第一章

 ソフィアのそうは、男でありながらずいぶんと少女しゆな人だった。

 なぜならようせいなんていう、空想上の生き物が大好きだったのだ。

 それにえいきようされたソフィアも妖精に興味を持つようになり、子供のころは会うたびにねだって、物語を聞かせてもらっていた。

「ひいおじい様! ねぇねぇ、妖精さんに会うにはどうしたらいいの?」

「おや。ソフィアは妖精に会いたいのか?」

「もちろんよ! でも妖精さんだけじゃないわ! りゆうにも、ほう使つかいにもよ!」

「ははっ、ぜいたくだなぁ。だがかれらはとてもめずらしいからな、なかなか難しいぞ?」

「えー。会えないの?」

「いいや。竜や魔法使いはわからないが、妖精を呼ぶ方法なら知っておる」

 ソフィアの幼子らしいやわらかなほおを、深いしわの刻まれた大きな両手でやさしく包み、顔をのぞんでくる曽祖父。彼はそっと、ないしよばなしをするかのように、茶目っ気を覗かせた顔でソフィアの耳元に口を寄せてささやくのだった。

「窓辺の月の光が当たる場所にな、とびきりあまいおを置いておくんだ」

「おかし? なんでもいいの?」

「あぁ。甘いお菓子なら、なんでもいい。妖精は甘いものが大好きだから、引き寄せられるんだ。ただ本当に来てくれるかどうかは……これはもう、時の運だなぁ」

 ソフィアはその話を信じて、さつそくその日の晩に窓辺にキャンディーを用意した。

 ──そして、翌朝。

「妖精さん、きたあぁ──!!」

 なくなっているキャンディーを見て、ネグリジェのままかんせいをあげ飛び上がった。


 それからソフィアは、しょっちゅう窓辺にお菓子を用意するようになった。

 彼らは甘いお菓子の中でも、どんなものならより喜んでくれるのだろうと考えて。

 キャンディーに始まり、クッキーにマカロン、パウンドケーキ。

 思い付く限りの色んなお菓子を用意した。それを何度も続けていると、もっとふうしたくなって、やがて自分の手でお菓子を作るようになった。

 ソフィアの家は、主に食料品をあつかう商会を経営している。

 そこそこゆうふくなので、お菓子の材料は好きなように買ってもらえた。

 子供だったから、作ったお菓子はとてもいびつな出来だったけれど。

 翌朝それがなくなる事に、やはり毎回本気で大喜びしたのだ。


(今になって考えると、あれって大人のだれかが気をかせて、私がてる間にお菓子を回収してくれたのよね)

