第10話 龍神の幸福論
***
過度な干渉を禁止し、傍観と保護に努める。それが柳の主。冥界、《
──我が王、差し出がましいかと存じますが……、なぜあの娘を御身の庇護下に置かれておられるのですか? 命令とあればすぐにでも……──
念話で語る柳の具申に、龍神は「否」と答える。
──彼女の覚悟は事情を知らないからできるもの。今、あの場には間違いなく日常という《
静かながらその声は力強く、そして何より秋月燈への想いに溢れていた。
王が心から幸福を願うただ一人の人間。それが去年起こった《ある事件》の果てに導き出した答えだった。
***
《あの事件》後、龍神は燈の病室に訪れたのだ。その時の事は忘れもしない。彼は人の姿を借りて、愛しい彼女に声をかけた。
「姫……。私がいながら……」
謝罪と、失った記憶のこと、そしてこれからの事を話すために。だが、燈は小首を傾げながら、「あ、もしかして、私の知り合いの方ですか?」ホッとしたような安堵の笑みをこぼした。
「……姫」
どれだけ心細かったのだろう。燈の一言で龍神は胸が軋み、目じりに涙が浮かんだ。ここに来るまで出来る限り急いだというのに、目を覚ました時に傍にいることはできなかった。
(己の不甲斐なさに吐き気がする……私は何度、繰り返すつもりなのだ……)
「あ、あの……。どうかしましたか?」
記憶を失った少女は笑顔を曇らせ龍神を気遣う。燈との距離はほんの数十センチだ。あと半歩でその手が届く。
「姫……、私は……」
龍神が燈の手に触れた刹那、
「あ……れ……ごほっ、ごほっ──ひゅっ」
燈の容態が急変し、呼吸困難ののち意識不明に陥った。
すぐさま彼女の影から
そして──
冷めたネオンの光が地上を埋め尽くす中、高層ビルの屋上に二つの影が降り立つ。月夜の下で黒狐と龍神は互いに間合いギリギリまで距離を詰めた。あと数歩で攻撃が届く。
『お前は、
黒狐は龍神に怒鳴りつけた。その勢いに龍神は僅かに怯む。
「……そのようなつもりはありません。私はただ彼女を見舞いたかっただけです」
龍神の長い髪と和装の裾が風によって
『……一つ聞くがお前は、《先の事件》についてどれだけ内容を覚えている?』
龍神は「妙なことを聞く」と思ったが、正直に答えると、黒狐の雰囲気が一変した。
『なるほど。我が主に次いでお前も記憶が抜け落ちているという訳か』
「私が? 何を……」
逆に龍神の片眉がわずかに吊り上った。
『さてな。某は知っているが、話すことはできぬ。話しても本人が《気づかなければ》意味はない。お前が《逃げる》のか《挑む》のか好きにするといい。某は《我が主》が何を選ぼうと付き合うだけだ。……今のところ、じゃがな』
思い返しても龍神には記憶が抜け落ちている感覚はない。
それは今も変わらない。式神の言葉はブラフの可能性もあったが、龍神は燈の安全を最優先に動いた。
***
──王よ。人は限りなく愚かであり、あの娘もそれに該当すると推測いたします。それでも、動くことはなさらないと? 王の力の半分は、
柳は歯を食いしばる。
現世と冥界の《境界》は揺らぎ、《理》が軋み、歪んでいることは事実だ。一九九九年の《MARS七三〇事件》を皮切りに状況が一気に傾いた。《異界》の淀みが浄化される間もなく、今にも溢れかえろうとしている。このままでは《境界》は崩れ、《異界》が世界を飲み込むだろう。
──私の力が半分になるのと、《常世之国》が揺らぐのは、因果関係が異なります。神が人の世を形作るのではない。人がこの世を形作り、そして人によって神は生まれ、神はそれを見守る。連綿と続いていた営みと、人との繋がりが途絶えつつあるのは、
──ハッ、差し出がましいことを──
──良い。それより……──
龍神は燈へと視線を戻す。彼女と友人とのやり取りを見て、龍神は内心でホッと安堵した。
(姫……)
龍神は選んだ。《逃げる》訳でも《挑む》訳でもなく、
彼女が「本気で記憶を取り戻したい」というなら尽力を注ぐ。逆に「今のまま」を選ぶのなら、それも受け入れようと決めていた。
(私は姫の傍に居たい。けれど、それは姫も同じように思ってくれなければ……成立しない。ですから、貴女次第です。今の状況では、私は貴女の傍にはいられない……。いてはいけない……)
龍神の力は百年も待てば自然に戻ってくる。急ぐ必要はない。燈が選んだのなら、たとえ傍に居られなくとも構わない。寂しくはあるが──燈を失うことに比べれば些末なことだ。
──……それにしても、彼女は元気そうですね──
──はい。《先日の怪我》もすでに完治しています──
龍神は燈の安否を確認するためだけに、わざわざ柳の眷族を使い《目》を使用したのだ。
──昔のように心を閉ざしている兆候はない。友人もいる。姫の料理は昔から上手でしたし、煮込み料理は絶品でした。それに金銭感覚もしっかりして、家計簿もつけていましたし……。まあ、少し抜けていて、お人好しなのが少し心配ですが……よかった──
柳はその「よかった」という言葉がどうしても後ろ向きに聞こえてしまう。燈は記憶を失っているのだから、龍神を覚えているはずもない。
けれど、もしかしたら僅かに何か記憶が残っているかもしれない──そう期待していた部分が龍神にはあったのだろう。失っても見えない絆があり、奇跡が起こるかもしれない、と。
厳重な記憶の封印は綻び一つ残さず完璧だった。龍神が動けばそれだけで現世に多大な影響を及ぼす。今度こそこの国を更地にする可能性がないとは言えないのだ。
しかし柳には疑問があった。「なぜ秋月燈は記憶を触媒にして龍神の力を封じたのか」──それ以外の方法もあったはずだというのに、いばらの道を選んだのか……。どうしても理解できなかった。
不可解な謎はそれだけではない。《あの事件》の全容を知る者が、殆どいないということだ。また《当事者》であっても、その時の出来事だけが抜け落ちている。
そして当事者全員が、そのことに違和感をもっていないのだ。他人が指摘しても声が届いていないのか《気づかない》。それはもはや封印に施された
──それでも我が王。あなたは《幸福》だとおっしゃるかもしれませんが、小生にはそうは見えません──
──だとすれば、《幸福》とは失って初めて得られるものかもしれませんね──
その言葉どおりなら「
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