第三幕 ~学校編~ 「幸福への障害」

第31話 祝福は災禍に似て・前編

 ──幸福の最も大きな障害は、

   過大な幸福を期待することである──

                    

フォントネル


***


 それは場違いなほどに、明るい声だった。


「あ、燈ちゃん、おはよう」


 ともりが振り返ると視界に見知った男女が映ったので、とっさに手にしていた携帯端末をバッグの中に押し込んだ。


「おはよう、佳寿美」


 クラスメイトの榎本佳寿美えのもとかすみ挨拶あいさつを返す。燈よりも頭一つ分低い背丈に、委員長杏花とはまた違ったほわほわとした少女が歩み寄る。

 燈は佳寿美の姿に言葉を失った。彼女は頭と頬に湿布、左腕の手首に包帯、膝に絆創膏ばんそうこうと痛々しい姿にも関わらず、いつものように微笑む。


「…………」


 佳寿美が単なるドジっ子だったら、燈は溜息の一つぐらいは出ただろう。だが、その怪我で彼女の身に何が起こったのか、ある程度の察しがついた。

 燈はどこから切り出すべきか、考えあぐねた。


(もう、悠長ゆうちょうな事は言ってられない……。佳寿美の話を聞くにしても、学校じゃなくて別のどこかで……)


 燈が真剣に考えていると、視界に目障りな男が映り込んでくる。出来る事なら無視したままでいたかったが、そうもいかない。彼はこの学校の人間ではないのだ。それにこれ以上、騒ぎを大きくされて燈自身が動けなくなるのは非常に困る。


「……それはそうと、なんで彼がいるの?」


 燈は佳寿美の怪我の原因を作った男を睨んだ。


「やあ、おはよう。秋月ちゃん」


 佳寿美の隣にいる私服姿の青年は、柔らかな声で挨拶をする。やや明るい黒髪、長身の背丈、鼻筋の通った凛々りりしい顔立ちで、さわやかな微笑みを常に浮かべていた。ルックスだけで十分にモテるのだが、それに加えて博愛主義者はくあいしゅぎしゃたる精神と甘い言葉が基本デフォルトなのだ。そのせいで勘違いする女性が後を絶たない。

 しかし燈は何度会っても蒼崎匠あおざきたくみのことを好ましく思えなかった。


「先輩のその笑顔見ていると──」


「惚れるかい?」


「いえ、正直むかつくんで、グーで殴りたいです」


「燈ちゃん!?」


「相変わらず冗談が通じないな」


 蒼崎はにっこりと親しげな笑みを燈に向ける。

 たいていの女子なら黄色い声を上げただろう。だが、燈はチベットスナギツネのような冷めた視線を返す。


(……腹立つな。腹部を一発殴りたい)


「この忙しい時に」と歯噛はがみしつつ、燈は冷静に努めようと吐息を漏らした。


(校舎の良くない雰囲気を調べなきゃだし、杏花とも連絡を取らないと……。それに自称ファンクラブの嫌がらせが、これ以上過激になる事は避けなきゃ……)


 いつもにこにこと全人類を愛するような眼差しを向ける蒼崎。

 燈はなぜ大学生の彼が高校に来ているのか、もっともらしい疑問を投げかけることにした。


「それで蒼崎先輩。大学はもう一つ先ですけど、高校に何か忘れ物ですか?」


 燈の慇懃無礼いんぎんぶれいな物言いに対して彼は、嬉しそうに口元をほころばせた。


「ふふっ、よく聞いてくれたね。実は佳寿美ちゃんを送り届けに来たんだ。……まあ、出来れば離れたくはないのが本心だけどね」


「……佳寿美、この万年春まんねんはるボケ男の何処がいいの?」


「た、匠さんは女の子には誰でも優しいけど、でも悪気があるわけじゃないんだよ! 困っている人がほっとけないだけで、手を貸したくなる人なの! 私の時だって……!」


「佳寿美ちゃん……。ありがとう」


「いえ、本当のことですし!」


 ひし、と公衆の面前で抱き合う二人に、燈の緊張感はどこかに飛んでいってしまった。


(あー……、もしもーし。もう帰っていいかな……)


 見つめ合う馬鹿カップルの視界には、すでに燈など見えていない。

 今にでも「式を上げよう」と言いかねない雰囲気だ。いつの間にか昇降口に人だかりが出来つつあった。

 良くも悪くも蒼崎は目立つ。佳寿美も可愛い部類に入るので余計だ。しかし当の本人たちは、周囲の視線に全く気付いていない。

 燈は何度目かの溜息ためいきを吐いた。


(ダメだ。この彼氏にして、この彼女あり。……よし、このまま放っておいて杏花を探そう)