 十五さいになったソフィアは、子供の頃を思い出して息をいた。

 そしてふと、窓の向こう側にかぶものに気が付いた。

「……あぁ。今夜はちょうど満月なのね。月の光がとても明るいわ」

 あの頃なら、きっと張り切ってお菓子を準備しただろう。

 しかしソフィアはもう、空想上の生き物を信じるようなねんれいはとっくに過ぎている。

 何年も妖精へのお菓子なんて置いていないし、思い出す事もなかった。

 でも今日は、妖精が大好きだった曽祖父の──そうが、あったから。

 だからソフィアは、彼と過ごした時間を思い返してしまう。

「ひいお様、作ったお菓子を持って行くと、いつもすごく喜んでくれたわ」

 ソフィアの頭に、曽祖父のがおが浮かぶ。……大好きな人だった。ってしまったしらせを受けてから、ずっとずっと胸のおくが重くて、苦しくて、ジクジクいたみ続けている。

「っ……」

 気付くと目の奥からなみだにじんで、あふれてしまいそうになっていた。

 でもそれをグッとんで、ソフィアは顔をあげる。

「元気に……八十まで生きた。さいも苦しまずに逝った。たくさんの人が見送りに来てくれた。とても愛されてた……うん。ひいお祖父様は、幸せだったわ」

 だから、だいじよう。悲しいばかりの別れじゃない。と、そう自分に言い聞かせる。

「そうだわ。ひいお祖父様とのお別れの日だもの。今晩くらいはお菓子を置いてみようかしら」

 ソフィアは数年ぶりに、自室の月光が当たる窓辺に、クッキーのった皿を置く。

 妖精を信じなくなっても続いた、趣味のお菓子作りで作った。

 あの頃と比べれば、形はとてもれいだし焼き加減もばつぐんのものだ。

がとうございました、ひいお祖父様。どうか安らかに……」

 窓辺から頭上にのぼる満月を見上げ、天国に旅立った曽祖父へのいのりをつぶやいたあと。

 曽祖父との思い出にひたりながら、ソフィアはゆっくりとねむりについたのだった。


 ────翌朝。

「くっきー。ちょーだーい?」

「あまいのすき」

「すきすきぃ! あまいのぉー!」

 なんだかとてもうるさくて、ソフィアはだんよりずっと早い時間に目を覚ましてしまった。

「んん……? 誰なの?」

 寝ぼけながら体を起こし、ぼやけた視界で声の元を探す。

 そうして見つけたものに、ソフィアはエメラルドグリーンのひとみすがめた。

「ええっと? 何、これ……」

 ソフィアの部屋には、なんだか可愛かわいらしい生き物が十以上もっていた。

 それらは丸っこくて、シンプルな服を着た十センチもないくらいの人型のものだ。

 しかもカタコトながら言葉まで話している。

(羽も生えてる……まるでひいお祖父様が言ってた妖精みたい)

 こんわくするソフィアの視線の先で、彼らは昨夜置いた窓辺のクッキーに群がっていた。

 二枚のクッキーをくだいて、欠片かけらをそれぞれがかかえて夢中で食べているようだ。

「あー! こっちー。こっち、もっとあるっぽーい!」

 大きく声があがった方を見てみると、部屋の中央にあるテーブルの上に、赤い服を着たのが飛び乗っているところだった。

 どうやらテーブルに置いてあったバスケットに、目を付けたらしい。

「えいっ!」

 赤い服の子がバスケットの上にかぶせていた布を引っ張った。

 しかし勢いよく引っ張りすぎたようで、コロコロと布を巻き込みながらテーブルの上を転がっていく。転がり続けて、テーブル上からじゆうたんの上へと落ちた。

 さらに大きくバウンドして、またコロコロ転がって、かべにぶつかって、やっと止まった。

「いたーい! うわーん!」

 しかしいくら泣いても、悲劇的な事故(?)にあって泣いている仲間を気にかける者はいない。他の小さくて変な生き物達は、バスケットの方へと集まりだす。

「おぉぉぉ!」

「うまそー!」

 バスケットの中には、ソフィアが作ったプレーンクッキーとチョコチップクッキーが入っている。ちょっとした時にまむように、部屋にはいつもお菓子を置いているのだ。

 その中身が見えないくらい、何匹も何匹も何匹も(匹と数えるのかは不明だけれど)バスケットの上に飛び付き、重なり合っていく。

 たくさん乗りすぎて、バスケットの上でこんもりと高い山になってしまった。

「どけどけー!」

「おれの、おかしっ」

「あたしのよー」

 しばらくのこうぼうの末。積み重なった彼らの重さにえ切れなくなったバスケットが、かたむいていって……。「あっ」と思った直後には、小さな生き物達も中身のクッキーも、周囲へと投げ出されてしまった。

 そうして散らばったものに、彼らはりる事なくまたわらわらと群がりだす。

 目当てのクッキーをうばい、らんとうするもの。

 欠片を拾って食べ、幸せそうな表情でじたばたもんぜつするもの。

 やっと死守したたけほどの大きさのものを抱え込んで、周囲をかくするもの。

 お菓子を囲む彼らはとてもさわがしくて、煩くて、だんだんソフィアの目もえてきた。

「ねぇ……ちょっと静かにしてもらっていいかしら」

 声をかけてみたが、お菓子に夢中な彼らの耳には届かない。

「これ、おれのー!」

「かえせよ! ばーか!」

「……聞いてちょうだい? それに、君達はなんなの?」

「うわーん! クッキーなーい」

「聞きなさいよ、ねぇ──……って、あぁもう!」

 ソフィアは、プッツン! と自分の頭の中の糸が切れる音を聞いた気がした。

「静かに、しなさあぁぁぁいっ!!」

「ふお!?」

「はいっ?」

「っ………!?」

 ピタリと動きを止めたそれらが、いつせいにソフィアへといてくる。

 意味不明な生き物達にそろって注目されて、ソフィアは少したじろいだ。

(お、落ち着くのよ私。相手はなんだかよくわからないけれど、こんなに小さい。しかも聞いている限り、相当な鹿っぽいし。負けるはずがないわ……!)

