第6話 実感のない親友

 教室に入るとクラスメイトの殆どが揃っていたが、ある少女の姿はなかった。


(今日はまだ、か……)


 榎本佳寿美えのもとかすみ。彼女はともりの親友という位置づけらしい。とはいえ、燈に記憶はなく、実感もない。

 ただ佳寿美の彼氏である蒼崎匠あおざきたくみの話によると、燈と佳寿美は小中と同じクラスだったいう。けれど燈には学校、そして教室という空間に何も感じなかった。また佳寿美が親友という事実を確かめる術は無い。


(写真やアルバムと言った物的証拠らしいものが一枚でもあれば……。まあ、残っていればの話だけど……)


 燈の生活用品は半年前の事件によって全て破棄されてしまった。担当刑事だった浅間が住民票などの再発行、その他もろもろの手続きまで全て行ってくれた。

 後日、市役所を訪ねて戸籍謄本を受け取ったが、存命は燈だけで家族は鬼籍に入っていた──

 それゆえ燈が入院している間、お見舞いに来たのは警察関係者を除けば、佳寿美と蒼崎だけだった。


(見舞いに来てくれた時はすごく嬉しかった。でも、ブラフって可能性もなくはないんだよね。なにせ……)


 佳寿美は複雑な状況下におかれている。

 それは――


「燈ちゃん、おはよう」


 佳寿美は予鈴ギリギリのタイミングで教室に駆け込んだ。燈よりも頭一つ分ぐらい低い背丈に、小動物を彷彿とさせる雰囲気の少女。着物はまだ着させられている感があり、童顔とふんわりとした癖の髪のせいで、中学生に間違われるだろう。クラスで目立つはしないが、天然で鈍くさい印象が強い。


「……佳寿美」


 よく見ると佳寿美はゲリラ豪雨にあったのかのように、全身ずぶ濡れだった。その姿を見て大抵のクラスメイトは、彼女から慌てて視線を外す。何があったのか燈はなんとなく察した。


「委員長、佳寿美の顔色が悪いんでちょっと保健室行ってくる」


「はい、先生には伝えておきますね」


 杏花は手を軽く振って燈たちを送り出す。


「佳寿美、行こう」


 燈は素早く席を立つと、佳寿美の手を引いて教室を出た。

 

 廊下を歩いている途中で予鈴が鳴り、あっという間に廊下には生徒の姿は見えなくなる。リノリウムの床のせいで二人分の足音が廊下に響いた。


「……それで、今日は何処でやられたの?」


「えへへ」と佳寿美はどこまでも底抜けで呑気に笑った。


「あー、えっとね。教室に向かう前に中庭を通るでしょ。その窓の一つから急にホースの水が廊下に入っちゃって。びっくりだよね?」


 それが偶然でも、突発的に起きた訳ではないことを燈は知っている。十中八九、蒼崎匠の自称ファンクラブの嫌がらせによるものだ。


(そもそも中庭に園芸部の花壇はあるがホースはない。誰かが持ってこなければそんな事態になることなどありえない。けれど、教師も他の生徒もその行いを見て見ぬふりをしている。……まあ、それが腹立つんだけど)


 しかし燈はそういう《空気》が嫌いだった。

 学校側の対応が悪い理由──それは自称ファンクラブの会長が、学校の理事長──ではなくそのだからだ。

 ただ幸いなことに唯一の避難場所といえるのが今向かっている保健室だ。あそこには学校側も手を出せない管轄──警察病院から派遣された医師が居る。


 ***


「柳先生、お邪魔しますー!」


 燈はノックもなしに保健室のドアを開いた。


『…………』


 その時、少女の影に身をひそませていた式神はさらに潜ったのだが、気づく者は誰もいなかった。


「柳先生、お邪魔しますー」


「また君たちか」


 ドアを開けて早々に辛辣な言葉が返ってきた。

 彼の名は柳戸木葉やなぎときは。表向きは保健室の養護職員、だが実際は警察病院から派遣された精神科医だ。男性にしては小柄だが身長は燈よりも少し高い。中性的な顔立ちに、癖のある髪が印象的だ。そしてその養護職員はスーツ姿でちょうど白衣に袖を通したところだった。


「柳先生、予備の制服を借りますね。ほら、佳寿美はさっさと向こうで着替える」


「好きにしたまえ」


「はーい」


 てきぱきと燈は予備の制服──袴などの一式をクローゼットから取り出し、バスタオルと一緒に佳寿美に押しつけた。


「あ、うん。ありがとう燈ちゃん」


 礼儀正しく佳寿美は頭を下げると、仕切りカーテンを閉めて着替えを始めた。

 僅かな沈黙を打ち破ったのは柳だった。


「秋月燈、日常生活は問題ないか?」


「あー、はい。記憶が戻る気配はないですけど……」


 柳は燈の記憶喪失の件を知っており、彼女の学校生活をフォローする名目でこの学校に特別派遣されている。

 そう前に刑事である浅間が話していた。その為、燈は定期的にカウンセリングを受けるように指示されている。事件の当事者であり生き残りと言うことで、そのトラウマや精神的なフォローをするという意味合いなのだろう。


(それにしても警察がここまで厚遇してくれるとは、正直思わなかったけど……。ううん。もしかしたら私の記憶喪失と関係が? まさか、ね……)


