《幕間》 浅間龍我という男・後編

 浅間は《黒い濃霧》が溢れかえっている中で、寝室へと向かった。


(思った通り濃霧の発生源はここか)


 寝室には壁にいくつもの写真が貼られており、写真はみな同じ人物だった。芸能人にいそうなさわやかな笑顔、長身で服のセンスも良いようだ。

 柳ヶ丘大学一年、蒼崎匠あおざきたくみ。そう被害者の手帳に書かれていたものを見つけた。

 相手の好みなど細かく書かれている。しかし被害者が蒼崎と一緒に写っている写真が一枚もない。また写真のほとんどは盗撮に近いものばかりだった。


(蒼崎匠……ああ、《あの事件》の関係者か)


 ここまでくれば《濃霧》の発生原因が、色恋沙汰だと推測できる。もし被害者──一ノ瀬が《物怪》になっていたら、写真の男が狙われる可能性が高い。

 浅間はすぐに部下の滝千夜たきせんやに連絡を入れる。電話がつながると《蒼崎匠》の身元を洗い、特殊部隊を動かし保護するように指示を出した。


『あー、うんわかった。そっちの方は僕がやっておこう。彼は去年の事件にも関わっている。……監視は……今もつけているから、保護は簡単かな……』


 滝の声は緊張感のないのはいつもだが、今日は特にひどい。


「貴様、また徹夜したのか」


 すると滝は何か思い出したのか感慨深い溜息を洩らした。


『ん、まーいろいろとあってね。……しかし、草薙くんの初任務は嫌なものになりそうだね』


「は? 何を言っている? 徹夜続きで寝ぼけているのか」


『いやいや、そんなわ──』


 電話越しに扉を蹴り破る音が飛び込んできた。


『教授ー、《クロガミ怪奇殺人事件》について聞きたいんだけど……って! お姉ちゃん! 教授がまた徹夜しているー!』


『え、あ、ちょ楓ちゃん!?』


 滝は悲鳴に似た声を上げるが、それも一瞬だった。


『あらあら~そうですか。三徹はしないって言ったのは嘘だったのですか? ふふふ……』


『ちょっと待って、待って待ってフライパンとお玉をもって何する気──』


 なにやら騒がしくなったので、浅間は無言で携帯を切った。


「…………はぁ」


 なんだか今の会話で、浅間は気が抜けてしまった。

 あの姉妹は《とある事情》で数年前から滝の家に居候している。いつの間に主導権を握ったのかは知らないが──


(この際、滝はいいとして……。なぜ草薙がうちの課に?)


 去年の《ある事件》より、《失踪特務対策室》では人員が不足する事態に陥っていた。

 しかし草薙祈織くさなぎいおりは一般人の上、今年で高校二年になる未成年。そんな彼女を浅間は《捜査員》として認めることはできなかった。協力要請を出すにしても、室長である浅間本人が承諾しない限りは不可能だ。


「…………」


 ふとある人物官房長官の存在を思い出した。彼の権限で民間人の協力を承認することは可能だろう。浅間は頭が痛くなったので、滝の話を忘れることにした。


(《忘却はよりよき前進を生む》だったか)


 浅間は気を取り直して《失踪特務対策室》専属特殊部隊隊長の烏合うごうに連絡をする。

 滝からの支援要請が来るだろうから、そのまま承諾して行動開始する旨を伝えた。その会話のほとんどは「承知した」「問題ない」と機械的な返答のみだった。

「優秀なのに一癖も二癖もある変人ばかり」それが浅間の職場である。彼は日に日に溜息の回数が増えていく気がした。


***


 六時三〇分──

 朝日が昇り外の霧も消えて、薫風の香りが吹き始めた頃。

 濃霧の気配は薄れ、《物怪》になりかけていたモノは、式神によって食いつくされていた。


『ふぅ』


 式神は家具の影に潜み、どこか満足そうに吐息を漏らした。

 浅間は影に視線を落とす。


(この式神……元は同じ《物怪》の類いか。それにしても相当に古い存在のようだが……神だったのか?)