 ソフィアはベッドから下りて、スリッパをき、立ち上がる。

 それから、部屋の中をゆっくりと見回してみた。られた事におどろいたのか、彼らはビクビクしながらこちらの様子をうかがっている。それでもみんな、持っているお菓子はきつくめたままだった。これだけははなさないという、たいへん強い意思を感じた。

貴方あなた達は、一体なんなのかしら?」

「…………ひえっ!」

「……ほぉっ!?」

「ふぉお!?」

 ソフィアの言葉に、彼らは揃って飛び上がった。

 揃って同じタイミングでジャンプする光景は、ちょっとおもしろい。

 そのあと彼らはたがいに顔を合わせて、ひどあわてた様子で会話し始める。

 内緒話という単語は頭にないのか、その会話内容はソフィアにつつけであった。

「なんだなんだ! みえるのか!?」

「み、みてる……? ひゃー」

「みえるにんげん! ひさしぶりだな!」

「ふしぎなにんげん!」

 大きく身振り手振りをしつつ、彼らは大わらわで会話を交わしている。

 混乱もしているのか、ちょろちょろちょろちょろ、身の丈ほどのお菓子をがっしり抱えたまま走り回るのも多い。慌てるあまりにうっかり転げて、しようげきで手の中のクッキーが粉々に砕けてしまい、ゆかせて大泣きしているものもいる。大混乱だ。

 ソフィアはけんを指でさえてのうしたあと、大きくためいきいて彼らへと近付いた。

 しゃがみ込んで、床に伏せておいおいと泣いている一ぴきまみげ、自分の目の高さまで持ち上げる。

「っ!? ななななな!?」

 ソフィアにつかまったその生き物は、あわあわと手足を振り回している。

「………ねぇ。貴方」

「ぼぼぼぼぼぼっ、ぼく!?」

「そう。貴方の事よ。……というか貴方達は、一体なんなの?」

「ななななな! な! な! なにといわれても!」

「何? 私、さっきからずーっとそれを聞いてるのだけど」

 指で摘まんだまま左右に振ってみれば、その生き物は「うわぁー」と悲鳴をあげた。

「早く話しなさいな。貴方達は何? いきなり現れて意味がわからないわ。どうしてこんなところにいるのよ。あと、本当に静かにしてくれない? 朝早くからめいわくだわ」

「ゆっ、ゆらしゃないで! に……にっ、にんげんはっ」

「うん」

「よーせーって、よびまっ、す」

 ソフィアはその小さな生き物を摘まんだまま、グッと眉間に皺を寄せた。

「よーせー……妖精……?」

 何度かまばたきをかえし、その言葉の意味を頭の中ではんすうした。

(確かに、妖精っぽい見た目だなとは思ってたけど……)

 妖精なんて存在しない。子供の頃にだけ夢見た空想のものだ。信じがたい話にソフィアが困っている間に、摘まんでいた子は「とうっ!」とこんしんの力をしぼってげて行った。

 それからまたお菓子へと飛び込んで行って、他の皆といつしよに食べ始める。

「おいしい」

「あまい」

「もぐもぐ」

「……よく食べるわねぇ」

 本当に、揃いも揃ってあきれるくらいの食べっぷりだ。

 呆れ半分でながめつつ、ネグリジェのままのソフィアはとりあえずすわる。

 目の前に変な生き物がいるこの訳のわからないじようきように「うーん」とほおづえをついてうなっていると、わきひじきの上でチョコチップクッキーをむさぼっている一匹がいた。

