だった、ラムネのビー玉

うさぎやすぽん

だった、ラムネのビー玉

「だった、ラムネのビー玉」


 たっくんは、死んでしまって美しくなった。



 子供の頃、鴨川が怖かった。

 橋の上から見ると、ごおおっ、と鴨川は絶えず流れていて、水面は常に動いていて、陽の光はちかちかと反射して、川の奥底では魚の影が現れたりして、そんなのを見ていると、急に恐ろしい気持ちになって、背筋が撫でられたような心地になる。もし、あの川の奥底から、水が、ぶわっ、と噴き出して、そのまま川が溢れ出して、京都の街が、地下鉄の入り口の屋根とか、あの煉瓦造りの古い建物とか、看板が少し寂れた高島屋とか、ぴんっと空に向かって伸びている京都タワーとか、そんなのが水の中に沈んでいって、そしてそのまま荒れ果てて苔とか錆びで覆われてしまったらどうしよう、なんて考えてしまったりした。

 でも、そこから離れてしまうと、鴨川の風景はなんとなく美しかったな、と思う。河川敷で座ってのんびりしている人だとか、芝生の緑だとか、飛び石に当たって弾け飛んでいる泡だとか、そこに吹いていた風が、どことなく川で浄化されていたことだとか、街の喧騒の音が川の流れの音でかき消されたりしていたことだとか、そんな風景、そんな体験が、後になって、ようやく良かったんじゃないかって思う。


 子供の頃、テントウムシが怖かった。

 太陽の光をすくすくと吸って青くなった葉っぱの上に、小さな赤い点があって、その小さく、こそこそと動いている命でさえ、見ていると身体中に不自然に力が入った。この小さな赤い点がいまにも飛び出したらどうしよう、この小さな赤い点が、急にむくむくと大きくなって、まだら模様が私よりも大きくなって、そして私を飲み込んでしまったらどうしよう、なんてことを考えてしまう。

だったらいっそ、この小さな命を今すぐ潰してしまいたい、なんて思ったこともある。そうすれば、私の記憶の中にあるテントウムシは綺麗だ。小さくて可愛らしく、そしてあの混じりっけのない綺麗な赤の上に、ぽつぽつと落とされた黒い点。記憶の中にある、あのテントウムシは、なんとなく宝石のような気がするほど、綺麗だと思った。


 今では、流石にそんなことを考えなくなった。それでもやっぱり、私はどんな風景を見ても、なんとなく居心地が悪くて、どんな生き物を見ても、なんとなく恐ろしくて、なんだか、毎日毎日、何かに怯えて暮らしているような、そんな気がする。



 ぎらぎら、じんじん、なんて太陽が言ってるような、快晴の夏の日。古本屋が並ぶ通りより一つ路地に入ったところにある喫茶店「ラドリオ」、煉瓦造りの壁と、曇っている窓の上に掲げられている看板は白い光を放っていて、私の思い出の中ではなんだかずっと暗かった印象があったのに、と少し不思議に思った。黒ずんだ木の扉を開いて、オレンジ色のランプの光と、少しばかりの陽の光の入る店内は、思っていたより広くて、奥へどうぞ、と言われるがまま、煉瓦の床を踏みしめて、隅っこのテーブルへと向かった。少し渋めのワインレッドのソファに、ヤニで汚れたテーブルには、白くてまん丸な灰皿と、琥珀色のシュガーポットがぽつんと置かれていて、手書きのメニューが立てかけてある。

 たっくんが死んでしまってから、半年は経っていた。今でも、たっくんとの思い出の中では、ここが一番綺麗だった。

 思い出すと、たっくんの思い出は綺麗なものばかりだ。二人で出かけた水族館の青は、幻想的な色で、二人で見た由比ヶ浜の空の青は、水彩絵の具で描かれたような引き込まれる色で、二人で注文したクリームソーダの青は、宝石みたいに輝く色だった。

 なんとなく、つい神保町まで足を運んだものだから、たっくんとの思い出の中にあった、ここを訪れたくなった。でも、メニューを見ていると、なんだか、胸の奥でうずうずと何かがうごめいて、それが、ぶわっ、と大きく膨らんで胸がいっぱいになるかと思えば、ぎゅっ、と縮んで色がどす黒くなって、胸が苦しくなるような、そんな不安がふと訪れる。

