第一章
ソフィアの
なぜなら
それに
「ひいおじい様! ねぇねぇ、妖精さんに会うにはどうしたらいいの?」
「おや。ソフィアは妖精に会いたいのか?」
「もちろんよ! でも妖精さんだけじゃないわ!
「ははっ、
「えー。会えないの?」
「いいや。竜や魔法使いはわからないが、妖精を呼ぶ方法なら知っておる」
ソフィアの幼子らしい
「窓辺の月の光が当たる場所にな、とびきり
「おかし? なんでもいいの?」
「あぁ。甘いお菓子なら、なんでもいい。妖精は甘いものが大好きだから、引き寄せられるんだ。ただ本当に来てくれるかどうかは……これはもう、時の運だなぁ」
ソフィアはその話を信じて、
──そして、翌朝。
「妖精さん、きたあぁ──!!」
なくなっているキャンディーを見て、ネグリジェのまま
それからソフィアは、しょっちゅう窓辺にお菓子を用意するようになった。
彼らは甘いお菓子の中でも、どんなものならより喜んでくれるのだろうと考えて。
キャンディーに始まり、クッキーにマカロン、パウンドケーキ。
思い付く限りの色んなお菓子を用意した。それを何度も続けていると、もっと
ソフィアの家は、主に食料品を
そこそこ
子供だったから、作ったお菓子はとても
翌朝それがなくなる事に、やはり毎回本気で大喜びしたのだ。
(今になって考えると、あれって大人の
十五
そしてふと、窓の向こう側に
「……あぁ。今夜はちょうど満月なのね。月の光がとても明るいわ」
あの頃なら、きっと張り切ってお菓子を準備しただろう。
しかしソフィアはもう、空想上の生き物を信じるような
何年も妖精へのお菓子なんて置いていないし、思い出す事もなかった。
でも今日は、妖精が大好きだった曽祖父の──
だからソフィアは、彼と過ごした時間を思い返してしまう。
「ひいお
ソフィアの頭に、曽祖父の
「っ……」
気付くと目の奥から
でもそれをグッと
「元気に……八十まで生きた。
だから、
「そうだわ。ひいお祖父様とのお別れの日だもの。今晩くらいはお菓子を置いてみようかしら」
ソフィアは数年ぶりに、自室の月光が当たる窓辺に、クッキーの
妖精を信じなくなっても続いた、趣味のお菓子作りで作った。
あの頃と比べれば、形はとても
「
窓辺から頭上にのぼる満月を見上げ、天国に旅立った曽祖父への
曽祖父との思い出に
────翌朝。
「くっきー。ちょーだーい?」
「あまいのすき」
「すきすきぃ! あまいのぉー!」
なんだかとても
「んん……? 誰なの?」
寝ぼけながら体を起こし、ぼやけた視界で声の元を探す。
そうして見つけたものに、ソフィアはエメラルドグリーンの
「ええっと? 何、これ……」
ソフィアの部屋には、なんだか
それらは丸っこくて、シンプルな服を着た十センチもないくらいの人型のものだ。
しかもカタコトながら言葉まで話している。
(羽も生えてる……まるでひいお祖父様が言ってた妖精みたい)
二枚のクッキーを
「あー! こっちー。こっち、もっとあるっぽーい!」
大きく声があがった方を見てみると、部屋の中央にあるテーブルの上に、赤い服を着たのが飛び乗っているところだった。
どうやらテーブルに置いてあったバスケットに、目を付けたらしい。
「えいっ!」
赤い服の子がバスケットの上に
しかし勢いよく引っ張りすぎたようで、コロコロと布を巻き込みながらテーブルの上を転がっていく。転がり続けて、テーブル上から
「いたーい! うわーん!」
しかしいくら泣いても、悲劇的な事故(?)にあって泣いている仲間を気にかける者はいない。他の小さくて変な生き物達は、バスケットの方へと集まりだす。
「おぉぉぉ!」
「うまそー!」
バスケットの中には、ソフィアが作ったプレーンクッキーとチョコチップクッキーが入っている。ちょっとした時に
その中身が見えないくらい、何匹も何匹も何匹も(匹と数えるのかは不明だけれど)バスケットの上に飛び付き、重なり合っていく。
たくさん乗りすぎて、バスケットの上でこんもりと高い山になってしまった。
「どけどけー!」
「おれの、おかしっ」
「あたしのよー」
しばらくの
そうして散らばったものに、彼らは
目当てのクッキーを
欠片を拾って食べ、幸せそうな表情でじたばた
やっと死守した
お菓子を囲む彼らはとても
「ねぇ……ちょっと静かにしてもらっていいかしら」
声をかけてみたが、お菓子に夢中な彼らの耳には届かない。
「これ、おれのー!」
「かえせよ! ばーか!」
「……聞いてちょうだい? それに、君達はなんなの?」
「うわーん! クッキーなーい」
「聞きなさいよ、ねぇ──……って、あぁもう!」
ソフィアは、プッツン! と自分の頭の中の糸が切れる音を聞いた気がした。
「静かに、しなさあぁぁぁいっ!!」
「ふお!?」
「はいっ?」
「っ………!?」
ピタリと動きを止めたそれらが、
意味不明な生き物達に
(お、落ち着くのよ私。相手はなんだかよくわからないけれど、こんなに小さい。しかも聞いている限り、相当な
ソフィアはベッドから下りて、スリッパを
それから、部屋の中をゆっくりと見回してみた。
「
「…………ひえっ!」
「……ほぉっ!?」
「ふぉお!?」
ソフィアの言葉に、彼らは揃って飛び上がった。
揃って同じタイミングでジャンプする光景は、ちょっと
そのあと彼らは
内緒話という単語は頭にないのか、その会話内容はソフィアに
「なんだなんだ! みえるのか!?」
「み、みてる……? ひゃー」
「みえるにんげん! ひさしぶりだな!」
