第5話 記憶喪失者の日常・後編

***


 燈は朝食を食べ終えると、着物と袴制服に着替える。これが結構、時間がかかるのだ。


(いつものことだけど、着付けって面倒!)


「わー、わー、トモリ。ちがう。いつもの服、ちがう」


『ん? 合っとるぞ。我が主は今年の春からこれが正装となる』


「わー? トモリ、まえの服になったら、きづく?」


『どうじゃろうな』


 バタバタと慌てて着替えている燈を見守りながら、式神と《アヤカシ》の木霊は呑気に会話していた。もっともこのやり取りも燈には聞こえていない。


(まあ、これも政府が支給した制服だしお金かかってないから、文句を言うのもアレだけど……)


 一九九九年以降、頻繁に起こる事件の影響により、政府は学生及び職務中に支給した服装の着用を義務付けた。


(えっと、たしか「衣服は特別製で、爆破や衝突における衝撃を吸収する繊維を使用。たとえトラックでねられても、制服を着用し頭をカバーすれば即死はない」……ってのが、宣伝文句だったっけ?)


『それ以外にも、事件事故が多いため被害者の身元を早急に割り出すための対策らしいぞ。というのも支給された衣服には、個人を判別する楕円形の板──IDタグが備わっておるからな』


 式神の声は燈の耳に届くことはなかった。


(そりゃあ、制服ってとんでもなく高いから、政府が無料で支給してくれるのは有難いけど……ここまで頑丈にする必要ある? おまけに着にくい……)


 燈の学校では《大正ロマン似》の服装が割り当てられている。生徒たちも最初は毎日の着付けに文句を言っていたが、二週間も経てば習慣化され文句もだいぶ減った。

 人間とは往々おうおうにして器用なものなのかもしれない。


「いってきます」と、誰もいない部屋に向かって呟いた。

 だが実際は「わー、わー、いってらっしゃーい」と木霊が返事を返し、『うむ、気を付けていくのだぞ』と言って式神は燈の影に潜った。


***


 寮を出ると校舎が見えて、燈はほんの少しだけ憂鬱な気持ちになった。築十年の校舎は真新しく、クリーム色と何処か修道院の雰囲気を取り込んでおり、教会に見えなくはない。


(んー、学校に行くのが億劫だな。ニュースでやってたの気になるし……)


 燈は何度目かになる溜息を吐いた。

 校門をくぐると、生徒たちの他愛のない会話が耳に入ってくる。雑踏の中でも聞こえてくるのは、だいたいが悪い噂だ。時折、事件関係の話題も出るが、あくまで噂の域を出ない。

 それもそうだ。

 噂という曖昧模糊あいまいもこで不確定な情報であれば、、気楽に受け止めることができるのだから。


「また行方不明者が出たらしいって……。うちの学校の生徒も何人か居るみたい」


「あ、知ってる。あの《ファンクラブ》の人たちでしょ」


「みたいだよ。事件と関係があるのかな。最近生徒の中にも事件に巻き込まれた子が居るって聞くし……」


「怖いことばっかりだよね」


(行方不明者……《ファンクラブ》、か)


 燈は今日も生徒たちの噂に耳をそばだてる。しかし──


「風で飛ぶ? 遊ばないの?」

「燈。聞こえてない? さびしい……」


 噂話よりもか細い声。ふわふわと燈の周囲を浮遊するのは、《アヤカシ》である半透明の一反木綿たちだ。


『そうじゃのう。やはり、言葉が返ってこんのは寂しいものじゃ』


 燈の影に潜む式神も《アヤカシ》たちの声に賛同する。

 忘却。それだけで、ここまで少女との関係にひびが入るとは思っていなかった。

 契約者が《アヤカシの真名》を忘れてしまったら、契約は無効となってしまう。けれど、主を慕う気持ちがあれば傍に居ることはできる。


「でも、警察がなんとかするって朝のニュースで言ってなかった?」


「あ、言ってた、言ってた。でもさ、どうなんだろう」


「んー、とりあえず私たちには縁遠い話じゃないかな」


「そうだよねー」


 賑やかさよりも、どこか不安と不吉さが入り交じった会話。一件明るく賑やかな生徒たちの雰囲気の影に、陰惨いんさんとした空気が存在することを燈は知っていた。それには中学校からのエスカレーター式の制度が大きく影響している。


