第45話 慕われるもの
龍神は
その跳躍はロケットのようなものではなく、空間を瞬時に移動した感覚に近かった。ふわりと白銀の髪が月夜の光を浴びて煌めいた。
分厚い雲の上は、星々や月がまばたき、幻想的なまでに美しい景色が広がっている。
「ふわっ!?」
「きゅぃい」
燈の腕の中にいる狸も
「さて、時間も押し迫っているようですので、終わらせましょう」
そう言って龍神は手を
光の矢は《鵺》に直撃し、轟音が響いた。
「嗚呼嗚呼嗚呼っ……!」
咆哮ではなく悲鳴──絶叫をあげ、《鵺》はアスファルトに崩れ落ちた。土煙りが上がり、起き上がることもままならない程の強力な一撃に、《鵺》は身悶えている。
しかし龍神は間髪入れず稲妻の矢を撃ち続けた。そこには温情の欠片もない。あの恐ろしい《物怪》が反撃も出来ず──あまりにも一方的に力を削られ、傷ついていく。
「あ、あの神様。ちょっとやりすぎじゃ……」
燈は思わず口を挟んだ。その声に龍神の指先がピクリと反応した。しかし彼は無表情のまま、眉一つ動いていない。まるで人形のような顔が少女を見つめ返した。
「時間がないのは、貴女もご存じでしょう?」
ぐうの音もでない正論だった。そう龍神は正しい。燈は開きかけた口を閉じ、やや逡巡しつつも言葉を紡いだ。
「それはそうだけど……。彼女たちが《物怪》になったのは、《荒御霊》に取り憑かれた男の子のせいかもしれないんですよ!?」
少女の腕に抱きかかえられている狸も目を
龍神は長い睫毛を僅かに震わせ、「はぁ」と短く嘆息した。
「それがどうかしましたか。結局のところ自分の心の歪みに気付かなかった、自身の過失によるもの。私は……私の優先するものの為に討伐するだけです」
「それなら私は、神様が討伐する前に彼女たちの心を助けに行きます」
言い切った燈に龍神は目を細め「本気ですか?」と尋ねた。驚きと言うより呆れかえったような言い回しだった。
「今の貴女は式神のバックアップもない。ただの人ですよ。なんの力もないのに、それでもあの厄災の前に立ち向かうというのですか?」
龍神の唇が少しばかり震えていた。けれどその口調は強く、しっかりとしたものだった。それに対して燈は小さく頷いた。
「神様も《鵺》を討伐しに来ているじゃないですか。なら、私が退治してしまっても問題ないですよね?」
「いいえ。《退魔の刃》は、魂の浄化に時間がかかり過ぎます。ここは一気に──」
「だめ」
手を翳し雷撃を撃とうとする龍神に、少女は勢いよく身を乗り出す。そして彼の腕に飛びつき、追撃を止めることが出来た──が、少女はここが上空だということを失念していた。
「あ」
「あ」
燈は勢いあまって飛び出したため一瞬、宙に浮いたような浮遊感を感じ──
「のわあぁ!」
次の瞬間に少女の体と狸は重力に従ってビル街に落ちる。
龍神は「姫……!」と慌てて両手で少女を抱きしめる形で落下を止めた。力いっぱい抱きしめられた彼からは白檀の薫りが鼻孔をくすぐった。狸は龍神の袖にしがみつく。
(あ、危なかった危なかった危なかった……!)
燈の心臓はいつになくうるさい。あまりの恐怖に少女は僅かに涙目になりつつ、龍神に抱き着き──しがみつく。
「………………」
龍神の表情はまったく変わらず無表情なのだが、心の内では偶然の
(やはり前より痩せた──いや、しっかり食べないと──
龍神が頭を振ると長い白銀の髪が、少女の頬に触れる。
(く、くすぐったい……)
少女のその愛くるしい姿に龍神は吐息が漏れた──
「本当に心臓に悪い……」
「うう……、申し訳ない」
「……貴女は、人を助ける為に自分の身を危険にさらすことがどれだけ……周囲を心配させ、傷つけているのか……気づいていないのでしょうね」
龍神の口元は震えていた。それが怒りなのか、それとも悲しみからか──
燈は不意に──白昼夢で見た光景を思い出す。
女人が死に、それを抱きかかえ咽び泣く
真っ暗な空、世界が終わるような雷鳴と暴風。
「貴女が傷つくたびに、傍に居て何も出来なかったモノたちが、どれだけ傷ついたか……。姫、今の貴女には見えないかもしれない。忘れてしまっているかもしれませんが……独りではないことを……どうか、忘れないでください」
「わー、わー。トモリ。トモリ」そう木霊は風に乗って少女の周囲を飛び回る。
他にも一反木綿がふわふわと風と共に浮遊していた。《アヤカシ》は燈を見守り、どこにでも現れ、いつも寄り添っていた。
「……独りじゃ、ない」
燈は今までの自分の──少なくとも記憶を失ってからの自分の行動を思い返す。
無茶をしていなかったか。
誰かの為に、自分の体を危険にさらしていなかったか。自分の言動を
龍神に指摘されて、燈は風呂場で目にする自分の体の傷を思い浮かべた。深い傷はないが、それでも日常生活ではけっして負わない傷がいくつもあった。
(今の私には記憶がないから、昔の自分はわからない。けれど無茶なことはしてた……と思う。殺生石で《鵺》に襲われた時に、小さな女の子を守ろうとした。杏花の言う通り危険を冒してまで私が学校に残る必要は……本当はなかったのかもしれない。私じゃない誰かが、それこそ上手くやってくれたのかもしれない……)
「でも」と少女は下唇をキュッ、と噛んだ。