 こんなことばかりだ、と思った。

 たっくんとの思い出が、綺麗だったのを確かめたいような、でも、綺麗じゃなかったらどうしよう、なんて思ってしまうような、そんなことばかりだ。

 締め付けられるような胸の中に溜まった空気を吐き出すように、私はクリームソーダを注文した。待っている間、なんだか早く帰りたくて仕方なくなった。店内に流れるアコーディオンの音色は、自分の感覚がなんだかおかしくなってしまって、今にもこの空間が捻じれて歪んで、いびつな形になって帰れなくなってしまうような、そんな気がしてくる。

 そんな風だから時間の感覚とか全然なくて、すぐにクリームソーダはやってきた。

 白い紙のコースターの上に置かれた丸いグラスの中に、大きな氷がごろごろと転がっていて、青緑のソーダがぷつぷつと気泡を立てながら満たされていて、ドーム状に盛り付けられたバニラアイスの白、そして、鮮やかなチェリーの赤がちょこんと上に乗っかっている、クリームソーダ。

 こんなんだっけ。ぽかん、と私は誰かに頭を叩かれたような気になった。

 なんだか、もっと綺麗だった気がする。私の過去の思い出の中のクリームソーダ、たっくんに教えてもらって、ここのクリームソーダは一番美味しい、なんてたっくんが、にいっ、と笑って、手書きのちっぽけなイラストが可愛らしくて、そして、宝石の上に雪が積もっているようなあのクリームソーダは、もっと綺麗だったような、そんな気がする。

 やっぱり、来るんじゃなかったかもしれない。注文するんじゃなかったかもしれない。そんなことを思った。思っていたより美味しくなかった、そんなことを思うんじゃないかもしれない。私の思い出が、間違っていたんだって、思ってしまうかもしれない。そんなことを思うと、どこかやりきれない気持ちが溢れ出てきて、ふわっ、と私の口から漏れ出て行く。

 たっくんは、死んでしまってから美しくなった。

 私は、たっくんが死んでから、一番たっくんのことが好きになった。

 その思い出も、死んだままにしていたほうが、ずっと良かったのかもしれないって、思った。

「あれ、江石じゃん――」

 そんな風に、じっと眺めていたクリームソーダのバニラアイスが溶けて、ざらざらとした表面に白い液体の粒が滲んで浮かんで、縁から落ちていく、そんなときに男の人の声がした。聞いたことある声だ、と、ぼんやり思って、私の視界からクリームソーダは消えた。

「上村君」

「どしたの、飲まないの、クリソ」

 大学の同級生の上村君の顔を見ると、なんだかさっきまで、ほんの数秒前見ていたあのクリームソーダが、いつの間にか過去の記憶の中で、やっぱり綺麗なものに変わっていた。

 


 たっくんは、交通事故で呆気なく死んでしまった。それを聞いたときに、悲しいとか寂しいとか、そんな気持ちよりも、まず、なんだか安心した、なんて気持ちが真っ先に胸の奥に湧いてきた。

 たっくんは私の初めて出来た恋人で、二年ぐらい付き合った。

 大学の授業中、居眠りをしていたらいつの間にか講義が終わっていたみたいで、一人残されていた私にたっくんが「あの――」と声をかけてきた。初めて見たたっくんの姿は、どことなく不気味で、だだっ広い講義室に私とたっくんだけがぽつんと残されているのだとか、天然パーマが少しかかった黒髪とか、ひょろりとして背が高いのとか、にい、と笑みを浮かべている表情とか、そういうのがなんだか怖くて、私はびっくりして何も言えなかった。

「いや、随分気持ち良さそうに居眠りをしてたけど、講義、終わったよ」

「終わった?」

「うん、あっ、おでこ赤くなってる」

「うーん、見えない」

「ははっ、そらそうだ」

 私は眼鏡をかけ直して、たっくんの顔をまじまじと見つめて、どうしたものか、なんて考えて、そこからなんとなく二人で少し話して連絡先を交換した。

 あのときはちょっと怖かったんだけど、今思うととてもいい思い出だ。大きな窓から差し込んでくる夕陽だとか、その光の中で舞っている埃だとか、スマートフォンをいじっている血管の浮き出たたっくんの手とか、ずっとにこにこしていたたっくんの横顔とか、そんなのも全て美しくて愛せる思い出だ。

