第7話esthesia
ガタンッ、という大きな音の後にパァンッ、という甲高い音が和気藹々としたこの食堂に響き、誰もがその根源へと目を向けた。
目線のその先には立ち上がった母禮の姿と頬を叩かれた遊佐の姿に辺りは戦慄する。
「あの遊佐隊長に張り手を食らわすだって?」
「というか誰だよあのガキ。よくあんな事ができるな……」
「……命知らずが」
所々で声は上がり、当の本人達もまた動き出し、遊佐は「へぇ」と暗く冷たく呟きながら、目の色が変わる。
まるで、無謀な挑戦者に向けるかの様な怒りと喜びが混ざったおぞましい視線。しかし、何をする訳でもなく、口元を緩めたまま呟く。
「怒らないでよ。大体そんな所かと予想を立てただけだし、もしかしたらただの思い違いかもしれないからね。」
「このッ……!」
もう一度振り上げた手を止めたのは、それこそ正に先程まで話に上がっていた人物で。凍てついた表情のまま、母禮の手首を掴んでいる。
「斎、藤……さん。」
「何を話してるかは知らんが、騒ぐのはやめておけ。他の隊員の迷惑ともなる」
「……でも」
ぽつり、と呟いた言葉を斎藤は聞き逃さなかった。
「だから?」
「……」
「こいつの口車に一々乗るな。一応決まりでは隊員同士での私闘は禁じられている。それが守れないならば、それ相応の処罰を受ける事になる。言っておくが謹慎処分などという甘ったるい処罰だと考えるなよ。下手をすれば、
アンタの一生に関わる。」
「……」
「何故、止めたのか……と言った様子だな。」
無言なままの母禮の表情を見ては――否、斎藤は母禮の後ろに立っている為、表情など微塵にも見えない。
ただ何故理解したかというのであれば、母禮自身がかもし出している気を読んだとも言えよう。理由は至って簡単だと斎藤は告げる。
「俺はな、大鳥。この新選組で一番汚い仕事が回ってくる。裏切った同僚の処分や先程の処罰、よく犯罪を犯す犯罪者の検挙が多い第一部隊に続きその数はほんのごく僅かの僅差でしかない。到底自慢できる事ではないが、これは警告だ。相手の安い挑発に乗って力を行使するのは愚の骨頂。しかも今回は相手が悪すぎる。……まさか、昨日の様な技を以てすれば勝てるとでも思うのであれば、それはただの思い上がりだ。止せ。それに忘れたか?アンタの監視役はこの俺であり、今の事は昨日の手当の礼だ。ここにいる新選組の幹部をあまり甘く見るんじゃない。」
「……分かった」
「ならいい」
そう短く答えれば、パッと手を離し、また台所へと戻っていく。だが母禮としては惨めな気分でしかなかった。
『ここにいる新選組の幹部をあまり甘く見るんじゃない』
自身が戦う力はアマンテスが与えてくれた。
しかし、それを以てしてでも新選組の幹部の人間はそれより遥か上の実力をゆく。
ましてかの裏で有名な新選組の遊佐相似を相手にしようとは無謀極まりない。だが、あの言葉が蘇る。
『もしかして、大事な人が所以さんによって奪われた……とかありきたりな話じゃないだろうねぇ?』
その問題に関しては不明だ
なぜなら、ただ似ているというだけで犯人扱いをしたとして、証拠不十分なのは確かだ。
けれども、あの日父と母を守れなかった自身の無力さを思い出すだけで、怒りがこみ上げてくる。そんな気持ちを押さえ込んで、母禮は足早に食堂を出て行った。
「なぁ、ちょっと。ちょっと待てって!」
「?」
食堂を抜けて長い廊下を渡ってエレベーターを待っている際に誰かに声をかけられ、横目に見ればそこにはパンダの絵がプリントされた正しくは子供用のエプロンを身に付けた青年がそこにいた。
「君、昨日ここに来た情報提供者さんでしょ?」
「それがなんだというのだ?」
「いや、だから朝ご飯。」
「は?」
突拍子もなくそう言われれば、「ほら」と笑って青年は包みを渡す。
「開けてごらん」
しゅるり、とバンダナを解けばそこにはおにぎりが四つと口直しの為か、漬物まである。
「それ、仕事用に持っていこうとしてたんだけれども君にあげるよ。どうぞ」
「いいのか?貴方のなんだろう?」
「いいって。あの状況で食堂に戻るのは嫌だろうし、これぐらいまた作り直せるから。」
青年の背丈は母禮とそこまで変わらないが、明らかに歳上だという事は見て伺えるし、何より話し方が遊佐と似ているが、彼とは違いこの人には棘がない。
「ありがとう。えっと、名前は?」
「比企陽弘。ここの第2部隊の隊長で兼任というか非常勤で保育園の先生もやってるんだ。よろしく。」
そう言っては手を差し出し、握手をすれば思わず笑みが溢れる様子に「落ち着いた?」と問いかけられる。
「相似も斎藤も悪気はないんだよ。ただ、相似は身内でこう言うのは失礼だけど、人の命はどうとも思わない性格だし、物腰柔らかそうに見えるけど極度のきまぐれだから、人と話してると地雷は踏むし、ちょっかいも出してくるんだ。だから斎藤の言った通り、ああいうのは無視して構わないよ。それを言ったら斎藤の事もなんだけどね。」
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