 そう思って二人から離れようとした瞬間──

 燈は背筋が凍るような殺気に気付く。


「!?」


 燈が周囲を見渡すと、ギラギラと剃刀かみそりに似た双眸そうぼうを向ける女子生徒が三人。気のせいか一瞬、黒いもやのようなものが女子生徒たちにまとわりついていた。


『なんであの女が隣に居るのよ』


『早く一之瀬先輩と三久先輩を呼んできて。あの女を蒼崎から引き離さなくちゃ』


『うん、わかった。あと、二井藤先輩も呼んでくる!』


(会話の内容からいって、《自称ファンクラブ》の生徒たちで間違いなさそうだけど……)


 燈は女子生徒たちの言動に眉をひそめる。

 

(一ノ瀬。どこかで聞いたような……どこだっけ? えっと……)


 燈は誰がその名を口にしていたのか、思い出そうとしていると──


「秋月ちゃん、ちょっといいかな」


 蒼崎の真剣な表情に燈は眉を寄せた。


「……なんです?」


 いつもなら女性の機嫌を損ねない方法をとる男が、今日に限っては違っていた。彼の傍に近寄る女子生徒が見えていないのか無視したのだ。


「今日は秋月ちゃんにも聞いて欲しいことがあって、ここまで同行させて貰ったんだ」


 蒼崎の言葉に燈は身構える。


「はぁ、……それで?」


「今日の放課後、彼女とを出しに行くから、その報告をまずは君に聞いてほしくてね」


 沈黙。


「は? ははあああああ!?」

「ええええ!?」


 驚愕きょうがくと、歓喜かんきの声が同時に上がった。


(……って、なんで佳寿美が一緒に驚いているの?)


 佳寿美は顔を真っ赤にして手を頬に当てていた。逆に燈は蒼崎の決意に、冷ややかな視線を返す。


「法律的には問題ないですけど、……正気ですか?」


「ふふ、相変わらず冷静な返しだね。……もちろん、俺に変な噂が流れている以上、それを断ち切る為にも身を固めた方がいいだろう?」


 蒼崎の言葉は力強く、その瞳には確固たる決意があった。同棲に至った今でも、佳寿美への執拗しつような嫌がらせは続いている。それを断ち切るために、結婚宣言をするのは効果があるかもしれない。

 だが、燈は懸念けねんを抱かずにはいられなかった。


(でもそれで彼女たちが諦める……?)


 常識をわきまえない人間は、性質が悪い。何より杏花の話から《クロガミ怪奇殺人事件》と《白霧神隠失踪事件》に佳寿美や蒼崎が関わっているという点も気になる。

 燈の中に形容しがたい複雑な感情が芽生える。焦りなのか、恐れなのか……。

 手が汗ばみ、喉の渇きを覚えた。


「佳寿美ちゃん。少し予定が早まったけど、どうかな?」


「ほ、本当に……私と、その、結婚相手として……いいんですか?」


 今にも涙腺るいせんが崩壊しそうな佳寿美は、おずおずと顔を上げて恋人を見上げた。


「もちろん。というよりも、俺が相手でもいい?」


 蒼崎は自信なさそうにほほ笑み、そっと佳寿美の手を取った。


「は、はい! こ、こちらこそ、その…よ、よろしくお願いします」


 二人はどちらともなく、そっと寄り添い抱きしめ合う。次の瞬間、わあっと歓声があがった。「おめでとう」や「お幸せに」などの声に、拍手喝采はくしゅかっさいと祝福に包まれた。しかし、舌打ちや嫉妬の声が燈と蒼崎の耳に入る。

 蒼崎は佳寿美の肩を抱き寄せると、堂々どうどうと宣言する。


「そういう訳で俺は本気だから、今後の学校生活で彼女に危害を加える人間が出た場合、俺はどんな手を使っても。だから覚悟しておいてくれると助かるかな」


 蒼崎は丁寧な口調とこの上なく満面の笑みを浮かべて、特定の女子生徒に告げた。


「!?」


 男の鋭い殺意に、燈は体がビクリと震えた。

「ひっ……」と、女子生徒たちは血の気が引く。さすがに恋愛脳な彼女たちでも、蒼崎が本気なのは理解したようだった。


「も、もちろんです」


「うんうん、お二人とも熱々ですし、邪魔なんか出来ませんよ」


 身に覚えのある女子生徒たちは蜘蛛くもの子を散らすように、昇降口を出ていった。


(校舎内に蔓延まんえんしつつある黒い濃霧。……それをさらに悪化させかねない先輩の発言はわざと? それとも偶然?)


 いずれにしても蒼崎の発言は、危険だった。それともそれが狙いなのか。まるですべてが今日という日を選んだかのように、嫌なことが重なりつつある。


 燈は佳寿美と蒼崎二人一瞥いちべつすると、逃げていった女子生徒を追いかける。

 火薬庫は、校舎に蔓延しつつある黒い霧。

 ガソリンは、蒼崎の結婚宣言。

 火をつけるのだとしたら、それは《自称ファンクラブ》たちの嫉妬しっとだろうか──


 燈は急いで杏花の携帯に連絡を入れる。

 幸いにも「おめでとう」と祝福する生徒たちの声と人だかりで、燈がいなくなったことに蒼崎も佳寿美も気づきはしなかった。

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