 それ以降、その講義ではたっくんはいつも私に話しかけてきた。なんだかその講義に行って、たっくんと話すのが怖いと思ってしまっていたけど、講義が終わってみれば、たっくんとの会話は楽しくて、ああ、たっくんっていいな、なんてぼんやり思う日々が続いた。

 たっくんから二人で遊びに行こうと誘われたのは、出会って二か月が経った頃だった。私の趣味が写真だということを話したことがきっかけで、国立近代美術館のジョゼフ・クーデルカ展に一緒に行った。額に飾られた様々なサイズのモノクロ写真が、真っ白の壁にぽつぽつと並ぶ展覧会だった。たっくんと出かける、そのことを考えると、なんだかやっぱり不安で怖くて、明日が来るのなんてもう無理って何度も思ったけど、でも、やっぱりあの思い出は、あとになるとなんだか美しくて、かけがえのない私の過去になった。どうしようもない会話一つでも、私は覚えている。

「ちょっと休む? なんか迫力ある写真ばっかりで疲れるね」

「でも、綺麗だよ。どの写真も」

「綺麗? 江石さんはそう思うの? 俺はなんか、綺麗っていうより、こう、なんだろ、どーんっ、って一枚一枚強いみたいな感じがする」

「うん、でも、どれも綺麗。あっ、ベンチ空いてる」

「座ろ座ろ。なんかあれだ、女の子と美術館に行くことないから緊張して疲れたよ」

「一枚に切り取られた過去は綺麗だよ。変わることが無くて、確かなものなんだから」

「ああ、スル―だ」

「えっ?」

「なんでもない、はあ、疲れた」

 あれが、たっくんの精一杯のアピールだと今思うと、可愛らしいな、なんて思う。たっくんには可愛いところが結構ある。


 それから何度もデートをした。品川の水族館で見たくらげがふわふわ浮いてて可愛かった、井の頭公園で飲んだビールが美味しかった、西荻窪の喫茶店を梯子したらカフェインを取りすぎてふらふらした、阿佐ヶ谷のミニシアターで「アンダーグラウンド」を見た。

 それから付き合うことになった。また、いっぱいデートもしたし、大学で一緒にご飯を食べたりもしたし、講義が被ったら隣に座ったし、たっくんの家で映画を見たし、セックスだって何回もした。

 でも、たっくんといる時間は、いつも早く終わってくれないかな、なんて思ってしまう。

 早く終わったら、たっくんと別れて、それで思い出した時間が全部いい思い出になる。でも、一緒にいるときは、たっくんの表情とか、たっくんと一緒に見る景色とか、なんだか全部が不安定に思えて、その時間が、その次の瞬間がぐらぐらしてしまうようで、落ち着きがない。でも、思い出になると、それは確かな形になって、確かな記憶になって、確かな幸せになる。


 思い出は、良い。ラドリオに一緒に行ったのが、付き合って初めてのデートだった。たっくんは、ここは絶対大事な女の子を連れていくんだ、なんて言っていて、大事な女の子なんて言っていいのかしらん、とそのときはちょっと困ったけど、店内に入ったら、そう道端で言ってくれたことが急に嬉しくなって、私は妙にどぎまぎした。

「今までいろんなクリームソーダ飲んだけど、ここのクリームソーダが一番美味しい」

「クリームソーダ?」

「飲んだことないの?」

「無いなあ。私、炭酸飲めるようになったの、大学生になってからだから」

「えっ、そうなんだ。大人っぽく見えるから意外だな」

「大人しいからだよ、大人っぽいわけじゃないの」

「やった、クリームソーダデビューが俺と一緒なんだ。やった」

「めちゃ喜ぶね」

「そりゃ、うっ、うん、まあ、でも、ここの最初に飲んだらハードル上げちゃうな。クリームソーダ全体の。クリームソーダ業界に大打撃」

「クリームソーダ業界」

「ほんとに、美味しいんだよ。それで綺麗なんだ。宝石みたいな色をして」

 たっくんは、そんなことを嬉しそうにずっと、あの優しい笑みで語ってくれる。

 なんだか、そのときは、やっぱり不思議な、落ち着きがない時間だった。クリームソーダが届けられても、どう、反応していいのかわからなくて大変困った。でも、お店を出て、たっくんとご飯を食べて、そして家に帰ったときに、ああ、確かに、宝石箱みたいだったな、と思った。そして、それを前にして,、嬉しそうににこにこしていたたっくんが、急に愛おしいような気持ちになった。

