《幕間》 浅間龍我という男・前編
***
時は少し遡る。
厚い雲は日差しを遮断し、不作法な陰と濃霧が《境界》を
駅前周辺にそびえ立つ高級マンションは、黒々とした外装と深い霧が相まって死霊が
彼の名は
深緑の前髪は斜めに切り揃えており、
その眼光に、気の弱そうな現場警官はびくりと両肩を震わせる。
「警視庁、《失踪特務対策室》室長の浅間だ。現場は何階だ?」
目が合った警官は、浅間と異なり《紺色の軍服》を着用している。彼は何度か言葉を噛みながら状況を説明した。まず浅間が眉をひそめたのは、この高級マンションが高校の《学生寮》だということだった。
(ここが学生寮とは……。ずいぶんと裕福な家のようだな)
駆動音をたてながらエレベーターで
一ノ瀬は自宅の浴槽で、水死体となって発見された。争った形跡もなく外傷もなし。通常、独り暮らしの《事故死》なら死後数日経ってから発見されることの方が多い。
しかし今回は死亡から数時間しか経っていない。というのも《匿名》の電話があったからだ。
通報場所は、埼玉県のある山頂付近の公衆電話。時間は今日の午前四時過ぎ。対応したオペレータからの印象は──少女の呼吸は荒く、かなりの興奮状態にあったらしい。ほとんど対話にならず一方的にこう言ったそうだ。
──カーキ色のコート、《フードをかぶった男》に追いかけられている。きっと殺される──
──あの子、《一ノ瀬花梨》も危ない。警察に保護してほしい──
──私たちを警察で保護して。《あの事件》のことなら全部話すから──
最後の方は叫んで切れる。それ以降、その少女からの連絡は永遠にこなかった。通話後、別の通報で《女子高生の遺体》を発見したと連絡が入ったからだ。
少女の名は
もっとも二井藤の身元が割れる前に、《一ノ瀬花梨》なる少女を調べ警官が駆けつけたのは、午前四時四四分ごろ。しかし遅かった。
その後、浅間の在籍する《失踪特務対策室》に連絡が入ったのは、死体の発見後の五時を回ったころだ。
(チッ、ここでも出遅れたか)
浅間は内心で舌打ちする。
去年の十一月に起こった《クロガミ怪奇殺人事件》の
そのため浅間は《捜査一課》に彼女の護衛を依頼。しかし、多発する事件の処理と対応で人員が足りなかったため、打開策としてマンション付近のパトロール強化にとどめておいたのが仇となった。
もっともマンション前に警察官を配備するという提案は、学校側から却下されたことも大きいが……。
すべては後手に回り、手がかりとなりそうな情報が入るとそこで糸が切れる。この一年はそればかりが続いた。計画性をもった複数犯、または組織的な犯行の可能性があると浅間は睨んでいる。
(それにしても手際が良すぎる……)
「あ、あの! 室長!」
急に現実に引き戻された浅間は、眉間に
「ん? ……ああ」
警察官は緊張──いや怯えているのか小動物のように震えていた。浅間は
「貴様は?」
「ハッ! Dランク紺0087東国所勤務、伊藤巡査であります。ゆくゆくは刑事課、そしてその中でもエリート中のエリートである《失踪特務対策室》配属を目標にしています!」
《MARS七三〇事件》以降、警察組織は個々の実力を求められ、職務の階級とは別に《能力ランク》を設けた。一定以上の《能力ランク》に加えて《適正判定》がある者は、飛び級や配属先を移転できるシステムだ。年功序列とは異なる実力主義は、比較的若い連中のモチベーションを上げることに一役買っている。
「そうか」
浅間はそれだけ言うとエレベーターを降りて現場へと向かう。伊藤巡査はあまりにも素っ気ない返答に絶句し、エレベーターのドアが閉まりかけてようやく体が動いた。
「え、あの! 室長!?」
ドアに挟まりかけ、慌てて伊藤巡査が廊下に飛び出すと──額に黒い塊が押し付けられた。
「へ? ……!」
伊藤巡査は「黒い塊が銃」だと気付き、顔を強張らせる。突発的な危機に対し、彼は困惑と動揺、恐怖がないまぜになって震えるだけだった。
額に突きつけた黒い塊は、自動拳銃ベレッタM92──
「減点三十」
浅間はそれだけ言うと拳銃を腰のホルスターにしまった。
「《怪物と戦う者は、その過程で自らが怪物とならぬよう心せよ》」
「え、あ……」
「《フリードリヒ・ニーチェの一節》だ」
浅間はロングコートを
「………はぁ」
伊藤巡査は緊張感が解けた瞬間、腰を抜かしその場に座り込んだ。浅間のその気迫、身のこなし、纏う雰囲気はどれも貧弱な
***
ここ一年半ほど事件は多発し、《異常な事件》が立て続けに起こっていた。連続無差別テロ事件、怪奇事件に失踪や行方不明者の数は例年に比べて倍以上。人間が生きている限り、犯罪や事故はなくなりはしないだろう。それを浅間は熟知していた。
しかし今回の事件、そして前の三件の事件はどうにも、きな臭い。下手すれば《MARS七三〇事件》を再現するような大事件が起こりそうな予感があった。
恐らく犯人は人間ではあるが、
現場に入った瞬間──浅間は顔をしかめた。常人なら2LDKの小綺麗な部屋と判断するだろう。
(思った以上に《黒い濃霧》が充満しているな……。これは酷い)
《黒い濃霧》だけではなく、《人を狂わせる気配》が色濃く残っており、
もっとも視える、匂うのは浅間が常人ではないからだ。他の人間には《黒い濃霧》なども見えていないし、
(思った以上に酷いな。……ったく、《天界》と《冥界》は何やっている?)