 改めてまじまじと観察していると、その妖精がこちらにはなけてきた。

「しぇふは、だれです?」

「シェフ? ええと……これを作った人の事?」

 瞬きをするソフィアの視界に、何匹かの妖精が集まってきた。

「またたべたい!」

「おみせおしえるです!」

「ごうだつにいかねば」

 周りを囲む皆が、期待に満ちた顔で言うものだから、ソフィアはなんだか落ち着かない気持ちになった。

 つい頬を染めながら、もじもじと指と指を合わせいじりつつ小さく声をらす。

「それは、わ……私が、作ったの」

「なんと!」

「まじか!」

「ください! もっとください!」

「……ごめんね。残念だけど、作り置きはもうないの。最近いそがしかったから」

 曽祖父のきゆうせいと葬儀などがあった事で、ここ五日ほどお菓子は作れていない。

 今、彼らにたいらげられようとしているバスケットの中の分で、作り置きは最後だった。

「そろそろ傷みが気になりだす頃だったから、こうして食べてもらえて、よかったのかも。有り難うね」

 お礼を言ったものの、妖精達の表情は目に見えてしずんでいく。

 どうやらもうお菓子がないという事を知って、落ち込んでいるようだった。

 中にはしくしくと泣きだす子までいる。

(私のお菓子、そんなに気に入ってくれたんだ……? ないと泣くほどに?)

 本気でびっくりだ。だってあくまで、素人しろうとが趣味で作っているものだから。

 レシピだって本に書いてあるままで、特別な事なんて何もしていないのに。

 そこまで夢中になるような物だろうかと首をひねったところで、ノックの音が聞こえた。

「ソフィアおじようさま、起きられたのですか? おはようございます」

「オーリー。お、おは……おはよう」

 十数匹の妖精が飛び交う不思議きわまりないこの光景。一体どんな反応をされるのかと心配になりながらも、ソフィアはハウスメイドのオーリーをむかれた。

 黒いかみを綺麗にまとげた四十代半ばのかのじよは、両親が商売で忙しいソフィアの母親代わりのような人。家に勤めてくれている人の中で、一番しんらいしている人だ。

 朝の紅茶の用意を載せたワゴンと共にソフィアの部屋に入ってきたオーリーは、室内をわたしてきようがくの表情を浮かべた。最近少し見え始めた彼女の目元の皺が、一層深くなる。

「なんて事……!!」

「え、ええっと……」

「お嬢様っ! どうしてお菓子が絨毯に転がってるんですか! 食べ物をまつにしてはいけませんっ」

「え……お、お菓子? そこなの?」

 お菓子より重要な事があるだろう。ゆうしているしよう妖精達を見て何も思わないのか。

 ほうけているソフィアをに、転がっているバスケットを手に取って持ち上げたオーリーは、大きくまゆげた。

「まぁまぁまぁ! あんなにあったお菓子もほとんどがられたのですか? そんなにおなかいたのなら、言ってくだされば朝食を早めましたのに」

「えーっと……ご、ごめんなさい?」

「……あまり悪いと思ってなさそうなお顔ですね」

「う……」

(だって、私じゃないんだもの)

 ソフィアはお菓子を食べ散らかした張本人達をにらけた。

 それでもオーリーが彼らの存在に気付く様子は、まったくない。

(あれ? これ、もしかして……オーリーには見えてないの?)

 不思議に思って首をかしげるソフィアのりようかたに、妖精達が飛び乗ってきた。

 そして得意げに、胸を張りつつ教えてくれる。

「よーせーは、にんげんにはみえないの」

「じょーしきだぜ?」

(常識じゃないから! 誰も知らないから!)

 しかし妖精が見えないのだとしても、宙に浮きながらクッキーをむさぼっている者は、クッキーだけが浮いているように見えるのではないか。そんなソフィアの疑問の表情に気付いたらしく、妖精がまた教えてくれる。