 今のことも、未来のこともわからない。たっくんが今何考えているのかも、たっくんがこれから何をするのかも、今私はどんなことを考えているのかも、これから私が何を考えてしまうのかも、わからない。

 でも、過去のことは、今よりも、未来よりもずっと確かなものだった。私は、あのときたっくんが何を言ったのとか、あのときたっくんと食べたものとか、あのときたっくんと見た景色とか、それは良かったって、あのときのたっくんは好きだったって、それだけは確かに言えると思った。



「江石、何してるの、最近」

 ラドリオで偶然出会った上村君は、私のテーブルの向かい側に座って、そしてウインナーコーヒーとヨーグルトのケーキを注文した。江石君は、一年生のときに一回だけ顔を出した写真部の同級生で、大学ではあまり喋ることはないのだけれど、何かにつけて出会っては喋る男の子だ。はあ、とため息をついて煙草を取り出して、いい? と私に聞いて、こくり、と頷くと黒縁の眼鏡を直して、そしてマッチで火を点けて、ふう、と煙を宙に浮かべた

「暑いのに、よくホットを飲むね」

「ラドリオに来たら、ウインナーコーヒーと決まってるんだよ。良いんだよ、この生クリームが冷凍の業務用の安っぽい味なところがっ」

「ヨーグルトのケーキって美味しいの?」

「美味いんだよ、これが。江石も食べた方がいいよ。絶対人生半分損してる。いや、言い過ぎた、四分の一」

「四分の一だったら、別にいいかな」

「結構でかいよ、四分の一。ほら、う、え、む、ら、が、えむらになっちゃう」

 上村君はいつも、そんなひょうきんなことを真面目な顔をしてぺらぺらと言う。そのときは、ぽかん、とするのだけど、後からなんだか面白かったような気がして、ふふっ、と思い出し笑いをして、「江石は反応が遅いから怖い」といつも彼はいじけて言う。

「ああ、クリームソーダ、やばいよ、溶けてる溶けてる」

 そう彼が言ったとき、ようやく、バニラアイスが溶けていって、グラスの縁から溢れ出そうになっているのに気が付いて、あっ、と声を出して私は急いでストローを取り出して、すっ、とソーダを飲み込んだ。ぱちぱち、と口の中で細かい気泡が弾けて、辛いような甘いような、そんな味が、じんわりと舌の上を泳いだ。

「ぼーっ、としてるからだよ、いつも」

「考え事をしてたの、ぼーっ、と」

「ふうん」

 バニラアイスが溶けたところが、澄んでいたソーダを濁った色にしていく。そんなのを見ていると、上村君は、こちらの方をじっと見て、そして、煙草をまた一口吸って、はあ、とため息をついた。

「まあ、思ったより元気そうでよかった」

 そして、そう言って、いつの間にか届いていたウインナーコーヒーの、カップから盛り上がったクリームにスプーンを突き刺して、クリームを一口、口に運んだ。

「えっ、なんで?」

「いや、宮坂のこと」

 そういえば、上村君とたっくんは、とても仲が良かった。たっくんはいつもにこにこしているから、上村君の適当な冗談が大好きで、いつも私に上村君の話をしたものだった。私は、たっくんが上村君に取られたらどうしよう、なんて本当に悩んだことだってある。そんなことを言うと、たっくんは、ははは、あいつだけは嫌だ、なんてまた嬉しそうに笑うのだった。たっくんは上村君のこと好きだったんだな、って今思い出すと、なんだか微笑ましい。