『たしか柳が丘高等学校学び舎は、一九九九年以降に無差別爆破テロの影響で家族を失った生徒たちの受け皿として、国家が特別に用意した施設の一つだった。で、そこでは寮生活を含む、大学進学までにかかる一切の学費・生活費をまかなえるほどの特別奨学金を得ながら生活できるシステムが組まれているだったか』


 式神のダミ声はいつもの軽口で燈に声をかける。


「そうそう。そんでもって政府が大手企業に入れるよう斡旋するとか、ある程度安定した将来が保証付き。至れり尽くせりで私としても有難い……ん?」


『……! 聞こえておるのか?』


(あれ、なんで口に出したんだっけ?)


 燈は自分の行動に小首を傾げた。顎に手を当て歩きながら考えるが答えは出ない。

 気を取り直して、春から始まった高校生活について思考を巡らす。


(えっと、政府的には「過去に怯える子どもに、これ以上不安要素を背負わせないため」というのが名目だって言っていたっけ……)


 温室のような学園生活の中で、大半の生徒はつらい出来事を忘れようとしている。凄惨な過去を捨て、光ある未来だけを見ているのだ。


(……なにもかも忘れてしまえばいい。そうすれば楽だ)


 緩やかで安全なレール。それを歩むのに、燈はどうしても抵抗を覚えてしまう。結果として過去を忘れようとせず、手探りでも調べる道を選ぶ。


 なぜ、《あの事件》が起こったのか。

 《MARS七三〇事件》から十一年過ぎた今、手に入る情報はたかがしれている。噂ばかりが膨張し、もはや何が真実なのか分からない。深すぎる闇。


(まるで深淵……。「おまえが長く深淵を覗けば、深淵もまたおまえを見返すのだ」……だっけ)


 ニーチェの《善悪の彼岸》にあった言葉。

 入院中に「差し入れだ」と言ってもらった本の内容を思い出す。《幸福》とは、忘れてしまうものなのかもしれない。しかし、燈にとっての《幸福》とは何なのか、答えは出ていなかった。


***


 燈が下駄箱のそばで靴を履き替えていると、何かが突っ込んでくる。


(この気配、……というか足音は──)


「燈。お、は、よー!」


 声と同時に跳び蹴りをする女子に対して、燈は最低限の動きで素早く横に避けた。

 これも燈の記憶にない特技だ。基本的に燈はドジでおっちょこちょいだが、不意打ちや大多数での大立ち回りなどでは、自然に体が動く。


(やっぱり……。何か習っていたのかな。護身術とか?)


 そこまで考えたところで、燈は奇襲をかけてきた相手を睨んだ。


「……って、おはようじゃない。毎朝、毎朝、何すんの? 日課にする気?」


「にひひ♪ あ、それいいかも」


 彼女の名は宇佐美楓うさみかえで。子どもっぽい顔つきで少女というよりは、少年という印象が近い。ショートボブの髪型、袴の上に何故かジャージを着こなすという変わり者だ。猫のような目で燈を見返すと、「にひひ」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「記憶を取り戻す手伝いって、言ってんじゃん」


「記憶が戻るどころか、今の蹴りは下手したら死ぬからね!」


「そんなこと分かんないじゃん」


「……その根拠のない自信は、どこからくるんだか」


「なら今、実証すればいいよね♪」


「なんで!?」


 さも善行と言わんばかりに、楓は燈の顔面に拳を繰り出す。その動きは元々サバットと呼ばれる古代ギリシャのキックボクシングから、発展した護身術の一つ。主に蹴り技を主体としているが俊敏さを活かし、蹴りで相手との間合いを詰めた瞬間──相手の懐に飛び込み、拳で片をつける。……というスタイルがセオリーとなっている。