「ふしぎなにんげん!」
大きく身振り手振りをしつつ、彼らは大わらわで会話を交わしている。
混乱もしているのか、ちょろちょろちょろちょろ、身の丈ほどのお菓子をがっしり抱えたまま走り回るのも多い。慌てるあまりにうっかり転げて、
ソフィアは
しゃがみ込んで、床に伏せておいおいと泣いている一
「っ!? ななななな!?」
ソフィアに
「………ねぇ。貴方」
「ぼぼぼぼぼぼっ、ぼく!?」
「そう。貴方の事よ。……というか貴方達は、一体なんなの?」
「ななななな! な! な! なにといわれても!」
「何? 私、さっきからずーっとそれを聞いてるのだけど」
指で摘まんだまま左右に振ってみれば、その生き物は「うわぁー」と悲鳴をあげた。
「早く話しなさいな。貴方達は何? いきなり現れて意味がわからないわ。どうしてこんなところにいるのよ。あと、本当に静かにしてくれない? 朝早くから
「ゆっ、ゆらしゃないで! に……にっ、にんげんはっ」
「うん」
「よーせーって、よびまっ、す」
ソフィアはその小さな生き物を摘まんだまま、グッと眉間に皺を寄せた。
「よーせー……妖精……?」
何度か
(確かに、妖精っぽい見た目だなとは思ってたけど……)
妖精なんて存在しない。子供の頃にだけ夢見た空想のものだ。信じがたい話にソフィアが困っている間に、摘まんでいた子は「とうっ!」と
それからまたお菓子へと飛び込んで行って、他の皆と
「おいしい」
「あまい」
「もぐもぐ」
「……よく食べるわねぇ」
本当に、揃いも揃って
呆れ半分で
目の前に変な生き物がいるこの訳のわからない
改めてまじまじと観察していると、その妖精がこちらに
「しぇふは、だれです?」
「シェフ? ええと……これを作った人の事?」
瞬きをするソフィアの視界に、何匹かの妖精が集まってきた。
「またたべたい!」
「おみせおしえるです!」
「ごうだつにいかねば」
周りを囲む皆が、期待に満ちた顔で言うものだから、ソフィアはなんだか落ち着かない気持ちになった。
つい頬を染めながら、もじもじと指と指を合わせ
「それは、わ……私が、作ったの」
「なんと!」
「まじか!」
「ください! もっとください!」
「……ごめんね。残念だけど、作り置きはもうないの。最近
曽祖父の
今、彼らにたいらげられようとしているバスケットの中の分で、作り置きは最後だった。
「そろそろ傷みが気になりだす頃だったから、こうして食べてもらえて、よかったのかも。有り難うね」
お礼を言ったものの、妖精達の表情は目に見えて
どうやらもうお菓子がないという事を知って、落ち込んでいるようだった。
中にはしくしくと泣きだす子までいる。
(私のお菓子、そんなに気に入ってくれたんだ……? ないと泣くほどに?)
本気でびっくりだ。だってあくまで、
レシピだって本に書いてあるままで、特別な事なんて何もしていないのに。
そこまで夢中になるような物だろうかと首を
「ソフィアお
「オーリー。お、おは……おはよう」
十数匹の妖精が飛び交う不思議
黒い
朝の紅茶の用意を載せたワゴンと共にソフィアの部屋に入ってきたオーリーは、室内を
「なんて事……!!」
「え、ええっと……」
「お嬢様っ! どうしてお菓子が絨毯に転がってるんですか! 食べ物を
「え……お、お菓子? そこなの?」
お菓子より重要な事があるだろう。
「まぁまぁまぁ! あんなにあったお菓子もほとんど
「えーっと……ご、ごめんなさい?」
「……あまり悪いと思ってなさそうなお顔ですね」
「う……」
(だって、私じゃないんだもの)
ソフィアはお菓子を食べ散らかした張本人達を
それでもオーリーが彼らの存在に気付く様子は、まったくない。
(あれ? これ、もしかして……オーリーには見えてないの?)
不思議に思って首を
そして得意げに、胸を張りつつ教えてくれる。
「よーせーは、にんげんにはみえないの」
「じょーしきだぜ?」
(常識じゃないから! 誰も知らないから!)
しかし妖精が見えないのだとしても、宙に浮きながらクッキーをむさぼっている者は、クッキーだけが浮いているように見えるのではないか。そんなソフィアの疑問の表情に気付いたらしく、妖精がまた教えてくれる。
「よのなか、つごーよくできてる」
「……持ってるお菓子は見えないって事?」
お菓子の
「みえてるけどー。にんしきしなーい」
「
「きがつかないの」
「どうして?」
「さぁ?」
右肩の妖精がこてんと首を傾げた直後に、左肩の妖精が言う。
「ぼくらのさわるもの、けはいがうすくなるらしいとか?」
「えぇ? 気配って……なんて都合のいい存在なの」
ソフィアは溜息を吐き、流れ落ちた
オーリーが
彼女の運んで来てくれた紅茶を一口飲んで、頭を
「うん! この自称妖精達の話を、信じられるはずないわ!」
「な、なぜー!」
がーん! と効果音が聞こえそうな反応をされたけれど、もう無視する事にした。
(一々付き合ってられない。それに空想の世界を
他人に見えない訳のわからない生き物が見えるだなんて、自分がおかしくなってしまったのかと、疑っても仕方がない。むしろそっちの線が正しいような気がしてる。
「だからって、お医者様にかかるのもねぇ」
いきなり「妖精が見えるんです!」なんて宣言すれば、きっと家族にたくさん心配をかける事になる。
両親は経営している商会の仕事でいつも忙しい。できれば気を
それに病気という事になれば、ベッドに押し込められてしまうだろう。
(そんなの、想像だけでうんざりする!)
