第19話 深淵を識るモノ

 二〇一〇年五月一日 午前十一時過ぎ

 ゴールデンウイークの初日。

 秋月燈あきづきともりは那須塩原駅からバスを使って、目的の場所に向かっていた。


(ここまで来るのに三時間半……片道で七千円が消えた。護身用で閃光弾とか買っちゃったし……。ホテル代も考えると、今月の食費は節約しないと……うぅ)


 入院費やら学費などで口座にあった残金が、どんどん減っていくことに燈は憂鬱ゆううつな気持ちになった。


(しょうがない。これも必要経費……!)


 そう言い聞かせ、燈はバスの窓から移り変わる景色を眺めた。

 民家はあるが山々や田畑が多く、空がとても近い。青々とした空に雄大な雲が流れていく。

 穏やかな時間が流れていくのは悪くない。ただ何かを思い出すような兆候はなかった。


 曲がりくねった道のせいで車内が何度か揺れた。目的付近で燈はバスを降りると、事件のあった場所へと進んだ。

 それは殺生石が近くにある民家。この辺は元々温泉が有名らしく、旅館やホテルが目立っていたが、事件の影響で封鎖されたらしい。またバスのルートも今年に入って著しく変わってしまった。

 殺生石のある那須温泉まで、まだ十キロほど離れている。燈は下調べをしてきたので、別段落ち込むこともなく黙々と歩いた。


 三キロほど進んだ頃だろうか、目立つ黄色いテープが燈の行く手を遮った。

 立ち入り禁止と書かれたテープは通路の至る所に引かれている。それも数か月経ったものではなく、思いのほか真新しい。


(去年、事件があったのに、未だ復興作業もなく封鎖だけ?)


 燈はいくつか回り道をしてみたが、事件現場から半径五キロ圏内は立ち入り禁止で近づけない。。

 しかも紺色の軍服をきた警察官が見回りをしているという念の入りようにも驚いた。一事件とは思えない程、厳重な警備に燈は手がかりがあると直感した。


(うーん。どうしよう……。流石に現場は見られないと思ってはいたけど、五キロ圏内立ち入り禁止とか……。どれだけ厳重なのよ)


 思わぬ足止めをくらい、立ち往生しているところに先ほどの見回りをしていた警察官がやって来た。中肉中背でこれといって目立った特徴などはなかったが、警察官は


「ああ、秋月燈さんですね。お話は伺っております。ささっ、どうぞ中へ」

「へ?」


 あまりにも都合が良すぎる展開に少女は、眼前の警察官に警戒心を抱く。


「あの、話とは?」

「いえ、貴方がここに来られた時は通して差し上げるように、と言われておりましたので」


 あらかじめ用意されたセリフをスラスラ言うように、警察官は答えた。


「そのある方って、?」

「はい。そうです」


 燈は背筋が凍り付き、身体がぶるりと震えた。なぜなら蒼崎匠は単なる大学生で、榎本佳寿美の恋人だ。

 警察関係者──まして《あの方》などという立ち位置にいない。


「そんなに警戒しないで下さい。いえ、未だ警戒心を解かないことを賞賛すべきでしょうか」

「…………」

「この先に貴方の見たかった真実がある。もしかしたら、貴方の記憶が戻るかもしれない」


 警察官のその言葉は甘い毒に似て魅力的だった。黄色いテープの向こうは真実という深淵だ。

 燈はニーチェの言葉を思い出す。その言葉を脳裏に浮かべた瞬間、警察官が歌う様にその言葉を述べる。


「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬように心せよ。お前が長く深淵を覗くなら──」

「これは驚いた。ニーチェの《善悪の彼岸》一四六節をご存じとは」

「……少し前に読んだだけですよ」

「そうですか。ボクは父の友人に、本を貰ったのがきっかけでしてね」

(どうする? この人滅茶苦茶怪しいんだけど……。ああっ……せめてもう一人付添いを頼むんだった……)


 燈は今さら独断で動いたことを後悔しつつも、どうすべきか頭をフル回転させて考える。

 相手が何者なのか、目的は?

 燈は浅間に連絡することを思いつくが──あの人が本当のことを応えてくれる保証はどこにもない事に気付く。


(ここまで来た以上、何か手掛かりを見つけ出したい……。でも──)


 唐突に燈の持っている携帯端末のバイブ音が鳴った。バイブ音は一度では終わらず鳴り続ける。

 恐らく──


「電話に出てもいいですか?」

「ええ、どうぞ」


 警察官はにこにこと笑みを浮かべている。

 燈はポケットに入れている携帯端末を取り出し、画面を覗くと見知らぬ番号からの着信だった。

 用心しながら通話ボタンを押す。


『────』


 ノイズ音で酷く声が聞こえない。

 燈はつばを飲み込みながら「もしもし」と声を絞り出した。


『────テ』

「え?」


 怒号のような声だったが、殆ど聞き取れなかった。


「あの、もしもし?」


 ぶち、ぶち、と何かがはち切れる音がする。

 しかしそれは電話越しではなく、もっと近い──


『──!』


 懸命な声に弾かれ、燈が顔を上げると人影が肉薄していた。


「!?」


 慌てて燈はその場から飛び跳ねるように避けた。

 刹那、見えない何かが少女のすぐ真横を通り過ぎ背後──にあった竹林の何本かが倒れる音が響いた。もし燈がとっさに避けなければ、脳天が割れていただろう。


 いつの間にか周囲は黒々とした《黒い濃霧》に覆われており、現実離れした禍々しい気配やカチカチと蟲が蠢く音が聞こえてくる。


(なに……これ……。夢──?)