「よのなか、つごーよくできてる」

「……持ってるお菓子は見えないって事?」

 お菓子のくず拾いに夢中になっているオーリーに聞こえないよう、こっそりと妖精に話し掛けた。

「みえてるけどー。にんしきしなーい」

にんしき?」

「きがつかないの」

「どうして?」

「さぁ?」

 右肩の妖精がこてんと首を傾げた直後に、左肩の妖精が言う。

「ぼくらのさわるもの、けはいがうすくなるらしいとか?」

「えぇ? 気配って……なんて都合のいい存在なの」

 ソフィアは溜息を吐き、流れ落ちたはちみつ色の髪をきあげた。

 オーリーがそう用具を取りに行った間に、気を取り直さなくては。

 彼女の運んで来てくれた紅茶を一口飲んで、頭をえる。

「うん! この自称妖精達の話を、信じられるはずないわ!」

「な、なぜー!」

 がーん! と効果音が聞こえそうな反応をされたけれど、もう無視する事にした。

(一々付き合ってられない。それに空想の世界をじやに受け入れるほど、夢見がちな頭はしていないのよ。つうに考えて、私の目か頭が変な病気にかかったとかよね)

 他人に見えない訳のわからない生き物が見えるだなんて、自分がおかしくなってしまったのかと、疑っても仕方がない。むしろそっちの線が正しいような気がしてる。

「だからって、お医者様にかかるのもねぇ」

 いきなり「妖精が見えるんです!」なんて宣言すれば、きっと家族にたくさん心配をかける事になる。

 両親は経営している商会の仕事でいつも忙しい。できれば気をませたくなかった。

 それに病気という事になれば、ベッドに押し込められてしまうだろう。

(そんなの、想像だけでうんざりする!)

 体のどこにも痛いところも苦しいところもないのに、もらなくてはならないなんていやだ。だからソフィアは、周りにはだまっている事にした。

「はぁ……困った事になったわね」

 これから一体どうなってしまうのだろう。思わず溜息をこぼしたソフィアの肩を、問題の原因であるはずの妖精が、ポンとたたくのだった。



 妖精との出会いから半月がち、曽祖父がくなった直後のしんみりとした空気もやわらいできて、日常がもどりつつある最近。

「ソフィアさんソフィアさん。おかしくださいな」

「くぅださーいなぁー」

(そのうち見えなくなる事を、期待してたのになぁ)

 ソフィアの願いはむなしくもかなわず。

 羽の生えた変な生き物達は、今日もソフィアの周りを飛んでいる。妖精達はその小さな頭でも『ソフィア』という人間を覚えたらしく、名前を呼ぶようにもなった。

 キッチンの作業台の上で、両手を出してかがやく瞳を向けてくる妖精達。

 その姿は、とっても可愛い。こんな可愛い見た目で、可愛い顔で、可愛くおねだりされるから、ソフィアはついつい乗せられてお菓子を作ってしまう。

 しかし同時に、可愛さを上回るずうずうしさにしょっちゅういらたされてもいるのだ。

「あまいのだせや」

「くれくれ!」

「もー、今作ってる最中なの、見えてるでしょ? 大人しく待ってなさいよ」

「おそい」

「はらへったー。はーやーくぅー」

「待ちなさいってば! 失敗しちゃうからかさないで! あのね。お菓子ってそんなに簡単にできるものじゃないのよ? きちんと量らないといけないし。粉ものは振るわないといけないし。オーブンだってたきぎをくべてからじゆうぶんに温まるまで結構な時間がかかるの」

 蜂蜜色の豊かな髪を束ね、お気に入りのフリルたっぷりのエプロンをつけているソフィアは、眉を吊り上げてきつめに言う。しかしもちろん、大人しくなる様子はない。

「きょーのおやつはなんだ? うまいやつか!?」

「パイよ。はもうばすだけだから、あとは中身ね。なんのパイにしましょうか」

 ソフィアが答えると、調理台の上にいる妖精達が走りだした。

「パイー!」

「さくさくのやつか!」

「うまうまー!」

 妖精達はね飛びながらグルグル回る。うれしさのあまり、とてもじっとしていられないらしい。あまりの激しい喜び方に、毒気をかれてソフィアもつい笑いがこぼれた。

(私もパイ大好き。やっと作れる気候になってきたし、楽しみだわ)