体のどこにも痛いところも苦しいところもないのに、
「はぁ……困った事になったわね」
これから一体どうなってしまうのだろう。思わず溜息をこぼしたソフィアの肩を、問題の原因であるはずの妖精が、ポンと
妖精との出会いから半月が
「ソフィアさんソフィアさん。おかしくださいな」
「くぅださーいなぁー」
(そのうち見えなくなる事を、期待してたのになぁ)
ソフィアの願いはむなしくも
羽の生えた変な生き物達は、今日もソフィアの周りを飛んでいる。妖精達はその小さな頭でも『ソフィア』という人間を覚えたらしく、名前を呼ぶようにもなった。
キッチンの作業台の上で、両手を出して
その姿は、とっても可愛い。こんな可愛い見た目で、可愛い顔で、可愛くおねだりされるから、ソフィアはついつい乗せられてお菓子を作ってしまう。
しかし同時に、可愛さを上回る
「あまいのだせや」
「くれくれ!」
「もー、今作ってる最中なの、見えてるでしょ? 大人しく待ってなさいよ」
「おそい」
「はらへったー。はーやーくぅー」
「待ちなさいってば! 失敗しちゃうから
蜂蜜色の豊かな髪を束ね、お気に入りのフリルたっぷりのエプロンをつけているソフィアは、眉を吊り上げてきつめに言う。しかしもちろん、大人しくなる様子はない。
「きょーのおやつはなんだ? うまいやつか!?」
「パイよ。
ソフィアが答えると、調理台の上にいる妖精達が走りだした。
「パイー!」
「さくさくのやつか!」
「うまうまー!」
妖精達は
(私もパイ大好き。やっと作れる気候になってきたし、楽しみだわ)
パイ生地は冷やさないとサクサクホロホロにならないから、作るのは冬が適している。
夏に氷を用意して作る手もあるにはあるけれど、寒い季節に熱々サクサクのパイを
「なかみはチョコだな!」
「おいももすてがたい」
「はいはい。好きなの作ってあげるから、話し合って一つに絞ってちょうだい」
「なんと」
「はなしあいか」
「かいぎとはざんしん」
走り回っていた足をピタリと止め、円形になって正座での会議が始まった。
「会議はいい案だけど
ソフィアは会議に集中している彼らの首根っこを一匹ずつ
飛べるので、投げようと捨てようと
「あやー」
「きゃー」
「きまった! きまった!」
「あら、何になったの?」
「りんご! シナモンもひっす」
「アップルパイね。
──そんなふうに
ふいに、明るい声に交じって、悲しそうな泣き声がソフィアの耳に
鳴き声を
「しくしく。しくしく」
(なんてわかりやすい泣き方なのかしら)
これは、もしかして
「どうしたの?」
とりあえず、このまま泣き続けられるのも
「しつれんした。ひっく」
「あらまあ。
「ソフィアさんは、ちょいちょいしつれーなにんげん。しくしく」
「だって、お菓子にしか興味がないのかと」
ただひたすらにお菓子をむさぼり食う生き物だと思ってた。お菓子の
しかし今日はどこか
次々に溢れてくる
「しかも。しかも、でんれーやくにつかわれた」
「はい? でんれー? ……伝令?」
泣きながら
両手で
「てがみ、わたせって」
「私に? その、君が
「ちがう、にんげんから」
「人間? どこの誰よ。名前は?」
「さー?」
「『今すぐ菓子を持ってうちに来い』ですって? うちってどこよ」
「つれてく?」
「……これって、私以外に妖精が見える人がいるって事よね?」
妖精が見えるのは病気か
(妖精が見えるこの不可思議な状況について
手紙を見つめてしばし
「案内はいらない。これは見なかった事にしましょう」
「いいの?」
「いいのよ」
ソフィアはツンと
「だって一方的に命令してきてる感じの、この
「しんらつですなぁ」
「差出人はきっと、この文章と同じように上から目線で、
手紙を勢いよく破いてゴミ箱へ入れると、ソフィアは作業台に向き直り、アップルパイ用に出した
「あぁ、早く焼きたて食べたいわー」
少し冷えてからの方が、パイ生地のサクサク感は
熱々の林檎
どうせなら焼きたてと、冷やしたものを二度楽しみたい。
「最低でも、二切れは妖精から守らないと!」
とにかく今日のおやつの時間が楽しみだ。
……そうやって見なかったふりをしたって。結局、妖精がもたらした手紙の主からは、逃げられなかったのだけど。
妖精が出てくるようになって一カ月。ソフィアは妖精達にねだられて、ほぼ毎日お菓子を作っている。今までとは比べ物にならない材料の消費量に、最初は使用人達も首を傾げていた。でもある時、ハウスメイドのオーリーに「作ったものはどちらへ?」と聞かれても答えようがなくて口ごもっていたら、何やらニヤニヤとした
どうやら、こっそりとどこかの
残念ながら、そんな相手は
(オーリーも不思議に思うくらいだから、作ったお菓子が実際に消えているのは
近くに共感してくれる人がいない存在を、自分だけが認めるのは気が進まない。
「お菓子を作らされる以外は支障ないし。まぁ、しばらくはこのままでも……ん?」
自分の部屋のカウチソファにかけて、妖精と一緒にメレンゲクッキーを摘まみつつ
「お、お、お、おじょうさまあぁぁぁ!!!」
バァァン! と凄い勢いで
「オーリー、一体何事? どうしたのよ。大丈夫?」
聞いたソフィアへ、オーリーは
「て、て、てがみが! フィ、フィリップ
ぽろり。とソフィアが落としたメレンゲクッキーは、足元で構えていた妖精にキャッチされた。
「………は? はくしゃくけ?」
目の前に突き付けられた封書を、ソフィアはぽかんと見下ろす。
(フィリップ伯爵家……つまり、お貴族様?)