激務をこなす浅間は、《役割》の怠慢に苛立ちが募らせている。
ふと、そこに別の気配が現れた。
『これは、久しく見ぬほど大物の《
「…………」
『よほどの恨み辛みがあったのか』
くぐもったダミ声。
そして瘴気の中から揺らめいた気配が、浅間に声をかけた。彼以外の人間は誰も気づかない。
(こいつは確か……)
何度か事件現場で会った《式神》だった。
「また貴様か」と浅間はうんざりしながら、溜息を漏らした。姿は霧──いや室内の影に身を潜めており、出てくる気はないようだ。
『まことに高天原にいる神々は何をしているのやら。……ま、もっとも人の身なれば誘惑も多い。元来の目論見を忘れて人生を謳歌する者が多いのも致し方ないこと。のう、《
舌に油でも塗っているのかよく口が回る。
「ま、だろうな」
式神の指摘通り、一九九九年の《MARS七三〇事件》を皮切りに、《呪い》が世界に溢れた。
むろん《八百万の神々》、そして現世の人間もその危機に対策と準備を進めいたのだ。だが混沌とした時代の濁流に呑まれ、託宣を受けた者のほとんどは、誘惑に負けて堕ちていった。
「神の御霊──魂を持った人間の分霊者ですら、本来の目的を忘れ人としてその生を
『かかか。《欲望》に負けた軟弱者に、随分と優しい言葉をかけるものだな』
式神の嫌味に浅間は「そうだな」と否定しなかった。
「その点、《物怪》は易々と《境界》を越えて現世に現れるようになった。人の魂を漆黒に塗りつぶした瞬間、その魂を糧にアヤカシの形を得て──現世に
『そんなこと、今に始まったことでもあるまい』
浅間は首肯した。だからこそ、《式神》や浅間のような存在がいる。
「確かにそうだな。人の心がアヤカシを引きつけ、《因縁》がアヤカシに形を与え──その恨み辛みが、現世に《物怪》として災いをもたらす。……何百、いや何千年経っても人間は変わらない」
もっとも《物怪》が顕現した場合、たいてい人間一人の器に収まり切れず、肉体が膨張して内側から《爆破》する。それが《無差別テロ事件》の真相だ。
また政府は《この事実》を、二〇一〇年四月二十八日朝六時四十八分──《ある記者会見》まで秘匿する必要があった。その時期までは苦肉の策として、特殊素材で作った衣服を国民に支給。内側からの爆破の威力を抑えて、被害を最小限にとどめるなど消極的な対処がほとんどだった。
(現世に《物怪》が完全な形で顕現した場合、甚大な被害を出す。まあ、俺の記憶では数百年に一度か二度起こっていたが……。今回は《物怪のなり損ない》が増えすぎている……)
浅間はこの現状に歯噛みした。
器を失った《物怪のなり損ない》は現世を
現在、この世界で起こる不可解な事件の
それに対処するため《失踪特務対策室》が一九七九年に設立された。表向きの業務は失踪、行方不明者の捜索などだが、実際は《物怪》が絡む猟奇殺人、爆破テロ事件など処理がメインとなる。
(さて──ここの元凶は……)
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