 パイ生地は冷やさないとサクサクホロホロにならないから、作るのは冬が適している。

 夏に氷を用意して作る手もあるにはあるけれど、寒い季節に熱々サクサクのパイをほおるのがいいのだ。何より、この季節の毎年の楽しみにもなっている。

「なかみはチョコだな!」

「おいももすてがたい」

「はいはい。好きなの作ってあげるから、話し合って一つに絞ってちょうだい」

「なんと」

「はなしあいか」

「かいぎとはざんしん」

 走り回っていた足をピタリと止め、円形になって正座での会議が始まった。

「会議はいい案だけどじやよ。調理台からどいてどいて」

 ソフィアは会議に集中している彼らの首根っこを一匹ずつつかんでは後ろに放り投げた。

 飛べるので、投げようと捨てようとする様子はない。

「あやー」

「きゃー」

「きまった! きまった!」

「あら、何になったの?」

「りんご! シナモンもひっす」

「アップルパイね。りようかい。お願いだから大人しく! とにかく大人しくしててよね!」

 ──そんなふうににぎやかなキッチンの中。

 ふいに、明るい声に交じって、悲しそうな泣き声がソフィアの耳にすべんできた。

 鳴き声を辿たどってみると、小窓のまどわく部分に座り込み、顔をおおって泣いている妖精が一匹。

「しくしく。しくしく」

(なんてわかりやすい泣き方なのかしら)

 これは、もしかしてなぐさめてくれとアピールされているのだろうか。

「どうしたの?」

 とりあえず、このまま泣き続けられるのもうつとうしいので声をかけてみた。

「しつれんした。ひっく」

「あらまあ。れんあい感情なんてあったのね?」

「ソフィアさんは、ちょいちょいしつれーなにんげん。しくしく」

「だって、お菓子にしか興味がないのかと」

 ただひたすらにお菓子をむさぼり食う生き物だと思ってた。お菓子のさいそくが日に一度か二度ある以外では、こちらから話し掛けない限り、寄ってくる事はあまりなかったのだ。

 しかし今日はどこかちがうようで、しくしく、しくしくとこれ見よがしに泣いている。

 次々に溢れてくるおおつぶの涙で、妖精の周りは小さなみずまりができていた。

「しかも。しかも、でんれーやくにつかわれた」

「はい? でんれー? ……伝令?」

 泣きながらうなずいた妖精は、服をまくり上げてお腹の辺りからへんを引っ張り出した。

 両手でいつしようけんめい引っ張り出したそれは、皺くちゃになっている。その小さくたたまれた紙切れを、妖精はずずいとソフィアに差し出した。目に涙をめながら。

「てがみ、わたせって」

「私に? その、君がしつれんしたっていう妖精から?」

「ちがう、にんげんから」

「人間? どこの誰よ。名前は?」

「さー?」

 うるんだ瞳をまたたき、こてんっと可愛く首を傾ける妖精に片眉をあげながら、とりあえずソフィアは折り畳まれていたメモを開いた。小さな小さなメモに書いてあったのは、一言だけ。

「『今すぐ菓子を持ってうちに来い』ですって? うちってどこよ」

「つれてく?」

「……これって、私以外に妖精が見える人がいるって事よね?」

 妖精が見えるのは病気かもうそうなのだと思いたいのに、妖精を通じての手紙が届いてしまった。しかも伝令役に使うくらい、相手は妖精の扱いに慣れているらしい。

(妖精が見えるこの不可思議な状況についてくわしい人……興味がなくはないけど……)

