第3話 開幕 


 秋月燈あきづきともりは記憶喪失者となった。


「《MARS七三〇事件》で生き残った貴様は、十年経った二〇〇九年の《ある事件》に巻き込まれた」


 そう目を覚ました燈に、とある刑事が告げた。

 医師や警察関係者とのやり取りでわかったことといえば、自分の記憶が虫食い状態なこと。

 一番古い記憶はあのまわしい《MARS七三〇事件》直後だけ。亡くなった両親や妹の顔は覚えておらず、写真もない。本当に家族がいたのかも怪しいぐらいだ。今までどこに住んでいたのか、誰と過ごしていたのかも覚えていない。

 当然だが《どんな事件》だったのかも、思い出せなかった。

 厳然げんぜんたる事実の前に燈の心は大いに傷つき、誰もいなくなると、声を殺して泣いた。


(私……これからどうしたらいいんだろう)


 考えても答えは出ない。

 燈は涙で枕を濡らしながら眠りにつく。彼女は無意識的に夢の中で何かを思い出そうと、記憶の残滓ざんしを探す──




***




 ──淡い夢。

 少女がふと気づくと、ある部屋にいた。いつからいたのか、どこから入ったのか不明だ。しかし夢ではよくあること。

 六畳ほどのワンルーム。白を基調としたシンプルな部屋で、ドアや窓は無い。天井は遙か彼方に見え──それこそ果てがなくどこまでも続いている。酷く現実味の欠けた空間なのに、なぜか特別に思えた。視界に霧がかかったかのように、周囲が見えづらい。

 燈はソファから離れて、部屋に視線を向ける。人の気配があるのに、誰も居ない。それは彼女の心そのものを形にした世界だった。


「だれかいるの……?」


 返事はない。けれど何かいる。威圧するような感じでも、怖いというのとも少し違う。

 ぺたぺたと室内を回って歩く。フローリングの床は真っ白で冷たい。まるで水面を歩いているようで、足下が不安定だ。

 カタン、と音に怯えて振り返ると、いつの間にか白い家具があることに気付く。


「あんなもの、あったっけ?」


 燈は眉を寄せつつも近づいた。

 それは木材で出来たチェストで、乱雑に塗りたくった白いペンキの跡が目立つ。引き出しは全部で五つほどあったが、一番上の引き出しだけ開いた。

 中に入っているのは、一通の手紙。封筒の表には「燈」とだけ書かれており、《送り主》は文字が汚れてわからなかった。滲んだ文字を見ても、なにも感じられない。

 燈は中身を見ようと手紙の封を切る。封の中から出てきたのは、ポラロイドで撮った写真の束だった。


「え、うぇえ!?」


 燈の声が裏返った。それは封筒から魔法のポケットのように写真が溢れ、その数は数百枚を超えるほどの量となった。少女は一枚ずつ写真を拾い上げる。


「これ……」


 写真は燈と誰かが映りこんでいるが、少女以外は黒いインクがにじんで見えなかった。記憶を失いながらも何かを残そうと、足掻いた結果なのかもしれない。

 忘れてしまった誰か。

 燈は壁に写真を貼り付けていく。中学校の制服姿。ランドセルを背負って笑う自分。七五三の着物姿。クリスマスツリーを飾り付けているもの。一緒におせちを食べて、凧揚げをしているところ──