たっくんのお通夜に出たとき、喪服を着た上村君は、たっくんの遺影を前にして、ぼうっ、と突っ立って、そしてそのままとぼとぼと一人で帰っていったのを私は見た。たくさんの人が涙を浮かべる中、上村君は泣かなかった。でも、その背中は、酷く寂しくて、もの悲しくて、それが、写真に切り取られたように、その光景を私は思い出すことが出来る。

「新しい彼氏とか出来そうとか?」

「ううん、そんなわけないでしょ。たっくんは物好きだったんだから」

「ははっ、確かにあいつは物好きだ」

「失礼」

「ぼくが失礼なのは今に始まった話じゃないなあ」

「それは、そうだね」

「まあ、江石が元気ならそれでいいや。あれから半年経ったんだな。今でも信じられないなあ。今にもひょっこりここにやってきて、クリームソーダはやっぱりここだ! なんて言うんじゃないかって、思う。あいつ、絶対クリームソーダしか頼まねえんだよ」

 その言葉を聞いたとき、口から零れ落ちるようにして、私はぼそりと呟いていた。

「たっくんは、来ないよ」

 えっ、と、上村君は、そう言って固まった。

「たっくんはここには来てたけど、もう来ないよ。私は、それでいいと思う」

 ぽつん、と間が空いて、その合間を埋めるようにして、都合よく古いシャンソンの音楽が聞こえてくる。

「まあ、そうだけど――」

 上村君がそう、きまりの悪そうに言うと、私はふと、こんな言葉を言いそうになった。

『たっくんが死んじゃって、良かったと思う』

 そんなこと言ってしまうのは、きっと良くない。そう思って、私は口に押し流すように、ソーダを、ちゅうっ、と吸い込んだ。

『たっくんが死んじゃって、私はたっくんのことがずっと好きでいられるから』

 そして上村君は、ケーキを口に運んだり、一口食べる? なんて尋ねてきたり、急に明日の大学の話をしたり、上野動物園のパンダの話をしたりした。次第に上村君のいつものひょうきんな調子が戻ってくる。上村君は、それからたっくんの話をしなくなった。

 そろそろ出るわ、と上村君はテーブルの上の伝票を掴んで立ち上がった。私も、と立ち上がったそのとき、ようやく、ああ、上村君は、きっと私のことを心配してくれてたんだ、と気づいた。私のことを気を遣って、きっと自分が悲しくて仕方ないことをわざわざ掘り返して、明るく振る舞って、それで、こんな風に、私の前に座ってくれているんだ、って、さっきまでの言葉を思い出して、なんだか、少し申し訳なくなって、それから、いい奴だな、とちょっと思った。

「上村君っていい奴だよね」

 そんなことを言うと、また、ぽかん、と上村君は口を開けて固まって、そこから思い出すようにして、はは、と笑った。

「奢ってくれるから?」

「それもあるね」

 その日から、上村君から、よく連絡が来るようになった。LINEでもテキトーなことばかり言う。私は、上村君のLINEを読み返すのが、ちょっと好きになった。



 ラドリオで上村君と出会ってから、一か月ほどが過ぎた。相変わらず、上村君からはよく連絡が来るし、ご飯なんかも食べに行くようになった。でも、会うたびに、やっぱり居心地が悪いとなんだか思ってしまう。自分の心が、ぐらぐらと不安定なものになっていって、気持ちが悪いと思ってしまう。たっくんのときと一緒だ。帰ってしまえば、なんだか良かったな、なんて思ってしまうのに。

 そればかりか、たっくんとの綺麗な思い出が、本当は綺麗じゃなかったらどうしよう、なんても思ってしまうものだから、さらに気持ちが悪かった。上村君と喋っていると、私の胸の奥の大事な部分が掴まれて、ぐるぐるぐるぐるかきまわされて行くような心地になる。

 たっくんは、死んで、完全になった。

 たっくんは、死んで、確かなものとなってくれた。

 私は、やっぱりたっくんが好き。絶対に好き。絶対に、絶対に、これからも変わることなく、死んでしまったたっくんを好きでいる。



 良く晴れた日だった。

 大学生協で、夏だけ売ってる瓶のラムネを持って、大学の校舎の屋外の非常階段に腰をかけていた。蒸し暑くて、むわっ、と空気が私の身体にまとわりついて、皮膚の合間からじんわりと汗が滲み出でてくる。ただ、日陰だからか少しばかり吹いてくる風が心地いい。下を見下ろすと、陽で照らされた地面や植木が、ちかちかと光っていて、やっぱり暑そうだ、なんて思う。