なんの
おそるおそる受け取った手紙をソフィアが裏返すと、伯爵家の
「どうして伯爵家のご子息様が私にこんなものを? なんの関わりもないのに。
「さぁ……でも、とにかく急ぎでお返事を。お貴族様を待たせるなんて失礼ですから、本日中に届くように手配を
「わ、わかったわ」
ソフィアは
「えっと、何々……?」
読み進めた手紙はとても綺麗な字で、
それらを省略すると、つまり『手作りのお菓子を持ってきてほしい』という事だった。
「……え? お菓子?」
「まぁ。ソフィアお嬢様のお菓子をご
「あー……」
「何か、思い当たる事が?」
「えーと、そうね。うん」
ソフィアは
(お菓子を持ってこいって。この間、妖精伝いに届いたメモの内容と同じだわ)
たった一言だけだったメモと比べれば、ずいぶん丁寧な文章だけど。
よく見れば
用件に、筆跡に、インクの色。これだけ重なれば、妖精にメモを
(えっと、これはつまりルーカス様も妖精が見えるって事よね? でもこの家をどうやって調べたのかしら。そもそも、なぜ私のお菓子をこんなに
ソフィアのお菓子作りは、本当にあくまで個人的な趣味だ。素人の手作りを食べるのは
伯爵家のご子息様というからには、一言お願いすれば国で一・二を争うような菓子職人に、とびきり
なのに、どうしてソフィアの作る菓子を求めるのか。考えれば考える程にルーカスという人の意図がわからなくて、ソフィアは手紙を睨み付けたまま首を傾げた。
一緒にオーリーも首を傾げているから、彼女も不思議に思っているのだろう。
「と、とにかく、伯爵家の方のご所望ですもの。お断りする訳にはいきませんわ。お嬢様、明日にでもお伺いしますとお返事を!」
「……そうよね。お貴族様が相手だものね」
一通目の手紙からしていい印象を持てないが、相手は貴族なのだとわかってしまった。
それでも貴族は、平民の上にある存在だ。目上の人を相手に、ちょっと気に入らないという理由だけで、呼び出しに出向かないのはいけないだろう。
まったく気は進まないけれど、ここは言う事を聞くべきところだ。
「はぁ……仕方がないか。私は返事を書いて、それから持って行くお菓子を作るから。ドレスとかの
「かしこまりました。お任せくださいませ」
こうして、お菓子を持ってこいという命令を聞く為、ソフィアはフィリップ伯爵家を訪ねる事になった。
「わぁ、まさにお
手紙を受け取った翌日、ソフィアは貴族の屋敷が並ぶ王都の一画に立っていた。
目の前にそびえる門の向こう、広い庭のそのまた奥に建つ伯爵
(門構えからして、もう違う世界だわ。き、
平民の
「でももう、ここまで来ちゃったし」
服装にも気を
パーティーでも開かれていない限りは、問題ないだろう。
衣服に乱れがないか
「……よしっ! あの、門番さん。ルーカス様はご在宅でしょうか」
「……ジェイビス様でしょうか」
「はい。ソフィア・ジェイビスと申します」
「伺っております。ようこそおいでくださいました」
門番から、屋敷の
「こちらでルーカス様がお待ちです」
そう言われて開かれた、木製扉の向こう側。
「こんにちは。ソフィアです、失礼します」
一歩部屋に入った先に立っていたのは、まだ十歳にもならないくらいの男の子だった。
「わぁ……」
思わず、ソフィアはエメラルドグリーン色の瞳を大きく見開いた。──こんなに綺麗な子、見た事がない。ふわふわした
柔らかく細められた目元を縁どる長い
(この家の子供かしら。ルーカス様はどこに?)
きょろきょろと周りを見回し始めたソフィアに、男の子は近寄ってきて口を開いた。
「こんにちは、ソフィアおねえさん。
「……え、ええっ!? 貴方がルーカス様!? 本当に?」
「子供だとは思いませんでしたか?」
くすくすと可愛らしく笑うルーカスに、ソフィアは正直に頷いた。
(完全に、大人の人だと思ってた)
だって二度目にソフィアのもとに届いた手紙は、とても丁寧な文字と文章で書かれていて、きちんとした大人の印象を受けたから。一度目に届いた妖精が持ってきたメモの方も、まさかこんなにふんわりとした
驚くソフィアに、ルーカスと名乗った男の子が、
「ソフィアおねえさん」
「は、はい」
真正面からの呼びかけに、ソフィアは
(かわっ、可愛い! とてつもなく可愛い子に、おねえさんって呼ばれちゃった!)
可愛くて、綺麗。しかも容姿だけでなく、とろけるように甘い声とふわふわの笑顔の
あまりの愛らしさにあてられたソフィアは、くらりと
年上のお姉さんはきっと、ソフィアだけでなく皆メロメロになるに違いない。
それくらい、本当に背中に羽が生えていてもおかしくないくらい、『天使』と呼ぶにふさわしい容姿と笑顔だった。
「僕、ソフィアおねえさんとお話ししたくて。わがまま言って、来てもらっちゃって、ごめんなさい」
眉を下げてしゅんと落ち込まれると、こちらがとんでもない罪悪感に
ほっぺを指で
「い、いえ。まったくお気になさらないでください。ルーカス様」
「そう? おねえさん、嫌な気持ちになってないかなぁ?」
「だ、大丈夫! 全然問題ありません!」
「……ふふっ、よかったぁ。あ、どうぞ座って?」
椅子を
「失礼致します。お茶とお菓子をお持ち致しました」
「うん。ありがとう」
「有り難うございます」
その、たった
「さてと」
急に、部屋の温度が下がったふうに
「え? な、何……?」
「
部屋の温度だけでなく、ルーカスの
驚いたソフィアが彼の顔を見ると、先程の印象からがらりと何かが変わってしまったような。どことなく、目が柔らかで無邪気なものから、冷えたキツイものへと変化しているような感じがした。
「出せ」
「え?」
「さっさと持ってきたものを出せと言っている。どれだけ待たされたと思うんだ」
「は?」
「あぁ、さっきはずいぶんと真っ赤になって喜んでいたな? お前みたいな残念な頭と顔をした女に、僕が興味を持つ訳がないのに」
「ルーカス……様?」
「相手が子供だとわかったとたんに、あっさり
「…………」
「ちゃんと僕の言ってる事、聞いてる? 理解できてる? ソフィアおねーサン?」
彼はついさっきまで、天使のように
「に……二重人格?」
「さっきのは余所行き用の顔だ。よく見られる為に
ふうとあからさまな溜息を吐くルーカスに、ソフィアはカッと頭に血をのぼらせた。
「酷い!
