第38話 深淵から這いずるもの

 浅間あさまは早くも切り札を出すことにした。


「ああ……、突然だがたきは貴様にれている」


「ひゃ!?」と奇声を上げる草薙くさなぎだが、浅間は構わずに言葉を続けた。


「滝が今まで貴様から避け──んん……、一緒に居られなかったのは、惚れすぎて仕事が手につかないからだ」


「んふ、ふふふ」と歓喜の声を上げている草薙に、浅間は眉を寄せた。


「……と言うことで、もういっそ籍を入れてしまえば変な勘繰りもしないだろうと、これを俺に渡してきた」


 浅間は折りたたまれた結婚届を草薙に投げつけた。慌てて彼女が受け取ると、おそるおそる書類を開く。そこには見間違えるはずもない滝の筆跡で、彼の名前が書かれていた。


「っよっしゃあああああああああ!」


 浅間の眼前には、狂喜乱舞──飛び跳ねる残念な部下がそこにいた。草薙がガッツポーズを取ると、くしゃくしゃにしないように結婚届を胸ポケットにしまい込んだ。

「結婚届を渡してくれ」と見事な土下座どげざをした滝。それを他の男から渡されて小躍りする草薙。

 浅間はそこはかとなく疲れた面持ちで溜息をついた。


(……貴様らは、それでいいのか)


「あ、んん! 恋人をすっ飛ばしてお嫁さんだなんて……ふふふ……」


「ちなみに、この一件が無事に終われば、俺が保証人としてサインしよう」


「室長! さっさと事件を終わらせましょう。ええ、もう魔女なんかどうでもいいですわ!」


 草薙は素早く態度を切り替えたので、浅間は昇降口付近にある花壇へと視線を向けた。円状の花壇に巨大な術式が展開されていることに気付いたからだ。

 術式の中には、倒れている生徒たちの姿があった。およそ五十人ほどだろうか。


(西洋の術式……ルーン文字を紡いで展開している。準備もなしに即席で行ったとなると……)


 浅間は結界の中に秋月燈あきづきともりがいないか探す──が、少女の姿はない。代わりに蒼崎匠あおざきたくみ榎本佳寿美えのもとかすみの姿を見つけた。


(あの魔女が……他人を助ける為だけに術式を使った?)


 だとすればあの気位の高い魔女を動かしたのは燈なのだろう、と浅間は察した。昔からあの少女は、人の心を突き動かすのが得意だった。浅間自身も少なからず少女に甘い部分があると自覚している。

 しかしせないことが一つある。魔女は自らの術に誇りと隠匿性いんとくせいを持ち合わせている。そんな人物がいくら恩義があるとは言え、結界の中にいないのか。


「室長、血痕けっこんについてなんですが……」


「いや、結婚の話は帰ってから──」


 浅間は言いかけて草薙の反応からしてすぐに勘違いに気付く。彼女の視線の先を見ると、確かに赤黒い血痕が点々と校舎内に続いていた。


(術式を展開させたのち、秋月燈を追いかけて校舎に向かった?)


 しかしこの血痕が燈である可能性もある。あの少女が万が一にも死亡した場合、龍神のたがが外れ暴走するかもしれない。そうなると、この場所は今よりも厄介な場所になる。


(仕方がない……。あの手を使うか)


 浅間は手袋を片手だけ取ると、すぐに手を地面に押し付けた。

 《感知能力の拡大化》──

 この土地に祀られている土地神とちがみからの力を借りて、行う技だ。学校内に存在するすべての人間の位置を把握。その中で燈の現在地を確認する。


(移動中……否、空中を飛行している?)


 周囲に存在するモノを確認して、浅間は眉を吊り上げた。


「あの馬鹿……」


 浅間はすぐに校舎内に駆け込むと、燈の元へと急いだ。彼が校舎の中に消えると、草薙は爆発のあった温水プールのある方角に視線を向けた。

 校庭に《物怪》が大量に発生していることにいち早く気づいたからだ。そして──その統率者にも心当たりがあった。

 草薙の顔は青ざめ、額に玉のような汗がにじみ出る。


「兄さん……?」


 ***


 浅間は校舎内を通って真っすぐに室内プール──爆発現場へと向かった。リノリウムの廊下に靴音が響き渡る。


(チッ……。ノインに持たせた護符の効力が失いつつある。それほどまでに黒い霧が校舎内を侵食しているという事か)


 廊下内には異臭が立ちこめ、獣に似た匂いが充満している。

 ふと廊下の先には術式が組まれたプリント用紙が数枚ほど散らばっており、その周辺には血痕が残っていた。

 しかし血痕は廊下を進んだ途中で消えていた。それらしい死体もなければ《物怪》になった訳でもなさそうだ。忽然こつぜんといなくなった、というのが正しいだろう。


(空間転移? いやいくら魔女でも無理だろう。ならば……)


 浅間は再び足を速めて室内プールへと一直線に向かうが──突如、廊下に敵影が現れた。

 ぶよぶよと肉塊が踊るようにいずり回っている。豚の表面に似た桃色の肉塊で、その大きさは実に様々。三十センチから一メートルを超えるものまであった。

 その不気味さと悪臭は不快なものだったのだが、浅間は眉一つ動かさず、無表情のまま肉塊を蹴り飛ばした。


「時間稼ぎのつもりか? 邪魔だ」


「うわぁ……。ものの数分で《物怪》のなり損ないになるなんて……」


 草薙は生理的に嫌悪し、その綺麗な顔を歪めた。


「草薙、貴様は手を出すな」


「え?」


 草薙は制服のどこに隠し持っていたのか、日本刀やら鎖鎌、手甲に鉤爪など暗器をマジシャンの如く流れるような動作で取り出す。


「いいから……。それぶきを仕舞え」


「いくら室長でもこれだけの人数を相手に、《物怪》だけを祓うなんて無茶ですわ! そもそも《物怪》になる人間は自業自得な人たちばかりではないですか。それをいちいち気遣っていたら……」


「ああ、その通りだ。本来であれば、力業で掃討した方が手っ取り早い」


「なら!」


「だがこれは《物怪》。ならこいつらは被害者だ。掃討対象から外すのが鉄則」


 草薙は「つまんない」と頬を膨らませたが、浅間は彼女を無視して眼前の敵へと視線を戻す。


「さて、やるか」


 浅間は左手首に巻いている数珠を手の甲にぶら下げ、流れるような動作で弓道の矢を構えた。彼の手には弓も矢もないのに、廊下の窓に写る姿は、紛うことなき弓と矢を手にしていた。

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