「ふむ……。記憶を取り戻すための調査は続けているのか?」


 ジロリと、突き刺さる視線に燈は頬をかいた。柳とは記憶を取り戻すにあたって無茶をしないという約束をしている。


「まあ、そうです。……と、先生の所を退院してからなので三月過ぎからですけど……」


 燈はここ数週間の違和感、また奇妙な習慣を話した。

 半年前までルームシェアをして一緒に住んでいたのではないか、ということ。だから料理を作る際に三、四人分を作ってしまうのではないか。また護身術において多少心得があることなどを話す。燈の話に柳は表情一つ変えずに、淡々とカルテに内容を書き記す。


「根本的なことを聞いていなかったが、君は記憶を取り戻したいと本気で思っているのか?」


「はい」と、燈は即答した。

 それ以外の答えなど最初から選択肢にないという口ぶりに、柳はほんの少しだけ目を見開いた。


「……肉体、特に脳によるダメージではなく精神的な記憶喪失だった場合、心が耐えきれないほどの体験をしたから起こったとも考えられる」


「…………は、はい」


「君はそれでも記憶を取り戻したいと、迷うことなく言えるのかな」


 燈は即答できなかった。

 一瞬、もしそれが本当だったら、と考えたからだ。


「君はまだ若い。これからいくらでもやり直せるし、記憶が無くても生きていける。今の生活を壊してまで思い出したいと思わないのならば、忘れてしまうことだ」


 柳の平坦な物言いは個人的な感情など介在しておらず、あくまで医師としての見解を少女に投げかけた。


「それでも……私は──」


 その先の言葉を柳が遮る。


「ゆっくり考えることだ。過去を調べるということは事件の概要を知るということ。つまり君は厄介なことに自分から足を踏み入れようとしている。その覚悟がないなら忘れることをお勧めするよ」


 覚悟──

 何度も考え、何度も自分自身に問いかけた。けれど、そのたびに誰もが「覚悟」を問うてくる。覚悟は決まっているのに、何かが引っかかっている気がした。

 

(でもいったい何を──?)


 悶々もんもんと悩んでいる燈に柳は別の話を振った。


「ひとつ。これは個人的な興味としての質問なのだが《君は狐と龍はどちらが好き》だ?」


 柳の突拍子もない質問に燈は眉をひそめた。彼らしからぬ単語が妙に引っかかる。


「……なんですか、その二択」


「いいから」と、柳は質問自体を取り消す気はないらしい。

 燈は散々悩んだ結果、「心理テストかなにかだろうか」と、無理やり解釈をつけた。


「どっちかと言ったら龍でしょうか。まあ、狐もモフモフできるので好きですが……個人的には馬とか猫も可愛くて好きです。猫においては肉球をムニムニしたり、抱きしめたりしたいですね」


「馬……? なぜ馬が出てくる」


 そう問われて燈は唸った。何故か頭に浮かんだとしか言えない。

 もしかしたら記憶を失う前は乗馬が趣味だったのだろうか。そう想像してみるが、現実味を帯びていなかった。そもそも乗馬はお金がかかるはずだ。燈は頭を振った。


「えっと、何となくです……。その……馬に乗ってみたいって願望です。あ、龍にも乗ってみたいですね。某日本昔話のアニメオープニングみたいに」


 柳は絶句し、カルテとペンを床に落とした。


「…………へ?」


 予想以上の反応に燈は小首をかしげる。だが柳は壊れた人形のように固まっていた。


(なんか変なこと言ったかな? それとも心理的に猫とか馬とか選ばないとか?)


「……なんと恐れ多い……じゃなく、なるほど、参考になったよ。ありがとう」


 柳の顔色は未だ青白く、声も若干震え気味で取りつくろえていなかった。


「あ。もしかして、心理テストじゃなかったんですか?」


「その質問には答えられない。……次に《君は、今幸せか?》」


 意図が読めない質問だが、燈は正直に答える。


「うーん、まあ。普通に生活できる環境はとても有難いです。……でも、記憶を失っていることを不幸とか幸福と一言では割り切れません……」


 柳はさらさらとカルテに書きこんでいく。その他にもいくつか質問され、燈は返答する。途中で心理テストと言うよりは診察なのかもしれないと少女は解釈した。


「最後に《君は攻めか受け》どっちだ」


 少女は首をかしげた。


(え? 攻め、受け? 試合とか戦闘って意味なのかな?)


 柳の性格上、冗談などではないだろう。少女は真剣に考え、ある一つの答えを導き出す。


「相手によります。戦うより防御に回って、状況により彼我の戦力差を考えて戦略的撤退も視野に入れます」


「なるほど。戦法としては悪くない判断だ」


 珍しく柳は小さく頷いた。戦について並々ならぬ思いれがあるのか、その双眸が煌めいたのを燈は見逃さなかった。


「あ、やっぱり戦略的な質問だったんですね」


 燈は正解だったと、安堵する。ほんの少しだが柳の表情が緩んだ。


「おそらくな。今回の質問内容を考えたのは同僚だったのでね。これでまた君の貴重なデータが取れた。お疲れさま」


「はい」


 燈はぺこり、と頭を下げた。「お疲れ様」、これは柳が会話を終える合図だ。


(この質問でなにが分かるのか気になるけど……。うーん、聞ける雰囲気じゃないな)


 柳は黙ったままカルテに何かを書き込んでいた。

 燈は不承不承ふしょうぶしょうだったが、着替えの終わった佳寿美と一緒に保健室を後にした。

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