 手紙を見つめてしばしなやんだあと、ソフィアはゆっくりと首を振った。

「案内はいらない。これは見なかった事にしましょう」

「いいの?」

「いいのよ」

 ソフィアはツンとあごをそらす。

「だって一方的に命令してきてる感じの、このえらそうな文章がね。どうにも気に入らないわ。誰が聞くものですか! って、はんこうしたくなる書き方」

「しんらつですなぁ」

「差出人はきっと、この文章と同じように上から目線で、いやな感じの人なんだわ。ふん、こんなものはこうよっ」

 手紙を勢いよく破いてゴミ箱へ入れると、ソフィアは作業台に向き直り、アップルパイ用に出したりんを包丁で真っ二つに切った。

「あぁ、早く焼きたて食べたいわー」

 少し冷えてからの方が、パイ生地のサクサク感はきわつのだけど。

 熱々の林檎が溢れてくる焼きたてもたまらない。

 どうせなら焼きたてと、冷やしたものを二度楽しみたい。

「最低でも、二切れは妖精から守らないと!」

 とにかく今日のおやつの時間が楽しみだ。

 ……そうやって見なかったふりをしたって。結局、妖精がもたらした手紙の主からは、逃げられなかったのだけど。


 妖精が出てくるようになって一カ月。ソフィアは妖精達にねだられて、ほぼ毎日お菓子を作っている。今までとは比べ物にならない材料の消費量に、最初は使用人達も首を傾げていた。でもある時、ハウスメイドのオーリーに「作ったものはどちらへ?」と聞かれても答えようがなくて口ごもっていたら、何やらニヤニヤとしたみを浮かべて「お嬢様もお年頃なのですねぇ」と嬉しそうに頷き、勝手になつとくされてしまったのだ。

 どうやら、こっそりとどこかの殿とのがたおくっていると思われたらしい。

 残念ながら、そんな相手はかげも形も存在しない。

(オーリーも不思議に思うくらいだから、作ったお菓子が実際に消えているのはちがいない。私の妄想じゃない。これはもう、妖精は存在するって認めるべきなのかしら? でもねぇ……)

 近くに共感してくれる人がいない存在を、自分だけが認めるのは気が進まない。

「お菓子を作らされる以外は支障ないし。まぁ、しばらくはこのままでも……ん?」

 自分の部屋のカウチソファにかけて、妖精と一緒にメレンゲクッキーを摘まみつつくつろいでいたソフィアの耳に、バタバタとそうぞうしい足音が届いてきた。

「お、お、お、おじょうさまあぁぁぁ!!!」

 バァァン! と凄い勢いでとびらを開けたのは、オーリー。れい作法にはとても厳しく、いつもソフィアにおしとやかにと注意する。そんなきちんとした彼女が、こんな足音を立てて、ノックもなしに入ってくるなんて、ただ事ではなさそうだ。

「オーリー、一体何事? どうしたのよ。大丈夫?」

 聞いたソフィアへ、オーリーはあせったようにふうしょける。

「て、て、てがみが! フィ、フィリップはくしやくのご子息のルーカス様から、じきじきにお手紙が届いているのです!!」

 ぽろり。とソフィアが落としたメレンゲクッキーは、足元で構えていた妖精にキャッチされた。

「………は? はくしゃくけ?」

 目の前に突き付けられた封書を、ソフィアはぽかんと見下ろす。

(フィリップ伯爵家……つまり、お貴族様?)

 なんのえんもゆかりもない人。それどころか、平民のソフィアとは立場さえまるで違う人。

 おそるおそる受け取った手紙をソフィアが裏返すと、伯爵家のもんだろうふうろう印が押されていた。すみにルーカス・フィリップとも書かれている。

「どうして伯爵家のご子息様が私にこんなものを? なんの関わりもないのに。おこらせるような事をした覚えもないわよ」

「さぁ……でも、とにかく急ぎでお返事を。お貴族様を待たせるなんて失礼ですから、本日中に届くように手配をいたしませんと」

「わ、わかったわ」

 ソフィアはふうを開けて、中に入っていた便びんせんを開いた。

「えっと、何々……?」

 読み進めた手紙はとても綺麗な字で、ていねいな文章で長々と書いてあった。

 とつぜんの手紙をびる言葉や、自己しようかいみたいなものもつづられてある。

 それらを省略すると、つまり『手作りのお菓子を持ってきてほしい』という事だった。

「……え? お菓子?」

「まぁ。ソフィアお嬢様のお菓子をごしよもうなのでしょうか」

「あー……」

「何か、思い当たる事が?」

「えーと、そうね。うん」

 ソフィアはろんに目を細めて、溜息を吐いた。

(お菓子を持ってこいって。この間、妖精伝いに届いたメモの内容と同じだわ)

 たった一言だけだったメモと比べれば、ずいぶん丁寧な文章だけど。

 よく見ればひつせきも、やや青みがかったインクの色も、あのメモと似ている感じがする。

 用件に、筆跡に、インクの色。これだけ重なれば、妖精にメモをたくした人間がこのルーカス・フィリップという人で間違いないだろう。

(えっと、これはつまりルーカス様も妖精が見えるって事よね? でもこの家をどうやって調べたのかしら。そもそも、なぜ私のお菓子をこんなにしがるの?)