 その流れに準じて楓はアッパーカットを繰り出していた。対して燈は片手で拳を受け止める。攻防は何度か続いた。僅か数秒のやりとりで燈と楓は視線を交わす。

 緊張感ある空気の中、互いに次の行動に出ようとしたその時――


「あらあら~、今日も奇襲は失敗のようですね」


 間の抜けた声が二人の集中を乱した。


「秋月さん、おはよう」


 声をかけてきたのはクラス一の情報通、楓の双子の姉にあたる宇佐美杏花うさみきょうかだった。

 すらりとした体型の割に胸の発育が良いせいか、着物制服が少しばかり苦しそうに見える。栗色のふわりとした髪、妹の楓と顔こそそっくりだが、杏花は髪が長く腰まである。穏やかそうな雰囲気で、性格もおっとりしている。


「おはよう、委員長。そして楓は帰れ」


「えー、友達に対して酷くない?」


 楓は「ブー、ブー!」と唇を尖らせて大げさな反応を見せた。


「いや、友達を問答無用で殴る方が酷いからね」


 燈は毎日──少なくとも入学当初から続くこのやりとりに嘆息した。この双子と燈は高校に入ってからの付き合いだ。

 去年の秋から冬、燈は《ある事件》に巻き込まれ、病院で目を覚ましたのは一月の終わりだった。


 そこから中学の卒業式まではリハビリの日々……。四月に高校へ入学すると、楓は出会い頭に「燈、久しぶり」と言って花束を持ったまま、蹴りかかってきた。ちなみに、この一件は学校内でも有名だ。


(全然嬉しくない……。目立つし……)


 三人は校舎内に入ると、並んで廊下を歩き出した。


「ねー、ねー、燈。いつ記憶が戻るの。アタシに出来ることない?」


 人懐っこい声で楓はこれ見よがしに燈の視界に入ってくる。


「毎日、奇襲をかけるのをやめてくれればなあ……」


「ぶー、そんなのつまんないー。あ、じゃあ美味しいものを沢山食べれば何か思い出すでしょ!」


「なにその発想」


 燈は楓の思考回路を本気で心配する。楽観的というか直感的に生きている気がした。


「何言ってんのさ。美味しいものを食べたら、記憶の一つや二つ戻るって!」


 楓はきっと本気で言っているのだろう。

「そんなんで戻れば苦労しない」と燈は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。


「ああ、そうそう。美味しいもので思い出したわ」


 廊下を歩きながら、杏花は口を開いた。にっこりと穏やかな声で彼女は燈に視線を向ける。


「今日のお昼、家庭科室の貸し出し許可が下りたのですよ」


「え、本当? 食材も使いたい放題?」


 目を輝かせる燈に杏花は頷く。


「もちろんなのです。農業科が大量の食材を冷蔵庫部屋に詰め込んだと聞きましたので、好きに使っていいらしいですよ~」


「いいよなー。二年になったら特殊科で専門分野の教科が取れるんだから。アタシも早く受けたいよ」


「楓は何の科目にする気? 言っておくけど武術はないよ」


「農業科で畑仕事! 体力はもちろん、足腰が鍛えられるでしょ!」


 本当に体を鍛えることしか考えていない楓に、燈は将来が不安になった。食欲と手合わせしか彼女の頭に無いのだとしたら、早々に人生の軌道修正が必要だろう。


「……ね、杏花。楓あんなこと言っているけど、姉としていいの?」


「そうですね~。私は楓の意見を出来る限り尊重したいですし、公共物を破壊するあたりまでの問題なら我慢できます~」


(うあーーー。姉としての苦労が忍ばれる)


