第11話 行き当たる壁の前

 ともりは放課後の部活を途中で切り上げて、一度寮に戻った。そのあと着替えないで、カバンの中身を減らすと再び家を出る。


(五時に間に合うかな)


 携帯画面を覗くと四時三五分を指していた。燈は目的地までの最短ルートを所要時間を計算する。向かう場所は湖沿いにあるショッピングモールだ。

 自転車があれば良かったのだが、あいにく燈は持っていないのでバスか徒歩となる。


(電車だと遠回りになるため却下。バス停で待つぐらいなら歩いた方が速そう)


 燈は住宅街を突っ切ると、青葉の生い茂る田畑に出た。そのまま通過し、橋を渡れば湖とショッピングモールが見えてくる。

 燈は携帯で時間を確認すると四時時四八分だった。


(うん。これならなんとか間に合う)


 燈は少し気持ちに余裕が生まれ、歩く速度を緩めた。湖沿いに近づくと、季節ごとに様々な鳥たちが羽休めをしているのが見えた。ちょうど白鷺が空を飛んでいく。


(ふう……。それにしても……なんでショッピングモールで待ち合わせなんだろう)


 事の発端は授業が終わった放課後に遡る。午後になっても委員長──杏花きょうかが教室に訪れることはなかった。部活に顔を出そうとした矢先、一通のメールが燈に届く。


(まあ、杏花は学校を数日休んでたから、放課後だけ顔を出したら先生に見つかるかもしれないか)


 燈は空を仰ぐと刻々と淡い水色が赤紫色に変わっていくのが見えた。ぼんやりと星が見えはじめ、薄っすらとした白い月が顔を出す。水面に映る月はゆらゆらとして、とても綺麗だ。湖沿いは芝生や遊具があり、十分に広いのだが、今日に限っては人の気配がまったくいなかった。

 不思議に思いながらも、燈は急ぎ足を進めた。


 少女の影が少しずつ伸びていく。けれど、その数は一つだけ。おもむろに振り返っても、影は一つだけ。

 誰もいない。


(なんで、かな……。なにか、足りない気がするのは……)


 、そんな光景が頭によぎる。懐かしくも、思い出せないことが寂しくあった。


「……《この日光。この雲のない青空があり、生きてこれを眺めることのできる限り、私は不幸ではない》。不幸じゃない、か。……アンネの日記だっけ?」


 不意に浮かび上がった言葉を燈は反芻する。


「……確かに端から見たら、今の私はこの何気ない日常を過ごしている。友人もいる、ぐっすり眠る家もある、食べ物も十分にある。それを《幸福》だというのかもしれないけど……」


 燈は歩いていた足が止まった。歩いているのは独りだけ。影も一つ。誰もいない。

 頬にひんやりとした風が触れた。


「でも記憶がない。それだけで自分が空っぽみたいで……嫌だな」


 もしかしたら《一緒にいた誰か》は、事件の時に亡くなったのではないか。大切だった人も、傍にいた人も全て失ってしまったのではないか?

 だから心が耐えきれなくて記憶を封じた──燈は最初はそう判断していた。でも、この記憶喪失は《意図的》で、《作為的》だとノインは告げたのだ。

 なら燈が選ぶ選択肢は決まっている──


(記憶を取り戻す方法があるはずだ。だから──絶対に諦めない)


 ふと周囲の空気がひんやりと冷たくなった。それも氷点下に近い寒さだ。急な温度変化に、燈はやっと何らかの《異変》に気づいた。


(……なんだろう、なにかが、変?)

 

 湖沿いに近づこうとした通行人やジョギングをしている人たちまでもが、示し合わせたかのように、湖沿いを避けるように離れていく。まるで湖沿いから追い払われるように


(視界に入っていても、注意を逸らす。目視しているのに、その存在に焦点を当てないようにしている……)


 燈はそれを知っていた。名前もなんの知識もないはずなのに……。

 ふと燈は人々の意識から外された湖沿い中心に、一人の男が佇んでいることに気づいた。今までなぜ認識できなかったのかが不思議なぐらい目立っている。不吉を象徴する黒い軍服をまとった男。彼の名は──


(浅間さん!?)


 燈は事件のことを聞こうと浅間の元に駆け寄った。が、男は少女の姿に気付いていないのか、何もない湖に向かって手をかざした。


「浅間さ……っ!?」


 燈が湖沿いに近づいた瞬間、つむじ風が吹き荒れる。あまりの強風に少女は吹き飛ばされるかと身構え目を瞑った。しかし、甘い花の香りが薫った刹那、風が緩んだ。

 壁になって燈を守っているかのようだった。


(誰か──何かが私の前にいる……!?)


