第一幕 ~現在編~ 「幸福とは?」
第4話 記憶喪失者の日常・前編
──何も知らぬことは最も幸福である──
西洋のことわざ
二〇一〇年四月二八日 埼玉県西国市内
六時四〇分ごろ、
「わー、わー? トモリ起きる」
布団の三分の一を占領していたのは、半透明で饅頭の形をしている木霊たちだ。
「トモリ、おはよー」
『お、起きたか。今日はずいぶんとのんびりじゃな。それで学校には間に合うのか?』
「………リモコン、リモコンは、っと」
たいてい今日の天気や、占いとレシピといった
(とはいっても、怖いもの見たさや好奇心ってのは厄介だからね。いくら禁止していても、ネットで検索すれば事件の断片ぐらいは見つかるもんだし……)
政府が閲覧権限をかけようと、削除に追いつかないほどネット上に情報は置かれている。だが眉唾物が多く、結果として情報の信憑性に欠けるのだ。もしかしたら政府はあえてそういった情報を残しているのかもしない。
(噂の
なぜこのような規制がかかっているのか。燈は《ある事件》のことを思い出す。
数年前、マスコミが《ある連続猟奇殺人事件》を特集した際、その情報によって視聴者数十名が行方不明または模倣犯となり、かなりのパニックが起こったという。それ以降、二次感染を防ぐという意味で事件関係の情報を秘匿することを政府は発表した。
(でも同時に、この原因は突如現れる《黒い濃霧》だという噂が広まった……。そこからヨクナイモノが現れて人を攫う、食らう、謀る、呪う。
結果──政府は生活支援、労働時間削減、給料増額を導入。また警視庁や防衛省、総務省消防庁の武装強化に取り込むことを発表した。
ただ都市伝説となった《黒い濃霧》に対して、政府からの発表はない。それでも政府の出した対策に効果はあった。人々は目先の豊かさによって、得体のしれぬ恐怖を見て見ぬふりするようになった。
(《MARS七三〇事件》以降、親戚や身内を失った孤児は多い。そういった者にとって目に見えぬ恐怖より、現実的に生きていく方がよほど重要、ってのはわかる。……でも、それなら政府は都市伝説の《黒い濃霧》だけ沈黙したままなんだろう……)
「その都市伝説が
「んなわけないか……」
燈は嘆息した。
「わー、わー? トモリしょんぼり?」
この世界は歪でほんのわずかな均衡を保っている。そんな風に燈は感じていた。
寝起きだからか、喉がやけに渇く。燈は冷蔵庫から豆乳珈琲の紙パックを取り出すと、コップに注いだ。
「新しい情報……。せめて情報規制さえなんとかなれば……」
──次のニュースです──
抑揚のないニュースキャスターの声が、わずか八畳ほどのワンルームに響いた。
──……一九九九年から爆破テロや殺人・変死・失踪事件などの犯罪が増加の一途を辿っており、警視庁はこれらの事件に対し積極的な対応を行っていくと発言しており、《失踪特務対策室》の活動内容を正式に発表しました──
「は?」
紙パックを傾けたまま燈は固まった。薄茶色のクリーミーな液体がコップから溢れ出ていることに気づいていない。否、そんな些末な事など頭から吹き飛んでいた。
(確かに情報欲しいって思ったよ!? でも、なにこの急展開!?)
『いや、お前の記憶があったころは、当然知っていた情報じゃぞ』と式神が口にするが燈に耳には一切届いていない。
──《失踪特務対策室》は《MARS七三〇事件》以前から存在する課であり、事件の早期解決に努めてきていました……──
──……事件関係の情報開示、報道規制の取り下げも進められており……──
──また国防長官に就任した
「はああああああ!?」
燈は素っ頓狂な声をあげた。
(え、え、え? 情報公開だけじゃなく、対策まで? なんで……)
『主よ、それより溢れておるぞ』と式神が指摘するも、燈の頭は今入ってきた情報の処理でいっぱいだった。
情報量の多さに混乱しながらも、燈はテレビ画面に視線を向けた。
テレビ映像が記者会見に切り替わる。カメラのフラッシュが焚かれる中、国家の要人が姿を見せた。筋骨隆々と鍛え上げられた肉体に、上質なスーツ姿の男性が堂々とした態度で記者会見に臨んでいた。五〇過ぎだろうか、刈り上げられた髪に白いのがいくつか混じっている。鋭いその双眸は国のお偉いさんというより、歴戦の武将の方が近い。また威厳に満ちたその姿勢と雰囲気は、画面越しからでもヒシヒシと伝わってくる。
──あの《MARS七三〇事件》から十一年──
言葉に重みがあった。
──穏やかな日常は消え、我らは不可視の存在に怯え、耳と目と口を閉じる毎日だった。しかし! 我らはただ耐えていたわけでも、諦めていたわけでもない。牙を研き、情報を集め、人材が育つのを待った。今や都市伝説となった《黒い濃霧》。それに沈黙を続けてきたのは、事実だからです。……そしてそこから現れる《
──飛躍的進歩を遂げた医療と科学技術の結晶が
迫力と声のトーンにおいても堂に入っており、カリスマも申し分ない。その熱意と覚悟、そして宣言の内容に燈は魅入っていた。
──……五十君氏の会見に対し、本日午後より詳しい説明を行うため、緊急記者会見を開くとの情報が入りました。《濃霧》とは、設立しようとしている《特別対策会議》とは? なぜ今になって情報開示がされたのか、どのような改革なのか──
ニュースキャスターやコメンテーターが珍しく議論に花を咲かせている。
燈は手の冷たい感触に違和感を覚え、テレビから視線を移すと──
「ん、……って、わっ、わっ!!」
豆乳珈琲はコップから溢れ、シンクはおろか床まで濡らしていた。燈は慌てて布巾を取ろうとして横転する。痛い上に寝巻が豆乳珈琲色に染まった。
「痛っ……。そして最悪……」
『かかかっ。相変わらずのドジ具合じゃな』
燈の影がゆらりと動いた。しかし当の本人は式神に気づいていないし、声も届いていない。
「うう……シャワーでも浴びよう。……はあ、せっかく買った豆乳珈琲が……」
燈は殆ど空に近い紙パックを冷蔵庫にしまった。中は未開封の豆乳珈琲が二つもあり、どれだけ好んでいるのかが伺えた。
「わー、わー 水、水、だいじー」と木霊たちは燈の足元で、ぴょんぴょん跳ねていた。
『相変わらずストックがあるのか。……少しは水を飲め、水を』
式神の小言は燈には届かない。
はずなのだが──
「水? とはいっても、ミネラルウォーターは高いし……。あ、スーパーでレモンを買ってレモン水を作れば……、ってあれ?」
燈は雑巾で床やシンクを拭いていた手が止まった。ふと顔を上げる。周囲を見渡すが誰もいない。気のせいだったかと再び視線を戻した。
(なんで急に水を飲んだ方が良いかも……って思ったんだろう?)