 たっくんと、ここでラムネを一緒に飲んだことがあった。

「ミズホさんは飲んだことないでしょ、ラムネ」

 そんなことをにこにこしながらたっくんは言って、夏はラムネを飲まなきゃね、なんて言って私をここに連れてきて、そして二人で階段に腰かけた。

「わざわざ飲もうとしなかったからね」

「それは人生半分損してる」

「上村君の真似だ」

「半分ってめちゃくちゃ大袈裟だな。でもラムネはいいもんだよ」

 たっくんはそんなことを言って、ぷすっ、と音を立ててラムネの蓋の部分を力を込めて握った。私は、今にもラムネが溢れ出て来たらどうしよう、なんて思って、びくっ、と全身に力が入ってしまうと、そんな私を見てたっくんはけらけらと笑った。

「ミズホさんは怖がりだな、ほら、こうしてね、栓になってるビー玉を下に落とすんだよ」

「ビー玉ってこうして生まれるんだ、知らなかった」

「生まれる、なるほど」

 そして、たっくんはラムネの瓶に口をつけて、ぷはっ、なんて大袈裟に息を吐いて、私のほうを見てにこりと微笑んだ。

「ミズホさんもやってみなよ」

「こう、するの? わっ」

 ぽんっ、って小気味の良い音が鳴った。

「そうそう、それで、こんな風に飲むと、ほら、ビー玉がこっちに来なくて飲める」

「たっくんは賢いね」

「だろ、偏差値五百あるから」

「どんどん、上村君っぽくなってる気がする」

「朱も交わればなんたらってやつかな」

 口をつけると、ぱちぱち、と心地よくラムネは舌の中で弾けた。そのときは美味しいとかそんなのはよくわかんなかった。でも、あれは、確かに美味しくて、爽やかで、蒸し暑さが薄らいで、風がすっきりとして、そして、瓶がぴかぴかと光っていて、美しかった。

 ラムネを飲み終えたたっくんは、いつの間にかビー玉を手にしていて、ねちょねちょしてるな、なんて言って、指でつまんで私に見せてくれた。

「えっ、どうやって取り出したの?」

「さあ、どうしてでしょーか」

 にこにこと笑うたっくんの隣で、飲み終えたラムネの瓶を、私は傾けたり揺らしたり振ってみたりした。でも、かちかちと音が鳴るだけで、ビー玉は一向に出てくる気配がない。

「えーっ、どうして?」

「子供でもわかるのにな」

「だってラムネ飲まなかったんだもん、いっつも、オレンジジュース」

「貸してみて」

 そう言って、たっくんは私からラムネの瓶を受け取ると、くるりと私に背中を向けて、そして、その瓶を見えないようにして、えいっ、と声をあげた。そして、少しの間もぞもぞとして、またくるりと私の方に姿勢を向けて、ラムネの瓶と、ビー玉を私の手に置いた。

「凄い、なんでだろ」

「魔法だよ、魔法。俺、魔法使えるんだよ。ラムネの瓶からビー玉を取り出す魔法」

「全然使い道ないね」

「夏限定の魔法」

「えーっ、全然わかんないな。でも、ありがとう」

「どういたしまして。ははは、面白いな」

 そうして、たっくんと私はビー玉を二つ、少しだけ陽が差し込んでいた踊り場のところに並べて、ぼんやりと眺めた。

 ぴかぴかと光って、綺麗だった、ラムネのビー玉。あの景色は、私の目に写真のように焼き付いて、いつ思い返しても、とても、とても綺麗だった


 たっくんとの思い出は、綺麗なものばかりだ。本当は嫌だ。そんなことをするなんて。でも、どうしてだか、その思い出が綺麗なものだったか確かめたくなる、そんな、魔が差してしまう。せっかく、たっくんは死んでくれたのに。