「あ……」


 写真にしずくこぼれ落ちた。燈は自分が泣いていることに気付く。

 手にしていたのは、満開の桜が咲いている写真だ。

 、誰かがいつも一緒に写っている。家族を失った燈はその後、誰と過ごしていたのか。

 思い出そうとしても記憶は形にならず、霧散して消えてしまう。それでも燈は桜の写真を見つめ続けた。

 忘れてはいけない何かがあったはずなのだ。


「探すのかい?」


 ふと老人の声が部屋に響いた。


「え?」


 燈は慌てて振り向くがそこには誰も居ない。

 気づくと瞬間移動したように周囲が夜明け前の水辺へと変わった。どこまでも広がる水辺と雄大な空。周りに建築物はなく、空と水面が鏡合わせのように広がっていた。

 眩いオレンジ色の明かりが世界を照らす。


「記憶を──探すのかい?」


 また聞こえた。


「探すよ。大切なモノだったはずなんだ」


 燈は決意を込めて老人の声に言葉を返す。


「忘れてしまったのなら、もう別にいいんじゃないの?」


 今度は子どもの声だ。

 上手くしゃべれないのか、どもりながら燈に尋ねた。


「よくない……! まだ私の中に記憶は……残ってる」


 胸の中に残る想いはまだ温かい。

「傍にいたのが誰なのか、私は知りたい」と、燈は心の底から告げた。


「私は思い出したい!」

「誰も、思い出すことを望んでいなかったら?」

「誰も待っていなかったら?」

「後悔するかもしれないよ」


 夜明け前の暗闇が燈に言葉を投げかける。「楽な道があるから行こう」と誘う。

 燈は彼らの言葉を振り切って、遠くに見える光に向かって歩き出す。足元は柔らかく、先ほどよりも不安定だ。もう一歩踏み出したら体ごと水底に落ちてしまいそうだ。


 燈の足が──身がすくむ。


「もう、十分じゃないか」

「諦めたっていいと思うよ」

「なにもなかった。忘れちゃおう」

「駄目、駄目だよ……。忘れたら駄目なんだ。絶対に忘れないって、!」


 燈は心から叫んだ。


「だれと?」

「ダレ?」

「だれだれ?」

「誰だい?」

「誰なの?」

「ダレ?」

「だぁれ?」

「だれ?」

「ダレダレダレダレダレダレダレ……」


 何十人という声が一斉に燈を責めたてた。老若男女、子どもまでもが繰り返し尋ねる。「それは誰か」と。


「………うっ」


 深い闇が燈をさらなる深淵しんえんへと、引き入れる。

 足が動かなかった。

 怨嗟えんさと悲鳴と怒号が、燈の声をかき消す。


「私……は……」


 燈はゾッとする気配に負けじと唇を開いた。


「それでも私は──過去を捨てない、絶対に諦めない!」


 理不尽をあざけり笑う豪胆ごうたんな声がとどろいた。

 刹那、閃光が煌めく。それは暗雲を断ち切る鋭く激しい光。


「……!」


 闇夜はガラス細工のように崩れ──眩い朝日によって泡沫うたかたのように消えていく。それは儚くも美しかった。


『ふん、造作もない』


 雷のごとき刃は鈍色にびいろに煌めき、朝日の光を浴びて白銀となる。

 刃の先へ視線を向けるとそこには、鎧武者が佇んでいた。


(うわっ大きい! 私の二倍ぐらいはあるかな?)


 目を丸くする燈に、鎧武者は傲岸不遜ごうがんふそんに笑う。


『かかかっ、どうした? 某が恐ろしいか?』


 黒ずんだ緋色ひいろの全身鎧。五月人形に似たいで立ちで、その兜の奥から燃え上がるような緋色の瞳が煌めいた。


「よ、鎧武者。……かっこいい!」

『かかかっ! ×××よ。いい加減、名ぐらい思い出して欲しいものじゃ』


 瞬間、太陽の日差し──輝きが燈の視界を真っ白に変える。

 次に少女が目を開くと、鎧武者の姿はもういなかった。


「え、ちょっと、待って!」


 ふわり、と懐かしい匂いが鼻腔びこうをくすぐった。


「────」


 それは声にならない囁き。

 先ほどの鎧武者とは異なる気配に、少女は振り返った。

 。目と鼻の先の距離なのに、蜃気楼しんきろうのように人影が揺らぐ。

 白、いや白銀だろうか──

 長い髪、赤い──いやあれは──


「────」


 燈は《その人の名》を呼ぶが、声が出ないことに気付く。

 覚えているはずなのに、言葉が紡げない。


「───」


 思い切って燈は手を伸ばして一歩、踏み出したが──

 一足遅かった。

 空を覆うような巨大な津波が全てを飲み込んだ。再会を拒む大波に燈はあらがうすべもなく──波にもみくしゃにされ視界は暗転した。



***



 《MASR七三〇事件》から、二〇一〇年四月二八日。


 春が過ぎ去り夏の準備を迎えようと、若木の葉は青々と生い茂り、花の香りから薫風くんぷうの香りが色濃くなる。

 今は夜明け前の時刻だったろうか。自然界にはないサイレンの音がいくつも重なり、不協和音を奏でた。その音に燈は眉をひそめる。

 まだ顔は幼く見えるものの、大人に近い体つきに成長していた。


「ん?」


 重たげなまぶたを開くと、見慣れた学生寮の天井が目に入る。まだカーテンの向こうは薄暗い。

 再び眠気が襲い、燈は再び目蓋を閉じる。しばらくすると規則正しい吐息が部屋の中に漏れた。

 風もないのに。それは常人には見えないモノだった。ゆらりと煙のように部屋を浮遊する。

 もし燈が起きていれば、気配に気づいたかもしれない。


『まったく、呑気なものじゃのう』


 囁くようなダミ声は、遠のいていくサイレンの音と共に掻き消えた。


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