 ふと浅間は、《主のいる式神》が同族食いをしていることに疑問が生まれた。また《これほどの上級式神》を使役する術者にも興味がある。事件現場に訪れるのも、主人の命かもしれない。


「……式神、ここで食事をとっているのは貴様の主の命令か?」


 式神は喉を鳴らすように笑った。


『くくっ、それを《武神殿》が申すか。ま、去年ならいざ知らず、今や主と意思疎通ができぬのに、食事もなにもなかろうて』


 そこまで言われて浅間はこのを思い出した。


(ああ……。そうだった)


 一瞬、浅間の中で《秋月燈》の認識に違和感を覚えたが、その形容しがたい感覚は一つに集約する。

 去年まで《失踪特務対策室》の、つまり浅間の部下だということを。


(あの娘か……)


 記憶を失った燈の姿はあまりにも痛々しく、生きる目的すら失ったように見えた。当初は復帰のめどが立つかもしれないと、事件の情報を伝えたが


(たしか、今年の三月に《失踪特務対策室》を解雇し、日常に戻した……。つい一か月前だというのに、そんなことすら忘れていた? この俺が……)


 浅間の記憶から《秋月燈》の情報が完全に抜け落ちていた。それはあまりにも不可解な──感覚だった。

 《失踪特務対策室》の人員欠如や多忙を極めていたからだろうか。浅間は腑に落ちず眉をひそめた。


『どうかしたか、武神殿』


「……いや。そうか貴様はあの娘の式神か。声と気配だけだとわからないものだな」


 厄介だった《物怪》の始末が終わっているのは、浅間にとって有難いことだった。しかし式神に対して別の疑問が生じる。


「主である秋月燈が《式神の名神名》を忘れた今、貴様はなぜ《契約》を解除しない? いやそもそも《物怪》から式神になったのなら、理性を保っていられるはずがない」


 契約した《式神の真名》を忘れる。それは《契約》そのものの効力を失うに等しい。それほどまでに《名》は重要なのだ。

 本来なら式神は《契約》という楔が砕かれ、主の元を離れて別の主に仕えるか、《物怪》に戻り《討伐対象》となる。


「今の主の元にいても、食事を与えられることは無い。まして見えないのであれば、貴様にとってメリットなどない。それとも秋月燈を食らう気か?」


 この段階で《物怪》だった式神の自我が崩壊し暴走しないことがすでにおかしいのだ。そして浅間はそのことに気付いていなかったことに違和感を覚える。

「何かが妙だ」と。


『かかかっ、それがしは特別じゃ。《主の魂との契約》がある故、少しばかり融通が利く。難儀な身分でも、会うことも傍にいることも出来ぬ。それに比べれば、今の状況はさほど悪くはなかろうよ』


 自らの心を偽ることなく開けっぴろげに語る式神に、浅間は少しばかり羨望の目を向けた。


「あの娘は十分に本来の《役割》を果たしたのだ。今更、《あの事件》を思い出して《こちら側》に戻る必要はないだろう」


『それで諦めるような主であれば、《あの神》も某も諦めがついたのだけれどな。むろん、であったお主もそうじゃろう?』


「師? 上官の間違いじゃないのか?」


 浅間は眉をひそめる。家具の影に居た式神はちゃぷん、と水がねたように影を歪ませ揺らいだ。


『かかかっ、なるほど。ということか。なるほど。なるほど。これは少々分が悪い賭けのようじゃのう』


 式神の何処か人を食ったような口調は、愉悦を隠そうともしない。


「なんの話だ?」


 浅間の瞳に剣呑な色が宿る。それだけで常人であれば卒倒していただろう。だが、式神は何もかも知っているかのように、言葉を返す。


『なに、全ては我が主の采配次第よ。《過去を斬り捨てる》のかそれとも──』


 ちゃぷん、と影の中で揺らめくと式神の気配は消えた。完全に気配が消えた後で、浅間は窓に写る人影を見た。

 朝日に照らされた白銀の長い髪が神々しく煌めいている。すぐにそれが何か察すると、浅間は眉間のしわをさらに深めた。


「貴様はどう動く、なあ、

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