 ぷすっ、とラムネの栓をこじ開ける。ぶわっ、と溢れ出たらどうしよう、とやっぱり気が気でなかったけど、しゅわしゅわ、なんて音が鳴るだけで、そして、鼻がひんやりするような香りが、微かに漂って、幾分か風が気持ちよくなった。

 口をつけると、ぱちぱち、と口の中でラムネが弾けて、甘味が広がっていって、こんなんだっけ、なんて思って、でも、私にまとわりついていた暑さがどんどんと私から離れて行って、世界の風通しがとても良くなった。

 そのまま飲み干して、そして、私はラムネの瓶を振る。からから、と音が鳴るだけで、甲斐が無い。寂しい音が、木々の揺れる音の合間に鳴るだけだった。

 そのまま、じっとラムネの瓶を眺めた。どうしても、わからなかった。

 あの景色は、やっぱりあの景色のまま完成されていて、今、そしてこれからは絶対に出会うことがないのかもしれない。

 たっくんが生きていたとしても、あの景色にはもう二度と出会えなかったのかもしれない。そんなことを思った。

 ラムネの瓶の中で、ぽつん、と一つ佇むビー玉。少し歪んだ透明な瓶の壁を通して見える、歪んだビー玉。

 ねえ、たっくん。たっくんは、死んで、美しくなってくれたよね。

 たっくんが生きているとき、私はなんだか、ずっと怖かった。

 不安定で、ぐらぐら揺れて、実体がなくて、朧げで、儚い、そんなものが怖かった。そんんなたっくんが怖かった。

 でも、あの日見た景色、あの日言われた言葉、あの日見た笑顔、そんなものは確かで、美しかった。

 確かなものは美しい。不安定なものは醜い。

 ああ、私、ぐらぐらしている。

 あの、確かな景色のように、確かにそこにあって、綺麗だった、ラムネのビー玉のように美しくない。

 ふと、立ち上がって、踊り場の塀から下を見下ろした。五階分の高さから見下ろす地面は、いつもより遠く、果てしなく遠いところ見えた。

 美しくなりたい。たっくんみたいに。

 ラムネの瓶を手に持ったまま、塀によじ登った。ふわっ、と下から風が吹き上げて、私の足元から首筋まで、そっと撫でた。

 私も、たっくんみたいに美しくなりたい。

 あの日の景色のまま、いたい。

 ねえ、たっくん。私は怖かったよ。ずっと。今見ているもの、これから見えるもの、それがわからなくて、ずっと怖かった。そう、私は、怖かったの。

 たっくんが、怖かった。いつか私のことを嫌いになるかもしれないたっくんが怖かった。私が、怖かった。いつかたっくんのことを嫌いになるかもしれない私が怖かった。一緒に行ったラドリオのクリームソーダが、いつか泥水に変わってしまうかもしれないことが怖かった。一緒に見た由比ヶ浜の空が、いつかひび割れていってしまうかもしれないことが怖かった。このラムネの瓶の中のビー玉が、いつか消えてなくなってしまうかもしれないことが怖かった。

 だったら、写真の中の人みたいに、ずっと同じ景色を見ていたい。死んだ人みたいに、ずっと綺麗な思い出の中だけで生きていたい。

 たっくんが、死んでくれて本当に良かった。たっくんは、そのお陰で、いつでも綺麗なままだ。私は、もうたっくんのことが怖くなかった。前よりもずっと、たっくんのことが好きになった。

 たっくんは、ずっとずっと、確かなものになって、美しくなった。

 いつだって、過去は美しい。それは変わることがなくて、綺麗なものも醜いものも、ずっとそのままで、美しい。確かだ。写真の中の景色みたいに。変わることがなくて、確かなもので、美しい。

 ああ、私は、醜いな。ぐらぐらして、ふわふわして、揺れて、不安定で、どう変わるのかもわかんなくて、ずっと、ずっと醜いな。わからないの。怖いよ。私、自分が怖いよ。わからないもん。自分ですら、わからない。あの日の私みたいに、確かじゃない。ぼんやりしてる。ふわふわしている。揺れて、揺れて、揺れて、どうしようもない。酷い。酷い。美しくない。綺麗じゃない。