***
燈は着替えとタオルを持って浴室に向かう。
ふと、洗面台の鏡に映る自分の姿をまざまざと見た。黒炭のように黒く艶のある髪、長さは肩ほど。髪に艶があることが彼女にとって自慢の一つでもあった。肌は健康的な色合いを保ち、発展途上の体つきで胸や尻もそこまで大きくはない。どちらかというとスレンダーな体型に近い。
燈には剣道で負った怪我とは別の、切り傷の痕がある。よく見なければ分からない程度だが、体中至る所にあるのだ。服を脱ぎながら改めて自分の体の傷をみつめた。
「はあー、過去の私。いったい何をしてたんだろう? もっと自分の体、大事にしないと嫁の貰い手なくなる……」
過去の自分に文句を呟いた。
『案ずるな。すでに貰い手なら当てがある』
影に潜みながら式神は呟く。むろんこれも燈には聞こえていない。
「ん、これからは自分の体を大切にしよう。退院してから体力も落ちたし、まずは体力づくりから始めないと」
『そうさな。まずは食事の量を増やしてもらえると某も助かる。特に酒があると──』
式神のダミ声をかき消すように、浴槽からシャワーの音が響いた。
『…………』
***
柳ケ丘高等学校に通う学生の殆どは、燈と似た事件や事故によって家族を失っている。天涯孤独。
だから、燈ばかりが特別なのではない。
「……よくあること」と、燈は呪文のように呟く。しかし誰も居ない部屋というのが無性に落ち着かなかった。
(記憶を失う以前は独りではなかった……?)
両親が死んで十年以上経っているのに、おかしな感覚だった。燈も初めのうちは記憶喪失による混乱かと思っていたが、日常生活において妙な違和感を覚えたり、不可解な行動を取っていることに気付いた。
(んー、なんだなんだろう。なんかの障害ってわけじゃなさそうだし……。癖とか……?)
燈は浴室から出ると、手早く着替えを済ませる。ついで朝食の準備のため台所へと向かった。
(今日はベーコンと卵、アスパラも焼いてそえよう。気分としてはパンかな)
『良いが、その分量は多くないか? 某は《名前》を呼ぶか見えておらんと食えんぞ。おーい』
式神が声をかけるが聞こえていない。燈が冷蔵庫から卵を三つほど手に取ったところで、一人分にしては多いことに気づいた。
「あ……」
『お、気づいたか』と、式神は安堵の声を漏らす。
「今日は作り終える前でよかった……」
燈は慌てて卵を二つ戻す。
これが不可解な習慣。食事を作る時に三・四人分作ってしまうのだ。他は寝ているときに気づくと一人分のスペースを空けている。
また部屋に一人でいる筈なのに《何かいる》、《見られている》という妙な視線を感じるのだ。
(赤の他人と一緒に暮らしていたとか? ……想像できないな)
苦笑しつつ燈は手を動かす。すぐにベーコンを焼く香ばしい匂いが空腹を刺激した。卵を投入し、素早くフライパンに蓋をすると、ほんの数分の間、手持ち無沙汰となる。
燈は自身の失った記憶について考えてみた。去年の十月から十一月に起こった事件の中で、燈が関わっている可能性が高いのは──三つ。
《白霧神隠失踪事件》
《クロガミ怪奇殺人事件》
《那須集団放火事件》
去年近い時期に発生した事件は、四千件を越えている。その中から三つに絞るまでに至ったのは、ひとえに燈が刑事と交渉して粘った結果だ。
(あの顔面凶器のような刑事相手に私頑張ったな……。うんうん)
病室で繰り広げたチェス対決は実に百回を超えている。毎回事情聴取やら、その後の手続きなどで訪れる担当の刑事から少しでも情報を得るために、燈はチェスを挑み続けた。
(百回中、数回しか勝てなかったけど……)
燈は律儀に対戦してくれた浅間のことを思い出す。
(そういえば、浅間さんって刑事ってことだけしか知らないけど、もう一度チェス勝負に勝ったら《失踪特務対策室》について教えてくれないかな~)
甘い期待を膨らませるが、燈は頭を振った。
(いや、希望的観測ではだめだ。絶対に情報をもぎ取る勢いで聞いてみよう)
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