「騙された方が悪い。だいたい、あんな純真無垢な子供が今どきいるはずないだろうに」
足を組み替え、片ひじをひじ掛けに乗せた彼は
(なんて生意気な子なの……!)
熱く煮えたぎる頭を、しかしソフィアはグッと顎を引いて必死に
怒鳴ってゲンコツを落とさなかった自分を全力で
(……
自分にそう言い聞かせるが、テーブルの上へバスケットを置く動作には、つい力が籠もってしまう。ドンっと音を鳴らして置いたバスケットを、ルーカスの方へと寄せた。
「はいどーぞ。伯爵ご子息様、ご所望のお菓子ですよっ!」
「……ふむ」
ルーカスが組んだ足を解いて、バスケットに手を伸ばした。
それを彼は手に取って、リボンをほどき、包み紙を
程よい焼き色。味も、昨日一緒に焼いて妖精達にやった分を一口食べたけど、問題なかった。一晩置いたから食感もしっとりして、よりいい感じになっているはずだ。
ルーカスは包み紙を
そして視線を、ゆっくりと後ろへと投げた。
「リリー。例のものだ」
(うん? 誰に話し掛けてるの?)
ソフィアが不思議に思って首を傾げた、その
「──あら。ルーカスったら、本当に手に入れてくれたのね。例のもの」
背もたれの後ろにいたらしい手のひらサイズの生き物が、ひょこっと顔を出した。
スラリと長い
長い
「え!?」
ソフィアは瞳を、大きく見開いた。
その、人ならざる小さな生き物は、ルーカスと何やら会話が成立している。自分だけでなく彼にも見えて、声も聞こえているようだ。
「よう、せい?」
ソフィアの唇から、
でもソフィアが驚いたのは、『妖精』が出てきた事ではなく。妖精は自分の中だけの妄想でなかったのだと、ついに証明されてしまった事でもなく。
(う、うちのと違う……! この子、ボンキュッボンだわ!)
知っている妖精達と、まったく姿が違った事にあった。
ソフィアの家にいるのはコロコロ丸々した、マスコット的な、二、三頭身の子達だ。背中の羽なんて小さすぎて、なぜソレで飛べるのだと突っ込みたいほど。
なのに今目の前に現れたばかりの妖精は、サイズが小さいだけで、普通に大人体型だったのだ。更に言えば形のいい胸にくびれた腰つきの、まさに大人の色気をたたえた美女だった。
宝石みたいに美しい切れ長のアイスブルーの瞳の脇には、ホクロが一つある。
しかもソフィアの家にいる妖精達は質素なワンピースかズボンなのに、この子はとても
背中に生えた羽は白色かと一瞬思ったけれど、光の具合によって様々な色に見える、とても不思議で美しい羽だ。その美しい妖精は、ソフィアの目の前まで飛んできた。
彼女は
「ふんっ! 間抜けな顔をした人間だこと! 貴女があのお菓子を作っただなんて、とても信じられない!」
「しゃ、しゃべった!」
「
「喋るだろ……」
妖精がツンとそっぽを向き、ルーカスが呆れたふうに言う。
馬鹿にしているような彼らの言葉に、ソフィアはつい反論した。
「うちにいる子達と違いすぎて。同じ妖精だなんて信じられないんです!」
「それって下級の妖精の事ね? あんなのと一緒にしないで! 失礼ね!」
「そうだな。失礼な
「だって私、妖精って総じてお馬鹿でお間抜けなものだと思ってたんです。こんな知的で綺麗な感じの妖精がいきなり出てきたら驚きますよ」
「あら……知的で綺麗ですって?」
「妖精を見る目は悪くないようだな」
「え。はい……どうも…………」
褒めたとたんに二人共、鼻高々といった感じになった。
「とにかく、早くお菓子お菓子! ルーカス!」
「あぁ、すぐに」
リリーがルーカスの手元に飛んで行くと、ルーカスは一口サイズに千切っていたパウンドケーキを手渡した。両手でパウンドケーキを持ったリリーは、机の上に置いたバスケットの手すりの部分に腰掛けた。
座り方もきちんと足を揃えていて、一つ一つの仕草がとても優雅だ。
(この上品さ、うちにいる下級らしい妖精にも見習ってほしいわ)
ソフィアとルーカスの見守る中、両手で抱えたパウンドケーキを口に
見ていると、ゆっくりと
(あ、気に入ってもらえた?)
