第7話 烏天狗
二人分の足音が遠ざかると、柳は改めてカルテに『記憶回復の兆しなし』と書き足す。
それが終わると柳は椅子の背もたれに寄りかかって、天井を仰いだ。
──定時報告。我が王よ。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか──
柳は念話による会話を開始する。それはある特定の人物同士にしか聞き取ることのできないグループ会話のようなものだ。彼は先ほど燈と話していたよりもハキハキとした口調で告げた。
──
バリトンの心地よい声に、柳は姿勢を正す。それが彼の仕える主──冥界、《
──いえ。我が王。秋月燈より質問回答を得ました。『狐より龍が好み』また『猫のモフモフも最高』と『生活環境は悪くない。記憶喪失がネックであり、不幸でも幸福でもない』……。最後に『攻めか受けか』についてですが──
王の為と朗々とした声で報告する柳に、龍神はストップをかけた。
──ちょ、ちょっと待て──
──はっ──
柳は椅子から降りて、床に片膝を立てる。何かまずいことでも報告しただろうか。彼は一瞬にして背中に汗が噴き出した。僅かな沈黙が永遠にも感じられる中、龍神はボソリと柳に尋ねた。
──え、あの
心なしか嬉々として声を上げる龍神に、柳は胸を張って応える。
──無論です。恐れ多くも我が王の背に乗りたいとも申しておりました──
──背中? む、顔が見られないのは残念ですが……。まあいいでしょう。それで最後の『攻めと受け』について、私は出題をあげていなかった筈ですが……──
柳は床に片膝を立てたままの報告こそ、龍神との会話に相応しいと再確認し、そのまま言葉を紡いだ。
──これは
──戦闘スタイルは少し自衛気味ですか……。昔のように後先考えずに動いていたとは思えないですね……。その姿も愛い──いえ、わかりました。引き続き、記憶喪失に関する情報提供は行わず、彼女の精神的なフォローと、現世においてのバックアップを続けてください──
柳は片膝を立てたまま頭を下げる。
──ハッ、命に代えても──
どこまでも龍神に忠誠を尽くすと決めた柳は、報告を終えると「ふう」とため息を漏らす。
「しかし、我が王。あの娘の何が良いのか、小生には分かりかねます」
『…………』
保健室に潜む影が怪しく揺らめいたが、それに烏天狗の柳は気づかなかった。
(心配で残っておったが……『攻めと受け』の質問の趣旨が違うと指摘した方がよかったか……?)
燈の式神はそんなことを思いながらも、そのまま影を行き来して主の元に戻るのだった。
***
お昼休みになると燈と佳寿美、委員長の杏花の三人は教室を出て家庭科室へと急ぐ。
(なんで休み時間って、あっという間に過ぎるんだろう。……ってそれより今はお昼、お昼♪)
この時ばかりは燈も嬉しさで気持ちが弾む。足早に廊下を突っ切ると、友人二人と共に家庭科室のドアを開ける。室内は教室の二倍の広さを誇り、白を基調とした本格的な調理場だ。──とすでに楓の姿がそこにはあった。
「あ。お姉ちゃんたち~」
楓の隣には、白いワイシャツの上に和装を着こなした男子生徒がいた。黒の短髪、黒縁メガネをかけ、お腹が膨らんだぽっちゃりとした体型の青年が、シュークリームのシュー生地をオーブンで焼くところだった。
「あ、宇佐美さんたちいらっしゃい──いいい!?」
宇佐美たちを出迎え青年が振り向いた瞬間、驚愕と共に絶叫した。
「ど、どうしたの、ブチョー!?」
「あらあら」
(ん? どうしたんだろう)
楓は部長の奇行に首を傾げ、杏花はなにか心当たりがあるのか、燈へと視線を向けた。料理研究部である宇佐美姉妹に驚いたのでないとすれば、燈か佳寿美のいずれかだ。
「あ、あ、あああなたは、あの時の!?」
その声は震えていたが、恐怖ではなくどちらかと言うと歓喜に近い。青年の視線は燈に向けられていた。
「ふぇ、私?」
まさか自分の事だと思わず、燈は目を見開いた。状況が把握できず少女が困惑していると、楓が何か気づいたのかハッとした表情を浮かべた。
「あー! ブチョー。もしかして燈のこと知っているとか!?」
「は、はい! 一年前に大変お世話になったんです」
楓の勘はドンピシャだったようで、部長と仲良くハイタッチを決めていた。そんなノリの中、燈はようやく状況を把握する。
(一年前……。それって私が記憶喪失になる前……!!)