(見て見ぬふりはできなかった。……投げ出すことも、出来るかもしれないことを放って背を向けたくなかった)
「貴女は弱い。心がではなく、戦いには到底向いていないでしょう」
龍神の言葉は容赦なく燈の心に突き刺さった。図星、だったからだろう。
「うん……」
「けれど貴女には人を動かす力がある。それをもっと理解することです。貴女はもっと周囲に……、傍にいるモノに頼っていいのです」
少女は気づいていないから、見えていない。彼女の周りには常に《アヤカシ》がいる。それは夢の中でも、現実でも変わらない。
たとえ名前という結びがなくとも、記憶がなくとも彼らは燈を慕って傍にいる。純粋なほど真っすぐで、誰よりも優しくて、泣き虫で、おっちょこちょいな少女が愛おしいから。誰かの為に頑張ろうと足掻いている姿が放っとけなくて、《アヤカシ》たちは力になりたくて集まってくる。
「頼る……?」
燈は
「頼っても……いいんですか? その……私がこうしたいと思っているだけで、巻き込むかもしれないのに……?」
不安と恐れをない交ぜにしながら、燈はおそるおそる龍神に問う。
「自分が傷つくのは平気な癖に、他人が傷つくのは嫌だ」という少女を彼は愛おしそうに見つめ返す。
「ええ。残念ながら貴女の周りには、貴女の無茶に付き合える
それはどこまでも優しい声だった。龍神の心の内から溢れる想いが少女に伝わってくる。もっとも彼の表情は硬いままだが、その心根は陽だまりのように温かいのだと燈は気づいた。
「貴女が出来ないことを周りが対応する代わりに、貴女は周りが出来ないことをやってのけてしまう。……だから姫が全部を引き受けなくていいのです」
燈の両目が僅かに
「……神様も? その周りの人に入ってます?」
龍神はその
「ええ、本当に
そう言った龍神は杏花と同じように「しょうがない」と口にしながらも、嬉しそうに口角を吊り上げた。
「《鵺》退治……。手を貸しましょう」
「神様ぁあああ!」
少女は胸の奥から溢れる衝動を抑えきれず、龍神に抱き着いた。「きゅいぃ」と戻ってきた狸ごと抱きしめたので、小さな悲鳴が漏れる。
「ありがとうございますぅ!」
「…………」
硬直する龍神に燈はハッ、と我に返る。「衝動にかられたとはいえ、神様に対して失礼だったのでは……」と、一瞬で抱き着いたことを後悔した。
(……いくら嬉しかったとはいえ、神様に抱き着くなんて……そ、そういえば、師……浅間さんにも抱き着こうとしていたような……。この感極まると抱き着くのはなんとかした方が良いよね……)
元々の癖なのか、どうにも自然に体が動いてしまう。燈は龍神からそっと体を離れると、彼の顔を覗き込んだ。
「えっと……」
「…………周囲に頼るのは構いませんが、
少女は龍神が押し黙った理由が分からず小首を傾げた。
(ん? 途中で言いよどんだ……? あ、もしかして、加護や儀礼とかの関係上、抱擁すると効果が薄れるとかあるのかも? うーん、よくわかんないけど、郷に入っては郷に従えっていうし……)
「とにかく……、今は《鵺》退治です」
「はい!」
燈は大きく頷いた。
「それでは行きましょう。一緒に」
《鵺》が咆哮を上げる。龍神と少女の会話の間に千切れた体が再生しつつあった。
二人は同時に《物怪》である《鵺》へと視線を向けた。
「《鵺》の間合いまで私が貴女を抱きかかえていきましょう。姫はその刀で《物怪》を斬ってください」
「は、はい。……でも、それだと時間がかかると言ってませんでした?」
「その通りです。貴女の力量で浄化するには一時間ほどかかります。ので、今回は私の力をこの刀に施すことによって浄化速度を速めます」
龍神が燈の両手に抱えている鞘に触れると、すさまじい熱量が刀に宿る。まるで生き物のように刀が脈打った。
「神様ってこんなことも出来るんですね!」
「……では行きます」
龍神は燈の向ける眩いまでの尊敬の念を受け止められず、話を終わらせる。ついで彼は片手を《鵺》に向かって
「
すさまじい白亜の稲妻が数千、数万の刃となって《鵺》に襲い掛かる。不吉な悲鳴を上げ、《鵺》の体は切り裂かれ、黒い血が噴き出す。
暴れ、のたうち回る怪物は周囲のビル街を
目に見えるもの全てを蹴散らし、壊し尽くす。《鵺》の瞳に映る全てのものが不快で、苛立ちの対象とでも言うようだった。
(ふわああああああ……! こわいこわいこわいこわい!!)
龍神は風の如く空を急降下して落ちていく。
狸は「大丈夫?」と言うように少女を気遣ってくれた。燈は苦笑いしながらこう答えた。
「うん、ありがとう。……あなたの心も一緒に届けに行こう」
狸は小さく「きゅぃ」と鳴くと、燈の持つ刀に身を委ねるように吸い込まれていった。燈の手にしていた黒塗りの鞘に光が宿る。
「嗚呼嗚呼嗚呼あああ!」
巨大な獅子の体に尾は蛇、真っ赤な猿の顔──《鵺》が咆哮を上げて龍神たちに襲い掛かる。だが、龍神の前では凶暴な《物怪》も赤子同然だった。
八つの稲妻が鵺の四肢と胴体を貫き──十倍はある巨体を地面に
「姫」
龍神は燈を抱き抱えたまま《鵺》に突っ込む。少女は鞘から刀を抜き放つと飛びかかる様に刃を振りかざし──
白銀の刃が、《物怪》を貫いた。
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