リリーは止まる事なく、二口目、三口目と食べ進んでいく。リリーの手の中にあった分がなくなると、タイミングを計ってルーカスがもう一欠片渡した。
「リリー、気に入ったか?」
「そうね……いいと思うわ」
そっけない返事ながらも、リリーはまだ食べ続けている。美女のほっぺにお菓子の欠片がくっついている図は、ちょっと可愛い。
そんなリリーを見ながら、ルーカスは幸せそうにしている。
ソフィアに対する偉そうな態度とは違って、とろけるような天使の表情。
少し彼らの会話を聞いただけだが、どうやらルーカスはリリーに首ったけのようだ。
「このお菓子、予想した通りだわ」
「ではやはり、この娘の作る菓子は他とは違うのか……」
「えぇ、間違いなくってよ。この子の作るものは、とっても変わってる」
「なるほど……」
もう一欠片パウンドケーキを受け渡しながらの二人の会話に、ソフィアは首を傾げた。
(ごくごく普通のパウンドケーキなはずなんだけど)
疑問を持ちつつも、ソフィアは口を開く。
ケーキよりも、もっと気になる事があるのだ。
「あの。ルーカス様も、やっぱり妖精が見えるんですよね」
『妖精』というものが見える人は、今のところルーカスしか知らない。突然視界に現れるようになった、この訳のわからない生き物について、教えてほしいと思ったのだ。
「当たり前だ。リリーと今話してるだろう」
「……いつから見えるようになったんですか?」
「いつ? そうだな……六年前くらいか」
「そんなに前から!? あの、これって、何がきっかけで見えるようになるものなのですか!?」
「お前、瞳について何も知らないのか」
「瞳?」
「妖精が見える瞳は、祝福を受けた瞳。──『祝福の瞳』と、妖精が見える者の中では言われている」
「え!? 妖精が見える人って、私達の他にもいるんですか!?」
「貴族にはたまにな。平民ではほぼ存在しないくらい珍しい」
「知らなかったです……」
「と言っても、貴族の中でも本当に
とにかく妖精を見える人が他にもいると聞いて、ソフィアは
自分だけが特別におかしい訳ではなかった。
「……『祝福の瞳』かぁ」
(祝福どころか、お菓子の
今のところ、その
「でも、どうして突然見えるようになるのですか? 私、一カ月くらい前に突然見えるようになったんです」
「瞳は、
ちょうどルーカスから新しいパウンドケーキの欠片をもらう為に両手を伸ばしていたリリーが、教えてくれた。ソフィアは頬にケーキの欠片を付けた彼女に視線を向ける。
「受け継がれるって、どういう事?」
「前の宿主が死ねば、次の宿主へと力は受け継がれる。生前に親しくしていた、波長の合う人にね。ソフィアも最近、近しい人が亡くなったのではなくって?」
「ちかしい、ひと」
最近亡くなった近しい人なんて、一人しかいない。
それは間違いなく──曽祖父の事。彼の葬儀を終えた翌朝から、ソフィアの目に映る景色は、妖精が飛び交うファンタジックでにぎにぎしいものへと一変した。
「えっと……それは、つまり。私のひいお祖父様が、今の私と同じように妖精を見る事ができたという事? ひいお祖父様が亡くなったから、私に力が移ったの?」
「あぁ、前の『祝福の瞳』の持ち主はひいお祖父様なのね。そう。きっとソフィアはその人から、力を受け継いだのよ」
「そんな……。ひいお祖父様に限ってまさか、妖精なんて非現実的なもの……」
「疑うの? それだけはっきり妖精を見られるのに」
「う、疑ってはないわ……もう……妖精の存在は疑えない」
むしろ自分の頭がおかしくなった訳ではないのだという確証を得た事に、心底安堵している。曽祖父が妖精を見る事ができたというのも、彼のまるで見てきたかのように上手に話す妖精の物語を思い出すと、納得できるような気がしてきた。
(ひいお祖父様、ただの作り話ではなかったのね。本当に妖精が見えていて、だからよく話して聞かせてくれてたんだ)
本当はここにいるんだよ、とまでは教えてくれなかったが、ソフィアは曽祖父の妖精の話が大好きだった。
「……」
ソフィアはちらりと、大人しく座ってソフィア達の話を聞いている男の子を見た。彼はこの『祝福の瞳』という力を受け継いでから六年間も、ずっとこの妖精の飛び交う景色を見て生きてきたらしい。
目が合うと、ルーカスは青い瞳を細めて話を始めた。
「……それでだ。どうやらお前の力は、意外な事に『祝福の瞳』だけではないらしい」
「どういう事でしょう?」
「妖精の好む菓子を作る事のできる、特別な『手』を持っているようだ」
「はぁ?」
何を言っているのだこの人は。特別な、手?
「以前まで、菓子が突然消えるような事はなかったか?」
「え? 窓辺に妖精寄せのおまじないとして置いてたお菓子以外は、消えた事はなかったと思いますけど」
「お前の曽祖父に、菓子を作る趣味は?」
「ないはずです」
「だったら菓子を作る能力は受け継がれたものではないという事だ。──タイミング的に、おそらく瞳の力が受け継がれて見えるようになった事に引っ張られて、元々持っていたけれど発動していなかった自身の手の力が出てきたという感じだろう。妖精は甘いものは好きだが、それでも
「なるほど……消えてたとしてもそれくらいなら、確かに気にしなかったかも」
つまり普通は妖精が来たとしても、クッキー一枚が消える程度らしい。
窓辺に置いていたおまじないのお菓子もそれくらいだった。
「だが力が目覚めてからは違う。妖精にとってお前の作った菓子は、
「あぁ……本当に作っただけ全部持って行こうとしますね。
最初に妖精が群がって食べたのは曽祖父が亡くなる前に作ったものだけれど。
それでもソフィアが作ったというだけで力が宿り、妖精達は引き寄せられたのだろうか。
「ところで、どうしてルーカス様は私のお菓子についてこんなに詳しいのですか?」
家族と屋敷の使用人、後は近しい友達と妖精にしかお菓子を渡してなかった。一体どこでソフィアのお菓子を知って──それも力のある菓子だとわかったのか。
「あぁ、リリーは美しいからな。余所の妖精が
「つまり、うちにいた失恋したって泣いてた妖精の
