第三幕 ~学校編~ 「幸福への障害」
第31話 祝福は災禍に似て・前編
──幸福の最も大きな障害は、
過大な幸福を期待することである──
フォントネル
***
それは場違いなほどに、明るい声だった。
「あ、燈ちゃん、おはよう」
「おはよう、佳寿美」
クラスメイトの
燈は佳寿美の姿に言葉を失った。彼女は頭と頬に湿布、左腕の手首に包帯、膝に
「…………」
佳寿美が単なるドジっ子だったら、燈は溜息の一つぐらいは出ただろう。だが、その怪我で彼女の身に何が起こったのか、ある程度の察しがついた。
燈はどこから切り出すべきか、考えあぐねた。
(もう、
燈が真剣に考えていると、視界に目障りな男が映り込んでくる。出来る事なら無視したままでいたかったが、そうもいかない。彼はこの学校の人間ではないのだ。それにこれ以上、騒ぎを大きくされて燈自身が動けなくなるのは非常に困る。
「……それはそうと、なんで彼がいるの?」
燈は佳寿美の怪我の原因を作った男を睨んだ。
「やあ、おはよう。秋月ちゃん」
佳寿美の隣にいる私服姿の青年は、柔らかな声で挨拶をする。やや明るい黒髪、長身の背丈、鼻筋の通った
しかし燈は何度会っても
「先輩のその笑顔見ていると──」
「惚れるかい?」
「いえ、正直むかつくんで、グーで殴りたいです」
「燈ちゃん!?」
「相変わらず冗談が通じないな」
蒼崎はにっこりと親しげな笑みを燈に向ける。
たいていの女子なら黄色い声を上げただろう。だが、燈はチベットスナギツネのような冷めた視線を返す。
(……腹立つな。腹部を一発殴りたい)
「この忙しい時に」と
(校舎の良くない雰囲気を調べなきゃだし、杏花とも連絡を取らないと……。それに自称ファンクラブの嫌がらせが、これ以上過激になる事は避けなきゃ……)
いつもにこにこと全人類を愛するような眼差しを向ける蒼崎。
燈はなぜ大学生の彼が高校に来ているのか、もっともらしい疑問を投げかけることにした。
「それで蒼崎先輩。大学はもう一つ先ですけど、高校に何か忘れ物ですか?」
燈の
「ふふっ、よく聞いてくれたね。実は佳寿美ちゃんを送り届けに来たんだ。……まあ、出来れば離れたくはないのが本心だけどね」
「……佳寿美、この
「た、匠さんは女の子には誰でも優しいけど、でも悪気があるわけじゃないんだよ! 困っている人がほっとけないだけで、手を貸したくなる人なの! 私の時だって……!」
「佳寿美ちゃん……。ありがとう」
「いえ、本当のことですし!」
ひし、と公衆の面前で抱き合う二人に、燈の緊張感はどこかに飛んでいってしまった。
(あー……、もしもーし。もう帰っていいかな……)
見つめ合う馬鹿カップルの視界には、すでに燈など見えていない。
今にでも「式を上げよう」と言いかねない雰囲気だ。いつの間にか昇降口に人だかりが出来つつあった。
良くも悪くも蒼崎は目立つ。佳寿美も可愛い部類に入るので余計だ。しかし当の本人たちは、周囲の視線に全く気付いていない。
燈は何度目かの
(ダメだ。この彼氏にして、この彼女あり。……よし、このまま放っておいて杏花を探そう)
そう思って二人から離れようとした瞬間──
燈は背筋が凍るような殺気に気付く。
「!?」
燈が周囲を見渡すと、ギラギラと
『なんであの女が隣に居るのよ』
『早く一之瀬先輩と三久先輩を呼んできて。あの女を蒼崎
『うん、わかった。あと、二井藤先輩も呼んでくる!』
(会話の内容からいって、《自称ファンクラブ》の生徒たちで間違いなさそうだけど……)
燈は女子生徒たちの言動に眉を
(一ノ瀬。どこかで聞いたような……どこだっけ? えっと……)
燈は誰がその名を口にしていたのか、思い出そうとしていると──
「秋月ちゃん、ちょっといいかな」
蒼崎の真剣な表情に燈は眉を寄せた。
「……なんです?」
いつもなら女性の機嫌を損ねない方法をとる男が、今日に限っては違っていた。彼の傍に近寄る女子生徒が見えていないのか無視したのだ。
「今日は秋月ちゃんにも聞いて欲しいことがあって、ここまで同行させて貰ったんだ」
蒼崎の言葉に燈は身構える。
「はぁ、……それで?」
「今日の放課後、彼女と
沈黙。
「は? ははあああああ!?」
「ええええ!?」
(……って、なんで佳寿美が一緒に驚いているの?)
佳寿美は顔を真っ赤にして手を頬に当てていた。逆に燈は蒼崎の決意に、冷ややかな視線を返す。
「法律的には問題ないですけど、……正気ですか?」
「ふふ、相変わらず冷静な返しだね。……もちろん、俺に変な噂が流れている以上、それを断ち切る為にも身を固めた方がいいだろう?」
蒼崎の言葉は力強く、その瞳には確固たる決意があった。同棲に至った今でも、佳寿美への
だが、燈は
(でもそれで彼女たちが諦める……?)
常識を
燈の中に形容しがたい複雑な感情が芽生える。焦りなのか、恐れなのか……。
手が汗ばみ、喉の渇きを覚えた。
「佳寿美ちゃん。少し予定が早まったけど、どうかな?」
「ほ、本当に……私と、その、結婚相手として……いいんですか?」
今にも
「もちろん。というよりも、俺が相手でもいい?」
蒼崎は自信なさそうにほほ笑み、そっと佳寿美の手を取った。
「は、はい! こ、こちらこそ、その…よ、よろしくお願いします」
二人はどちらともなく、そっと寄り添い抱きしめ合う。次の瞬間、わあっと歓声があがった。「おめでとう」や「お幸せに」などの声に、
蒼崎は佳寿美の肩を抱き寄せると、
「そういう訳で俺は本気だから、今後の学校生活で彼女に危害を加える人間が出た場合、俺はどんな手を使っても
蒼崎は丁寧な口調とこの上なく満面の笑みを浮かべて、特定の女子生徒に告げた。
「!?」
男の鋭い殺意に、燈は体がビクリと震えた。
「ひっ……」と、女子生徒たちは血の気が引く。さすがに恋愛脳な彼女たちでも、蒼崎が本気なのは理解したようだった。
「も、もちろんです」
「うんうん、お二人とも熱々ですし、邪魔なんか出来ませんよ」
身に覚えのある女子生徒たちは
(校舎内に
いずれにしても蒼崎の発言は、危険だった。それともそれが狙いなのか。まるですべてが今日という日を選んだかのように、嫌なことが重なりつつある。
燈は
火薬庫は、校舎に蔓延しつつある黒い霧。
ガソリンは、蒼崎の結婚宣言。
火をつけるのだとしたら、それは《自称ファンクラブ》たちの
燈は急いで杏花の携帯に連絡を入れる。
幸いにも「おめでとう」と祝福する生徒たちの声と人だかりで、燈がいなくなったことに蒼崎も佳寿美も気づきはしなかった。
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