、的を逸らしたのだ。とはいえ、主である燈に痛覚だけは伝播でんぱしてしまっただろう。あれこれ手をまわして、策を講じてもここが限界だった。


(ん? 四季柊次の気配が消えた。死んでは……いない。なら後は……)


「ワシの出番という訳か」


 しゃらん、と錫杖を鳴らすような涼やかな音が響く。それと同時に深淵の水面が、騒めく。

 しゃらん、しゃらん──

 人が歩く速度で波紋のみが揺らぎ、式神たちの傍に歩み寄った。和装に身を包んだ老人が、ゆるりと姿を現した。しかしその姿は半透明な上、幽霊に近い。矮躯わいくの老人は木乃伊ミイラのように枯れ細っており、どうみても極悪人のような面構えだった。しかし秋月燈──少女を見る目は何処までも優しい。

 式神は初老の男を見ると、皮肉気に笑った。


「そのようだ。……術式の綻びが甘い。これで稀代の術士とは聞いてあきれる」


「仕方あるまい。あの時は死にかけていた上に、準備もなかったのだから……。その上、今回は燈が夢の中に居たんじゃ、精神の影響力は大きいじゃろう」


「かかかっ」と絶望的な状況でも、何処か楽しげに笑う剛胆さは生前と変わらない。

 半透明な姿がより消えかけることによって、校庭に広がっていった影がゆっくりと閉じていく。


「あ────ああ──」


 影の中から上げる声が消え、影も見る見るうちに塞がっていく。


「そもそもを一人の体内に、完全封印など出来る筈もない。ゆえに影──夢という集合無意識の空間に押し込んだ。龍神の力で隔絶空間を作り、燈の一番大事な記憶によって封印とした特別製じゃからのう」


「だからと言って、第三者から記憶を得ると肉体の負荷がかかるは、どうにかならんのか?」


 式神は燈がこの数か月傷を負って、倒れる姿を何度も見てきた。そのたびに歯がゆさと苛立ちと──自身への怒りが込み上げた。


 唯一、あの出来事全てを知っているからこそ、一番傍に居る式神には堪えた。支えてやりたいのに、傍に居るのに何もできない。

 声も、温もりも、姿すら見えないのだ。今、式神が自らの主に触れているのも、燈の体に負荷がかかっている。常に《物怪》というヨクナイモノを、傍においているようなものだ。


「残念ながら、それはワシにもどうにも出来ん。《理》があの絶望的状況に対して、提案した条件の一つじゃからのう」


 式神は歯噛みする。これから起こるであろう出来事に対して。そしてすでに起こってしまった、あの事件を思い返して。


「なぜ我が主がこれほどの荷を背負う。某はそれが許せん……。なぜ……想い人と添い遂げる……。ささやかな願いが叶わないのだ」


「その荷を背負えるだけの器だからじゃ。出来る者がなさねばならん。……ゆえに、記憶を取り戻した時──対峙しなければならん。それが古に結んだ《約束》であれば、それは果たさなければならない。因果とはめぐるモノ」


 しゃらん。澄んだ錫杖の音色が深淵にいるモノを慰撫なだめ、

 すでに老人の姿は消え光の残滓が舞う中、気配はまだにあった。

 式神は気配のある場所に向かって、口元を僅かに歪めた。


「結局、最後までだと名乗らないつもりか?」


 名は六条院焔ろくじょういんほむら。警視庁、《失踪特務対策室》の二代目室長ではり、秋月燈の母方の祖父にして、式神が転生した魂の一部。しかしそれはある《約束》により、死しても本体式神には戻らない。

 六条院の存在は記憶からも記録からも消され、魂そのものも概念と言う存在になりつつある。それもまた六条院自身が選んだ結果だ。


「なに。その言葉はお主にそのまま返すとしよう。アレと対峙する前にを済ませる事じゃな」


「某がなんなのか──主に何をしてきたのか。知らないわけでもないだろう」


「じゃからこそ。……なに、ワシが気づけたんじゃ、お主も気づくはずじゃよ。……いや、とっくに気づいておって誤魔化しておるのかもしれんが」


 六条院はその返答を知っていながらも助言を残す。

 それが燈と式神の最大の試練であると口にはしなかった。互いに気づかなければ意味がない。


 ***


 しゃん……。

 校庭に広がっていた沼はただの影に戻り、隔絶空間そのものが崩れていく。

 黒い霧は霧散し、禍々しい気配も消えた。あと数分の間、現世に戻るまで待てばいい。

 式神は少女をそっと地面に寝かした。外傷はない。最後まで守り切ることが出来たと満足げに影の中に戻る。

 これ以上顕現し続けるのはまずい。もう彼女の片腕は、真っ黒に染まってしまっているのだ。間に合わなくなる前に──


「あとは……に任せる」


 影に沈むように消えた式神の代わりに、空から雷鳴が轟いた。

 燈を狙った糸の束は、によって燃え尽きる。


「ああ、残念。せっかくあの化物が消えるのを待っていたのに」


 残念そうに榎本佳寿美は、片手から生み出した糸を引き下げる。佳寿美は燈と接する時と変わらず、笑みを浮かべていた。

 式神の代わりに顕現したのは──


 白銀の長髪に、装飾を凝らした白の和装。

 陶器の様な肌に、酸漿色ほおずきいろの瞳の偉丈夫──龍神だった。

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