 燈の許容量を超えた出来事に呼吸が乱れる。だが、理性を保っていられたのは電話越しの相手がいたからかもしれない。


『いいですか。今はこの状態がなんなのか、そしてどうして襲われているのかなどは考えなくていいです。今から先導するので、この先にある神社まで向かってください』

「……わかった」


 燈の声は震えていたが、なんとか言葉を返すことが出来た。


「電話ハ終わりましたカ?」


 警察官のおおよそ場違いな明るい声に、燈は鋭く視線を返す。


「デデデハ……次ハ……」


 黒々とした濃霧が紺の軍服に巻き付くように、あふれ出し──

 警察官は胸を押さえ、屈んだ。

 刹那、男の肉体が内側から膨れ上がり爆ぜた。


「ひっ……!」


 血肉が飛び散るかと少女は身構えたが──

 まるで時間が巻き戻ったかのように──濃霧を取り込み、人ではないモノに再構築する。人の形を保っているが──猿の顔、獅子の両手、尻尾は蛇の頭──人と呼べるモノではなかった。


「アガガガガガ!!」

(ひいいいいぃ! なにあれ!?)


 悲鳴を押し殺し燈は震えた。

 人だが、人から外れたモノ──


「まさか……これが……《物怪もっけ》?」


 だとすれば、その存在自体が脅威そのものだ。


「アガ……ああ、もう少し……キミと話をしたかったのに……


 化物に近い外見になっていながら、呑気な声で話しかけてきたギャップに燈は凍り付いた。


「あなた……いったい……」

「ん? ? アガガ……ボクは少しだけこの体を借りただけだよ。キミと話がしたかったからね。……ボク本体は……ガガガガ……だから……ガガガガ」


 まるで二つの人格がせめぎ合うかのように、二つの感情が言葉に出ていた。


『あれは既に人ではありません。貴女が先ほど言ったように《物怪》と呼ぶモノです』


 異形のモノ──《物怪》と化したソレは一気に距離を詰め、燈に襲い掛かる。

 男が地面を蹴り上げると、一瞬で燈の眼前に凶悪な猿の顔が現れた。


(速っ……避けきれ──)


 

 獅子の爪が燈のバッグを斬り裂く。

 《物怪》が追撃に移ろうとしたその時──


「ガガガ……おや…………ガガガ」


 ピタリと《物怪》の動きが止まった。


『今です、後方の竹林に逃げてください!』


 携帯からの声に反応し、燈は転びながらも竹林の中に突っ込んだ。


「どうして……急に動きが……」


 ふと脳裏をよぎったのは鎧武者の存在だ。だが、ここは夢の中ではない。現実だ。


『──が時間を稼いでいる間に、このまま向かってください』

「う、うん……」


 また言葉の一部が聞き取れない。だが、それを言及する余裕は燈にはなかった。


 ***


 記憶にはないが燈は山や森の中を駆け回るのには、慣れていた。なんだか思い出したら相当嫌な記憶まで蘇りそうだが、そういう経験をしたのだろう。身体に染みついた感覚はありがたいことに忘れないようだ。


「あ、見えてきた……!」


 一時間ほどで見えてきたのは神社の鳥居だった。

 霧が立ち込めていたが、鬱蒼と生い茂る緑に緋色の鳥居は目立っていた。


「……さっき《物怪》の動きが止まったのは鎧武者が抑え込んでくれていたから?」

『そのようなものです。……しかし、今は──が切れているため、本来の力を出すことは出来ないでしょう』

「……にしてもさっきの《物怪》って……どこかで見たような」

『……《第一級特異点》で

「え。……えええ!?」


 思わず燈は声を荒らげてしまった。


『あれは《第一級特異点》から現実に至った《物怪》──その形は《ぬえ》』

(あ、うん。私が驚いたのは、この電話の相手が誰なのかかみさまに気付いたことだったけど……。まあ、いっか)


 心の病がアヤカシを引きつけ、人の因縁がアヤカシに《形》を与え《物怪》となる。


「えっと、あの《物怪》を何とかするには、《心の病》となった原因と願いを見つけ出して《退魔の刃》で斬ればいいんでしたっけ?」

『それが最善策──しかしそれ以外にも方法はあります』

「それって──」


 朱色の鳥居をくぐるところまで来て、燈の足は途中で止まった。

 

 霧がかった脳裏に何か浮かび上がった瞬間──


「こなた」


 ふと、子どもの声に燈は振り返る。

 まったく気配や足音は感じられず、音も無く。その童女は真っ黒な長い髪、赤い花の髪留めが印象的で、真っ白な着物と上等な帯──妙に思ったのは足袋しか履いていないことだ。


「こんな所に子ども?」

『────』


 今まで繋がっていた通話が一方的に切れてしまう。


「か、神様?」


 燈は困惑した。

 こんな所に人がいるのは可笑しい、と。そしてそれが人でないと直感で気づいた。類い的なモノで言えば、


「こなた、くると思ってた」

「わ、私?」


 童女はこくこく、と頷いた。


「でも、まだ駄目。鳥居の中、入っちゃ駄目。足りないままじゃ、なにも変わんない」


「なにが足りないの?」そう尋ねようとして燈は童女の背後にいるモノに気付いた。

 獣の如く駆ける人影が猛追もうついしている。

 《物怪》だ──人の姿を模した──猿の顔、獅子の肢体、蛇の尻尾。


(ああっ、もう!)


 考えるよりも先に身体が動いていた。

 燈は童女を抱きかかえ、一か八かで脇道の急な傾斜に飛び出す。それと同時に、護身用で持ってきていた閃光弾のピンを抜いて《物怪》に投げつけた。


 瞬く煌めきに目を眩まされぬよう、燈はしっかりと目を閉じ──

 転がり落ちる痛みを覚悟する。しかし、少女の意識はそこでプツリと途切れた。

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