第10話 龍神の幸福論

 ***


 ともりかえでが調理実習室にいるのを、窓の外から烏が見ている。大きな烏だ。木の枝に止まって、その烏の目を通して視ている者がいた。一人は保健室にいる養護教員の柳。もう一人の人物は

 過度な干渉を禁止し、傍観と保護に努める。それが柳の主。冥界、《常世之国とこよのくに》の王──龍神が出した結論だった。臣下である柳はその決定に異を唱えることを愚行と知りながら王に口を挟む。いや、正確には念話──脳に直接語り掛けているという方が正しいだろう。


 ──我が王、差し出がましいかと存じますが……、なぜあの娘を御身の庇護下に置かれておられるのですか? 命令とあればすぐにでも……──


 念話で語る柳の具申に、龍神は「否」と答える。


 ──彼女の覚悟は事情を知らないからできるもの。今、あの場には間違いなく日常という《青い鳥こうふく》が止まっている。今の幸福をなげうつ覚悟がなければ、私は動く気はないし、会うこともしないだろう──


 静かながらその声は力強く、そして何より秋月燈への想いに溢れていた。

 王が心から幸福を願うただ一人の人間。それが去年起こった《ある事件》の果てに導き出した答えだった。


 ***


 《あの事件》後、龍神は燈の病室に訪れたのだ。その時の事は忘れもしない。彼は人の姿を借りて、愛しい彼女に声をかけた。


「姫……。私がいながら……」


 謝罪と、失った記憶のこと、そしてこれからの事を話すために。だが、燈は小首を傾げながら、「あ、もしかして、私の知り合いの方ですか?」ホッとしたような安堵の笑みをこぼした。


「……姫」


 どれだけ心細かったのだろう。燈の一言で龍神は胸が軋み、目じりに涙が浮かんだ。ここに来るまで出来る限り急いだというのに、目を覚ました時に傍にいることはできなかった。


(己の不甲斐なさに吐き気がする……私は何度、繰り返すつもりなのだ……)


「あ、あの……。どうかしましたか?」


 記憶を失った少女は笑顔を曇らせ龍神を気遣う。燈との距離はほんの数十センチだ。あと半歩でその手が届く。


「姫……、私は……」


 龍神が燈の手に触れた刹那、


「あ……れ……ごほっ、ごほっ──ひゅっ」


 燈の容態が急変し、呼吸困難ののち意識不明に陥った。

 すぐさま彼女の影から黒い塊式神が飛び出し、龍神を病室から引き離した。窓ガラスは粉々に叩き割れ、人間たちの悲鳴と怒号はすぐさま遠のく。二つの影は空を飛び続けた。

 そして──


 冷めたネオンの光が地上を埋め尽くす中、高層ビルの屋上に二つの影が降り立つ。月夜の下で黒狐と龍神は互いに間合いギリギリまで距離を詰めた。あと数歩で攻撃が届く。


『お前は、?』


 黒狐は龍神に怒鳴りつけた。その勢いに龍神は僅かに怯む。


「……そのようなつもりはありません。私はただ彼女を見舞いたかっただけです」


 龍神の長い髪と和装の裾が風によってなびく。陶器のような白い肌に、表情のない鉄面皮。容姿が整っているからこそ、無表情さが目についてしまう。


『……一つ聞くがお前は、《先の事件》についてどれだけ内容を覚えている?』


 龍神は「妙なことを聞く」と思ったが、正直に答えると、黒狐の雰囲気が一変した。


『なるほど。我が主に次いでお前も記憶が抜け落ちているという訳か』


「私が? 何を……」


 逆に龍神の片眉がわずかに吊り上った。


『さてな。某は知っているが、話すことはできぬ。話しても本人が《気づかなければ》意味はない。お前が《逃げる》のか《挑む》のか好きにするといい。某は《我が主》が何を選ぼうと付き合うだけだ。……今のところ、じゃがな』