 だったら、私も――。

 たっくんみたいに――。

 このまま、たっくんの人以外を好きになったりしないように。

 たっくんとの思い出の中だけで、生きていけるように。

 

すっ、と私は、何かに手を引かれるように、足を一歩、前に進めた。

走馬燈なんて、あるのかな。

そんなことを考えながら、ふわり、と重力に身を任せて、落ちて、落ちて、落ちて――。

 死んで、美しくなって――。

 


「江石ぃぃぃぃぃぃぃっ!」


『夏限定の魔法』


 たっくんの、声がした、そんな気がした。

 

 ぶわっ、と風が吹いた。

それだけがわかった。ぐるぐるぐるぐる、視界が、植木、校舎、アスファルト、人、校舎、植木、アスファルト、ラムネの瓶、私の手、校舎、空、誰かの手、私の手、ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐる回って、そして、ぶわっ、とまた風が、吹いた。



気が付くと、私は、背の低い植木の中に突っ込んでいた。ぞわぞわ、ちくちく、と身体のあちこちを葉や枝が触っている。そして、私の背中を、支える誰かの手。

「馬鹿か! 何してんだよ! はぁ? お前なぁ!」

 私と一緒に、植木の中に倒れ込むようにして、そこには上村君がいた。

「上村君」

「お前さあ、くっそ、元気なフリしてんじゃねえよ! 何してんだよ! なあ。大丈夫か? 怪我してないか?」

「どうして?」

「どうしても何もねえよ! いきなり階段から飛び降りてきて、もう、本当に、なんでこんなことするんだよ」

 上村君は、私の隣で倒れたまま、今にも泣きそうなのをこらえるようにして、大きな声を上げ、私の身体を少し起こして、正面から肩を掴んだ。

「だって――」

 そして、私の口からは、零れるように。

「ビー玉、取れなかったから」

「は?」

「ラムネの瓶の中のビー玉、取れなかったの」

 じわっ、と鼻が、目の奥が熱くなって、ぽつぽつ、ぽつぽつと涙が浮かんできて、そして、ぶわっ、と目から溢れ出てきて、私の身体の中から、何もかも、溢れ出てくるような、そんな風になって、声が、全然でなくなって、でも、溢れ出てきて、何もかもがまとまらない。


「ラムネ、の、瓶のビー玉、取れ、なかった、取れないの。このまま、消え、消えちゃうんじゃないかって、もう、もう、二度と、会えないんじゃないかって、ビー玉が、ビー玉に、綺麗なのに、綺麗だったのに、だったの。だった、ラムネのビー玉。だったんだよ。綺麗だったの。もう、綺麗じゃなかったら、どうしようって、綺麗だったの、ビー玉。たっくんと、見た、ビー玉。光って、きらりっ、って、光って、宝石みたい、光って、きらきらして、輝いてて、綺麗だったの。たっくん、たっくんは、死んで、ビー玉、と、一緒に、綺麗になって、たっくんは、たっくんは、たっく、たっくんは――」


 もう、何もかも、わからない。どうして、どうして、って、そればかり浮かんで、でも何が聞きたいのかわからなくて、何が知りたいのかわからなくて、何がわからないのかわからなくて、涙、涙が、溢れ出て、言葉が溢れ出て、ずるっ、と鼻を鳴らして、涙で、何も、見えない。

「江石」

 そして、上村君は、ぐっ、と私の眉間を、親指で押した。

 上村君の、顔が見えた。眼鏡の奥の、瞳が、見えた。

「ほら、そこ――」

 そして、上村君は植木の傍の、アスファルトを指さした。

 きらきら、光っている。

 日向、アスファルトの上、割れた瓶の破片がきらきら光っていて、そして、そのすぐ傍で、ビー玉が、きらり、と光っている。

「取れたじゃん、ビー玉」

 ぽつぽつ、と乱雑に散らばった瓶の破片が、辺りに光を振りまいていて、そして、その中に、ぽつん、と佇んでいる、ビー玉。

「取れたじゃん」

 私は、ぼんやり、その景色を眺めた。

 ふわり、と風がまた吹いた。

 今、見ている景色は、どんな景色よりも美しくて、綺麗で、そして、輝いていると、心から思った。

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