どうやら恋する相手への貢ぎ物としてソフィアの作ったお菓子が
あのコロコロしたお間抜けな妖精が、この頭のいい美女を射止められるとは思えないのだが。
(贈り物なら、言ってくれればラッピングくらいしてあげたのに)
とにかく献上されたお菓子を食べたリリーが、作り手のソフィアの力に気付いて、貢いだ下級妖精から聞き出した情報を使って家まで調べて、ルーカスの名で呼び寄せたという事か。
「なるほど、
力について知れたのは助かった。他に妖精が見える人がいる事に安心もした。
でも、それを教えようという親切心で呼んだとは思えない。
首を傾げたソフィアに、ルーカスは答えをくれる。
「ソフィア。お前の作る菓子だけは
「だけって……」
「リリーが人間の食べ物にこんなに喜んだのは、初めてなんだ。本当に、菓子だけはいい。毎日でもリリーに
「まただけって言った!」
ソフィアの
(くっ……演技だってわかってるのに。わかってるのに! 可愛いって
ルーカスは更に合わせた手を頬の横に寄せて、小首を傾げるという可愛いポーズまで付けてきた。そのキラキラな笑顔のとても可愛い天使君は、更に上目遣いで、やけに高い声でソフィアに言うのだ。
「だからソフィアおねえさんには、僕の妖精の専属
「はい? 妖精の、専属菓子職人……?」
ルーカスの訳のわからない申し出に、ソフィアはエメラルドグリーンの瞳を瞬いた。
「えっと、それはつまり、リリーの食べるお菓子を作る職人として、
平民とは言っても、ソフィアは王都で一番賑わう大通りに本店を構える、そこそこの規模の商家の娘だ。
でもさすがに、菓子職人として働きに出るのはありえない立場だった。
(まぁ、うちの親は私が本気で菓子職人になりたいって言ったら、
でも、ソフィア本人が嫌だった。だって本気で菓子職人として生きていくつもりなんて、今のところないのだ。菓子作りは好きだけど、そこまでの情熱を傾けてはいない。
好きな時に好きなように、好きなものを作りたい。
雇い主の意向に沿って作るなんて、きっと楽しくないだろうし。
「就職の
「いや、別にうちで働けなんて言ってはないぞ」
「だってさっき菓子職人にって」
「言い方がおかしかったか……職人として雇うという事は、何かあれば
「はぁ……? ええと、もう少しわかりやすく説明してください」
「だから、僕はリリーが毎日お菓子を美味しそうに食べて、毎日幸せそうにしている顔を見たいんだ。一生、ずっと、毎日だ!」
毎日リリーが幸せそうにしている姿を想像しているのか、ルーカスは
しかしすぐに
「それを実現する為には、一生僕から離れずにここにいる立場になってもらわないといけない。つまり、ソフィアに僕の妻になれと言ってるんだ」
「はい?」
「表向きには僕の為に手ずから菓子を焼いてくれる優しい妻という事で。そして実際は毎日、リリーの専属菓子職人として働け。そうすればリリーは、毎日ソフィアのお菓子を食べられる訳だ。これは素晴らしい名案だろう?」
自信満々というふうに、ルーカスは胸を張る。
「リリー、そんなふうに毎日美味しい菓子が食べられたら嬉しいだろう?」
「まぁそうね」
「だろ? やっぱりな。だから、ね? ──ソフィアおねえさん。大切なリリーの為に、僕の奥さんになってよ」
最後だけ、可愛い天使の笑顔で、
(頭痛がしてきたわ……)
妖精に夢中になるあまり、まったく周りが見えていないお子様に心底呆れた。
彼の提案は、馬鹿馬鹿しすぎる。
(
十五歳のソフィアにとって、自分の胸程の身長しかない、幼い男の子なんてまったく恋愛対象外だ。あと数年すれば成長期に入って変わるだろうが、現状で今目の前の子供を
そもそも身分の違う娘を、お菓子の為だけに
なのにそんな
(うん、とっても子供らしい意味不明な
ソフィアは背筋を正して、口を開いた。
「あのですね、ルーカス様。私はそんなのお断りです。妖精のリリーの喜ぶお菓子を一生与え続けてやりたいという理由だけでの結婚だなんて、馬鹿げてます。ありえないです。そもそも私は、
ソフィアの両親は恋愛結婚。三人兄弟で兄と姉がいるけれど、その二人も恋愛結婚だった。ソフィアも愛する人のもとに
自分の意思で素敵な異性との未来を掴むのだと、心に決めているのだ。
「私は、
ソフィアの反論に、ルーカスは馬鹿にするかのように「はっ」と鼻を鳴らした。
「お前の意見はどうでもいい」
平民の意見なんて、聞く価値もないという事だろうか。
腹が立つあまりに額に青筋を立てたソフィアは、きつい口調でまくし立ててやる。
「だいたい、ルーカス様にこれから好きな人ができたらどうするんです! 妖精の為に私を連れてたら、その人との恋ができませんよ!」
「恋? 馬鹿らしい。僕は恋なんて一生する予定ないから。政略結婚の話がきても頷くつもりはないしな」
「はあぁぁぁ!?」
幼い子供が口にする『一生恋しない』という言葉に、ソフィアはまったく重みを感じられなかった。明日気が変わって誰かを好きになっていても不思議じゃないくらい、彼の言葉は信じられない。政略結婚の話がきても断ると言うが、簡単に断れないのが政略結婚だと、理解していないのか。
(一体、どう言ったら
我儘な貴族のお子様相手に、これ以上どう対応すればいいのかわからなくて
──その時、
「ルーカス、客人がいらしてるのかい? 私も挨拶しようか」
低い大人の男性の声に、ソフィアは扉の方を振り返る。
「ルーカス? そちらのお嬢さんは、どなただい?」
そう言って顔を出したのは、二十歳前後の男性だった。
長身で
(誰かしら? ルーカス様を呼び捨てにしているところから、ご家族?)
ソフィアは挨拶をしようとソファから立ち上がった。しかしソフィアが口を開くよりも前にルーカスが動きだして、声を発するタイミングを失ってしまう。
「エリオット兄さん! 僕の
容姿は似ていないけれど、どうやら兄弟らしい。
それにしても気になるのは、ルーカスが突然天使バージョンになった事だ。
(もしかして、お兄さんに対してもこの演技なの? え、っていうか、婚約者って何!!)