 思い返しても龍神には記憶が抜け落ちている感覚はない。

 それは今も変わらない。式神の言葉はブラフの可能性もあったが、龍神は燈の安全を最優先に動いた。


 ***


 ──王よ。人は限りなく愚かであり、あの娘もそれに該当すると推測いたします。それでも、動くことはなさらないと? 王の力の半分は、。それを早急に取り戻さなければ、我が国の地盤が揺るぎかねないのでは?──


 柳は歯を食いしばる。

 現世と冥界の《境界》は揺らぎ、《理》が軋み、歪んでいることは事実だ。一九九九年の《MARS七三〇事件》を皮切りに状況が一気に傾いた。《異界》の淀みが浄化される間もなく、今にも溢れかえろうとしている。このままでは《境界》は崩れ、《異界》が世界を飲み込むだろう。


 ──私の力が半分になるのと、《常世之国》が揺らぐのは、因果関係が異なります。神が人の世を形作るのではない。人がこの世を形作り、そして人によって神は生まれ、神はそれを見守る。連綿と続いていた営みと、人との繋がりが途絶えつつあるのは、。私たちができることは《切っ掛け》を作ることと少しばかり《助力》すること。現世で起きている問題は、人間が何とかしなければならない──


 ──ハッ、差し出がましいことを──


 ──良い。それより……──


 龍神は燈へと視線を戻す。彼女と友人とのやり取りを見て、龍神は内心でホッと安堵した。


(姫……)


 龍神は選んだ。《逃げる》訳でも《挑む》訳でもなく、

 彼女が「本気で記憶を取り戻したい」というなら尽力を注ぐ。逆に「今のまま」を選ぶのなら、それも受け入れようと決めていた。


(私は姫の傍に居たい。けれど、それは姫も同じように思ってくれなければ……成立しない。ですから、貴女次第です。今の状況では、私は貴女の傍にはいられない……。いてはいけない……)


 龍神の力は百年も待てば自然に戻ってくる。急ぐ必要はない。燈が選んだのなら、たとえ傍に居られなくとも構わない。寂しくはあるが──燈を失うことに比べれば些末なことだ。


 ──……それにしても、彼女は元気そうですね──


 ──はい。《先日の怪我》もすでに完治しています──


 龍神は燈の安否を確認するためだけに、わざわざ柳の眷族を使い《目》を使用したのだ。


 ──昔のように心を閉ざしている兆候はない。友人もいる。姫の料理は昔から上手でしたし、煮込み料理は絶品でした。それに金銭感覚もしっかりして、家計簿もつけていましたし……。まあ、少し抜けていて、お人好しなのが少し心配ですが……よかった──


 柳はその「よかった」という言葉がどうしても後ろ向きに聞こえてしまう。燈は記憶を失っているのだから、龍神を覚えているはずもない。

 けれど、もしかしたら僅かに何か記憶が残っているかもしれない──そう期待していた部分が龍神にはあったのだろう。失っても見えない絆があり、奇跡が起こるかもしれない、と。

 厳重な記憶の封印は綻び一つ残さず完璧だった。龍神が動けばそれだけで現世に多大な影響を及ぼす。今度こそこの国を更地にする可能性がないとは言えないのだ。


 しかし柳には疑問があった。「なぜ秋月燈は記憶を触媒にして龍神の力を封じたのか」──それ以外の方法もあったはずだというのに、いばらの道を選んだのか……。どうしても理解できなかった。

 不可解な謎はそれだけではない。《あの事件》の全容を知る者が、殆どいないということだ。また《当事者》であっても、その時の出来事だけが抜け落ちている。

 そして当事者全員が、そのことに違和感をもっていないのだ。他人が指摘しても声が届いていないのか《気づかない》。それはもはや封印に施されたしゅなのかもしれない、と柳は思った。


 ──それでも我が王。あなたは《幸福》だとおっしゃるかもしれませんが、小生にはそうは見えません──


 ──だとすれば、《幸福》とは失って初めて得られるものかもしれませんね──


 その言葉どおりなら「」そう柳は龍神に告げようとして──結局、沈黙を貫いた。

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