燈はいつの間に駆け出しており、部長に詰め寄った。いやこの場合、迫ったという方が正しいだろう。
「知っている情報を全部、聞かせてもらおう」
「燈。言い方が完全に悪役だよ」
楓は燈の必死さ──否、凄まじい迫力に微苦笑していた。
「そう? 昔、誰かがこの言い回しだと、九十八パーセントの確率で素直に話すって言っていたような……。いなかったような」
燈は口をついて出てきた言葉に首を傾げながらも、今は話を聞くことが先だと切り替える。
***
「ううっ」と楓は号泣し、鼻水をかみながら、
「なるほどねー。燈がブチョーを助けたと、んーー、良い話! 泣ける!」
「すでに泣いているけど」と燈はツッコみたかったが我慢する。少し離れた所で杏花と佳寿美は、調理を進めつつ話を聞いていた。
「……僕、今よりも、なよなよしてて、料理を作っているのも周りに隠していたんです。だから、それをクラスメイトに見つかって……」
「逃げようとしたら、そのクラスメイトの友人に囲まれて、ボコられたと……」
楓が口を挟む。言い方がものすごく物騒だが概ね間違っていないのか、早乙女部長は頷く。
「はい……。でも、料理器具だけは守ろうと、みじめでも地面に這いつくばっていたんです……。そしたら……『アンタ、かっこいいから手を貸してあげる』……って声が聞こえた瞬間、あなたが飛び込んできたんです」
「うん、それ私じゃない」
バッサリと否定する燈に、楓はケラケラと笑った。
(さっきまで、泣いてなかった?)
「いやいやー、間違いなく燈だね! アタシたちの時もシビレるセリフ言っていたしねー」
「ええ!?」
思わず耳を疑ってしまった。過去の自分は、正義感が強かったんだろうか?
首をかしげる燈に、早乙女部長は照れくさそうに笑った。
「そもそもなんで部長をかっこいいと? イジメられていたんでしょ?」
「ああ、それは僕も同じこと思った。で、助けてもらった後で聞いたんだ。どうして助けてくれたのか、かっこいいのかって。そしたら──」
彼はあの日の事を思い出す様に目を細めた。
「『大事なものを守ろうとしている姿が、かっこいいと思ったから』……それと『地面に丸くなっていたのは、自分の両手を守ろうとしていたからでしょ』と……」
「燈はやっぱりかっこいいね~」
なぜか楓が自慢気に頷いていた。燈は自分の行動とは思えず、反応に困った。
「茶化さないで。……つまり、過去の私は……あなたの姿勢に感化されて、助けたということですか?」
「そうだと思う。本当にあの時は、ありがとうございました」
早乙女部長は折り目正しく深々と頭を下げた。
「あ、頭を上げてください。今の私は、その記憶喪失で、……だから」
「あなたが礼を言うべき相手ではない」と、燈は口にしかけた。だが──
「あの時助けてくれたのは、あなたです。それに今、僕が料理研究部の部長になったのも、あなたの影響なんですよ」
「いやいやいや、私にそんな力なんて……」
「あります。本当にあの時、あなたがいたからお菓子作りを仕事にしたい。あなたみたいに強くはないけれど、僕は僕の力で誰かの心を動かせる人になりたいと、思ったんです」
「自分は空っぽだ」と、燈は言いかけて唇を閉じた。
早乙女部長の力強い言葉に──夢に鼓舞され口元がほころんだ。
「うん、それは本当に素敵な夢だ」
自然に言葉が滑り落ちた。
その姿を見て、早乙女部長は笑みを深めた。
「……記憶を失っていても、きっと《本質》は変わらないと僕は思いますよ」
あまりにも真っ直ぐな、そして本心からの言葉に燈は困りながらも照れた。
「ありがとうございます。……ところで、他に当時なにか気づいたことはありませんか?」
「……急に言われても?」
一年も前の事だ。急に言われても困るだろう。燈は少しでも手掛かりを求めて、唇を開いた。
「えっと、私の服装とか、傍に誰かがいたとか……」
「ああ、それなら覚えていますよ」
「本当ですか!?」
即答する部長に、燈は驚愕の声を上げた。
「う、うん。……黒い軍服姿なんてめったに見ないないから、すごく印象に残ってた」
「
思わぬ単語に燈は目を剥いた。心なしか心音が早く、熱が出た時のように頭がくらくらする。
(軍服? え、だって、それを支給されるのは警察関係者? それも刑事……)
「あと一緒にいたのは──」
ふと、燈の視界半分が真っ赤に染まった。
「え?」
ぬるりと頬を滑る感覚がした瞬間、すぐそばで悲鳴が上がった。
「燈!」
「秋月さん!」
悲鳴を上げる佳寿美、すぐさま駆け寄る楓と杏花が視界に入る。
燈は皆が一斉に強張った顔になるので、安心させようと朗らかに笑った。
「みんな、どうしたの? 私なら……大丈夫……だから……」
燈は自分の体が傾いていることに気づいていなかった。
次の瞬間、彼女の意識は飛んだ。
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