 風が緩んだことに安堵する燈だったが、視界に大きな影が肉薄していた。


「ん?」


「部外者が入り込むとは……滝のやつ、後で始末書だな」


 鋭く威圧感のある声音に、燈は恐る恐る顔を上げ──できる限り笑顔で浅間に声をかける。


「浅間さん、お久しぶりです」


「誰だ、貴様?」と浅間は怪訝そうな顔で燈を見返す。


「あの、秋月燈です! 病院ではお世話になりました」


 ぺこり、と頭を下げる燈に、浅間は何かに気づいたのか表情を僅かに緩めた。といっても、眉間にしわを寄せなくなっただけで、普通に怖い。


「ああ、《あの事件》の」とぶっきらぼうに答えた。


「はい。あの後の手続きとか諸々ありがとうございました」


 燈が入院中、何度か事情聴取で顔を合わせたのが眼前にいる刑事の浅間だった。その時は同世代の女の子も一緒だったはずだが、今日は一緒ではないようだ。


「草薙さんは一緒じゃ無いんですね」


「ああ。悪いか?」と浅間は忌々しそうに答えると胸元からタバコを取り出し、おもむろに吸い始めた。


「あれ? でも確か草薙さんは浅間さんの師匠でしたよね?」


 燈は自分の発言になぜか違和感を覚えた。今の話は《誰から聞いた》のだろう。


「ほお、面白い冗談だな。誰に聞いた?」


 浅間の目が笑っていなかった。


「いや、えっと……なんとなく思っただけであって……」


「フン……。まあいい。それで貴様の記憶は戻ったのか?」


 ふう、と白い煙を吐きながら、浅間が燈に問うた。世間話のつもりなのか、それとも気遣ってくれたのか……。


(あ、でも煙草の煙が私に来ないように配慮してくれてる。分かり辛いけど、いい人だ……)


 浅間の言動に感謝しつつ、燈は正直に答える。


「あー、いえ。まったく。でも、明日からゴールデンウイークですし、手がかりになりそうな場所に行ってみようと思います」


 記憶を取り戻すことを諦めないと決めた今、燈の言葉に浅間は苦笑を漏らした。

「それは何とも物好きなことだ」と、どこか羨望が込められた口調だった。


「貴様は《パンドラの箱》だと知りながら、それでも蓋を開けるのか?」


 《パンドラの箱》──それはギリシア神話で語られる《厄災の箱》。ゼウスがパンドラという娘に《あらゆる災いの詰まった箱》を持たせた。彼女は好奇心から箱を開けると、《全ての災い》が地上に飛び出した。慌てて蓋をしたが残ったのは《希望》だけだった、という話だ。


「確かに《事件》の当事者たちや、それを調べた人がみんな《神隠者かみいんじゃ》や《未帰還者みきかんしゃ》になったのは知っています。でも、私は自分の失った記憶を取り戻したいんです。お願いします、事件のことを──」


 燈の必死な姿を前にしても、浅間は眉一つ動かなかった。


「話にならんな。それでは《時間の無駄》だ」


 浅間は煙草の吸殻を携帯用灰皿に詰めると、踵を返して歩き出す。まるで燈など目もくれずに携帯端末を取り出してどこかに電話をかけた。


「浅間さ──」


「室長!」


 黒い軍服服の男たちが駆けつけ、燈は強制的に浅間から引き離されてしまった。その後、少女は何度も浅間に近づこうとするが、おそらく浅間の部下であろう人たちに追い返されてしまう。


(ち、近づけない……。そして物々しい空気……)


 燈以外の人々はこの物々しい雰囲気や、黒い軍服姿の刑事たちが十数人いるのに気にも留めない。何事も無かったかのように彼、彼女らは湖沿いを避けて通り過ぎていく。少女は少し離れた公園のベンチに座りながら、浅間の姿を目で追いかけていた。


(あの場所で、何があったんだろう……?)


 何か《事件》が起こった風な重苦しい雰囲気だが、死体もなければ鑑識の姿もない。どちらかというとなにかの処理を行っているように見える。


「なんで誰も気づかないんだろう……」


「あれは術式で《東洋の人払い》というものなのですよ」


 聞き慣れた声に顔を上げると、そこには制服姿の委員長──杏花がにっこりと微笑んでいた。暗く沈んだ夜の世界に委員長の姿は神々しく見えた。

 まるで昼間の姿は地味な少女を演じていると思わせるほど、夜を背後に控えた彼女は似合っていた。


「委員長!」


 燈は携帯画面を覗くと、時刻はいつの間にか五時を過ぎていた。


「あ! ごめん、待ち合わせの場所にいなくて!」


「しょうがないから今回は許してあげるのですよ。……では、時間もありませんから行きましょう」


(浅間さんに話を聞きたかったけど……。ううん、今は杏花との話の方が大事!)


 燈は後ろ髪を引かれる思いだったが、杏花の話を聞くためこの場から離れた。


***


 ショッピングモールの適当なカフェに入るのかと思っていたのだが、実際に杏花と店に入ったのは、アットホームで一軒家のような店だった。


「いらっしゃいませ。《Café Eudaemonicsカフェ・ユーデモニクス》にようこそ」


 店の名に燈は首を傾げた。


 その店舗名は最近聞いたばかりだ。それもと楓が言っていた名と同じだった。


(もしかして二号店? でもなんか違うような……)


「二名で、できれば屋根上の特別席の使用をお願いしたいんですけど……」


「ああ《フギン》か。いらっしゃい。特別席ね、構わないけど……珍しいね。今日は妹さんと一緒じゃないんだ」


「ええ」


 《フギン》とはどうやら杏花のことを指しているようだった。

 店員は若く二十代前半ぐらいだろうか。蒼崎匠とはジャンルが違う爽やかさ。そして不思議と人を惹きつけ雰囲気を持っていた。


「秋月さん、こっち」


「あ、うん」


「あの……もしかして、……?」


「え……?」


 フルネームを急に呼ばれ燈は、立ち止まって振り返る。しかし、杏花は素早く燈の手を掴むと、強引に奥の席へと向かって歩き出す。呼び止めた店員は微苦笑を漏らし、燈に小さく頭を下げた。

 燈は訳が分からず、杏花に促されるまま後に続いた。


(さっきの人、《しき》って読むのかな?)


 四季、と名札に書いてあった。燈は気になったが「珍しい名字だからだろうと」あまり考えなかった。


(さっきの店員さん、私のことを知ってる? ……ううん。とりあえず今は杏花の話を聞いてからにしよう)


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