 普段怒らない人間がいざ本気で怒ったら恐ろしい。杏花はその類いの人間だろう。杏花の有無を言わさぬ圧迫感と、凍りついた笑みが容易に想像できた。


「ふふ、燈。聞いて驚け! 見て喜べ」


「どっちだよ」


 人を指さす楓に燈はツッコんだ。


「今日は杏花&楓のスペシャルウルトラスーパーミラクルランチだ!」


 よくまずに言えたと称賛するも、料理の情報量は皆無だった。しかし、楓は言ってやったと言わんばかりに得意満々な顔をしていた。


(せめて何料理なのか知りたかった……)


 燈はまったく想像のできない料理を思い浮かべ、小さな反撃を返す。


「……委員長ランチじゃなくって?」


「なに言ってんの、ア・タ・シが料理メインでお姉ちゃんがデザートでしょ」


 燈の脳裏に猪を素手で捕まえて、丸焼きにする楓のイメージが浮かんだ。きっと彼女なら無人島でも余裕で生きて行けるだろう。


「へえ……」


「あ、今絶対にサメを一本釣りで「捕ったぞ!」……って思ったんでしょ。言っとくけどそんなのは料理ジャナイ、たんなる材料捕獲であって、調理前の下準備でしかないと言わせてもらおう!」


「うん、まさか食材の捕獲からこだわるなんて思ってもいなかった」


 毒づいた返答に楓は「でしょ♪」と笑うので、自然と燈も口元が緩んだ。

 楓の良い所はとにかく明るい所だ。なんだかんだで、燈は《記憶喪失》という問題が少しだけ気楽に思えた。


「ふふふ。秋月さん、嘘に聞こえるかもしれませんけど、楓の料理の腕は本物ですよ~」


「そうだよ、燈。アタシの夢は世界一有名なシェフ、お姉ちゃんはパティシエになることなんだからね」


「杏花はわかるけど、楓は格闘大会の王者じゃないの?」


 燈の疑問に、楓は眉をつり上げ珍しく真剣な顔を見せた。


「何を言うかと思えば! 人間同士の戦いなんて、自分から好きこのんでやらないよ」


(うわぁ……)


 毎朝、挨拶のノリで殴り掛かってくる人間のセリフとは思えない。「というか毎回、本気で殴りかかるのやめてほしい」と燈は心の中で切に願った。


「ふふ、今日は《ふぁふははオムライス》を作る予定です」


 それはどこぞの星人が言いそうなネーミングセンス。しかも両手でピースしているので、元ネタを隠す気はないようだ。


(そのネーミングセンス、ツッコんだ方がいいのかな……)


「あ、燈。ゴールデンウィークって暇?」


「唐突だな」


 燈の予定はない。

 今のところ、空白だ。


(うーーん。記憶を取り戻すために動こうと思っていたけど、具体的にどこに行くかとか、あては一つしかないんだよな。でも一日ぐらいなら、付き合えなくはないか……)


 燈は唸りながら急な問いかけに、曖昧な言葉を述べる。


「あー、まあ……たぶん大丈夫かも?」


「表参道に行ってみない? 実はすっごく美味しいって言うカフェがあるんだよ~。確かカフェユーモラルだっけ?」


「《ユーデモニクス》でしょ。元々は美味しいスイーツのお店だったんだけど、カフェになったって有名なのですよ」


 相変わらず杏花は食べ物関係の情報は早いし、豊富だ。

 そういえばこの間、昼休みにスイーツ特集の雑誌を真剣に読んでいたのを思い出す。あそこまで食い入るように、一ページずつ読む女子生徒はいないだろう。


「ゴールデンウィークの予定……か」


 燈はふと去年はどのように過ごしていたのか、いやそれ以前はどうしていたのか思い出そうとするが、何も浮かばない。


(本当に……私は何をしていたんだろう)


 燈は苦笑いしつつ、「考えておく」と、杏花達に告げて教室に入った。

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