「ルーカス様! 何言ってるんですか!」
「彼女が、僕の
「待って! ストップ!」
ソフィアの制止なんて意味はなく。ルーカスは椅子から可愛くジャンプして下りて、兄のエリオットのもとに
「ふふっ」
更に上目遣いで相手を見上げる姿は、
「……ルーカス、今なんて? 婚約? 恋人?」
「そうだよ! 彼女はソフィアさんっていうんだ。僕、彼女と結婚したいんだ!」
「突然何を言い出すんだ」
「だって兄さん。僕、ソフィアさんの事が好きなんだ。ずっと一緒にいたいんだよ」
当たり前だが、エリオットは眉を下げて困ったような顔をしている。いきなり幼い弟に恋人を紹介されて、しかも結婚したいとまで言われたのだ。驚くに決まっている。
「いいでしょー?」
「ええと、だな…………待て……待て待てルーカス。ちょっと落ち着いて話を、」
「兄さんの方が落ち着いて? ──でね。できれば今年中には結婚しちゃいたいなぁと思ってるんだ」
「いやいやいや、あのな? ルーカス、いいか。長男の私より先にお前が妻をもらうというのはだな……その、外聞的にも色々と問題がだな? そもそも十歳は早過ぎるしな?」
「でも兄さん。僕はソフィアさんがいいんだ。早く彼女と結婚したいんだよっ!」
無邪気な子供らしく、少し頬を
でもソフィアは、その無邪気な様子に寒気がした。
(なんという演技派。笑顔だけじゃなく
容姿が可愛いから、無邪気な子供の演技がとても
知らなければ確実に騙されるレベルの演技力だ。エリオットは落ち着かせる為か弟の肩を軽く叩きつつ、ソフィアを振り返った。
「──ええっと、ソフィアさん……だっけ」
「は、はい。ソフィア・ジェイビスと申します。初めまして」
やっと挨拶するタイミングがきた。ソフィアはドレスの裾を摘まんで少し腰を落とす。
その様子を見たエリオットは、しばし考えるような仕草をしたあと、思い付いたように「あぁ」と声を漏らした。
「ジェイビスって、もしかしてジェイビス商会の子かな。大通りにある食料品系の商会の」
「はい、そうです。それは父が経営している商会です」
「そうか。
ルーカスの「ソフィアを
「この子は、見た目通りふわふわっとしていてね、あまり物にも人にも
素の彼に、ふわふわしたところなんて
(それにしても。どうしてお兄さんなんて、一番近しい人に対しても
エリオットがルーカスの今の態度を不思議に思っている様子はなかった。
つまり相当昔からルーカスは、この天使の仮面を付けている事になる。
(こんな小さい子の相当昔って、いつ……? あ、もしかして私に見せていた意地悪な性格の方が、演技だったりするのかしら。あぁ、もう訳がわからない!)
混乱して、もうどう反応すれば正しいのかわからなくなったソフィアは、とりあえずその場しのぎで
「あはははー。そうなんですね」
「……。そんなルーカスが、どうして君に興味を持ったのか。それも色々すっ飛ばしていきなり結婚だなんて……気になるね」
そこで細められた、
(あぁ、そうよね。私が騙してる側だと疑われても仕方ないわ)
ルーカスは貴族の子だ。きっと
彼は弟の事を心配している。
だから口調こそ柔らかく対応しつつも、少しきつい
ソフィアがルーカスの発言に困っていたのも、浅ましい演技だと思われたのかもしれない。
(弟想いの、いいお兄さんなのね。弟はこんなだけど)
とりあえず、ソフィアはおそるおそる口を開いた。
「……あの、エリオット様は、妖精って信じます?」
「は?」
「すみません。なんでもありません」
ルーカスが自分に興味を持った理由を話してみようかと思ったけれど、信じてもらえそうにないと察して首を振った。どうやら彼は『祝福の瞳』を知らないらしい。
「変な事を聞いてすみません」
「いや。──なんとなく、ルーカスとの共通点がわかったような気がしたよ」
「共通点ですか?」
「この子もね、一時期……私の祖母が亡くなってすぐの頃から、妖精がどうのとか」
「私の……?」
私達の、ではなく私の、とエリオットは言った。瞳を瞬くソフィアに、彼は苦笑する。
「あぁ。私の母親は十二年前に亡くなっている。父上が迎え入れた後妻が、十年前にルーカスを産んだんだ。だから私の母方の祖母とこの子は、血が
「は、はぁ」
つまり、兄のエリオットはこの伯爵家の当主の前妻の子。弟のルーカスは今の妻の子。
腹違いの兄弟という事なのだろう。そして時期からして、ルーカスはエリオットの母方の祖母から力を受け継いだという事か。
(そんな複雑な家庭
困ったようなソフィアの反応に気が付いたのだろう。エリオットが苦笑する。
「貴族社会では有名な話だよ。
その仲のいい兄を相手に、ルーカスがどうして演技しているのかという疑問はあるけれど。
つらい家庭環境ではないという事に安堵し、ソフィアはほっと息を吐いた。
(ルーカス様って十歳なんだ。それにしては小柄ね。もう少し下かと思ってたわ)
そんな事をぼんやりと考えていたソフィアを余所に、ルーカスは無邪気な笑顔を兄へと向けていた。
「ねえエリオット兄さん。ソフィアさんはいい子でしょ? 結婚してもいいでしょ?」
「いやいや。いきなり結婚だなんて認められる訳ないだろう。ええと、そう……お友達だ。お友達になりなさい。見た感じでは、まだあまり親しい訳でもないんだろう。友達になってお互いに色々知って、それでルーカスがもっと成長した時にもまだ好きなら、その時には、私からも父上に
「えー」
「これ以上は
(まぁ、当然の判断だわ)
ルーカスが成長して結婚を考えるような年齢になった時、ソフィアはもうとっくに結婚していなければならない年齢になっている。
よほど嫁ぎ
要はエリオットは時間を置いて、ルーカスにソフィアとの結婚を諦めさせようとしているのだろう。どうせ子供の一時の我儘だから、そのうち
「友達かぁー」
口元に人差し指をあてた可愛いポーズで「うーん」と考え込んでいたルーカスは、パッと顔をあげる。キラキラな笑顔を急に向けられて、凄く
「ま、今はそれでもいっか。ソフィアさんがうちに来てくれるなら!」
「えー……」
「ふふっ」
ルーカスがエリオットから離れてソフィアの方に走ってきた。
そして今度はソフィアの腕に腕を絡ませる。
なんの
「っ……!」
服
それでも
「ソフィアさん、絶対にまた遊びに来てね。お菓子を持って!」
「──はい……」
「明日ね! というか、毎日ね!」
「それはちょっと……」
「……」
「すみません。本当にちょっとそれは……」
「はぁ──。……じゃあ、すっごく
「あと、今は友達で我慢してやるが、お前を娶るのを、僕は諦めないからな」
強い、本気の声色にぞわりと背筋から
妖精専属菓子職人(パティシエール) おきょう/ビーズログ文庫 @bslog
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