 ソフィアのお菓子作りは、本当にあくまで個人的な趣味だ。素人の手作りを食べるのはていこうがある人も多いと知っているから、近しい人にしか渡したことがない。妖精にはなぜかやたらと受けがいいけれど、実力は素人に毛が生えた程度のものだと、きちんと自覚している。

 伯爵家のご子息様というからには、一言お願いすれば国で一・二を争うような菓子職人に、とびきりしい菓子を作ってもらえるだろうに。

 なのに、どうしてソフィアの作る菓子を求めるのか。考えれば考える程にルーカスという人の意図がわからなくて、ソフィアは手紙を睨み付けたまま首を傾げた。

 一緒にオーリーも首を傾げているから、彼女も不思議に思っているのだろう。

「と、とにかく、伯爵家の方のご所望ですもの。お断りする訳にはいきませんわ。お嬢様、明日にでもお伺いしますとお返事を!」

「……そうよね。お貴族様が相手だものね」

 一通目の手紙からしていい印象を持てないが、相手は貴族なのだとわかってしまった。

 じんな命令でも聞かなければならないような、ごういんな統治がされている国ではない。

 それでも貴族は、平民の上にある存在だ。目上の人を相手に、ちょっと気に入らないという理由だけで、呼び出しに出向かないのはいけないだろう。

 まったく気は進まないけれど、ここは言う事を聞くべきところだ。

「はぁ……仕方がないか。私は返事を書いて、それから持って行くお菓子を作るから。ドレスとかのたくの準備はオーリー、お願いね」

「かしこまりました。お任せくださいませ」

 こうして、お菓子を持ってこいという命令を聞く為、ソフィアはフィリップ伯爵家を訪ねる事になった。


「わぁ、まさにおしきって感じ」

 手紙を受け取った翌日、ソフィアは貴族の屋敷が並ぶ王都の一画に立っていた。

 目の前にそびえる門の向こう、広い庭のそのまた奥に建つ伯爵ていを見上げる。

(門構えからして、もう違う世界だわ。き、きんちようしてきたかも)

 平民のむすめが一人で乗り込む場所としては、しきが高すぎて気おくれする。昨夜作ったバターパウンドケーキの入ったバスケットを持った手に、思わずあせが滲んだ。

「でももう、ここまで来ちゃったし」

 服装にも気をつかった。上質なふくらはぎたけのドレスには、大きなリボンがこしに付いている。

 パーティーでも開かれていない限りは、問題ないだろう。

 衣服に乱れがないかかくにんしたソフィアは、顔をあげ気合いを入れた。

「……よしっ! あの、門番さん。ルーカス様はご在宅でしょうか」

「……ジェイビス様でしょうか」

「はい。ソフィア・ジェイビスと申します」

「伺っております。ようこそおいでくださいました」

 門番から、屋敷のしつに引き渡され、屋敷のろうを彼について歩いて行く。

「こちらでルーカス様がお待ちです」

 そう言われて開かれた、木製扉の向こう側。

「こんにちは。ソフィアです、失礼します」

 一歩部屋に入った先に立っていたのは、まだ十歳にもならないくらいの男の子だった。

「わぁ……」

 思わず、ソフィアはエメラルドグリーン色の瞳を大きく見開いた。──こんなに綺麗な子、見た事がない。ふわふわしたあわきんぱつに、とおった青い瞳。

 柔らかく細められた目元を縁どる長いまつと、髪と同じ色のまゆ。更にくちびるも、りんかくも、何もかも、全部のパーツがありえない程に整っていた。

(この家の子供かしら。ルーカス様はどこに?)

 きょろきょろと周りを見回し始めたソフィアに、男の子は近寄ってきて口を開いた。

「こんにちは、ソフィアおねえさん。ぼくはルーカス・フィリップと言います」

「……え、ええっ!? 貴方がルーカス様!? 本当に?」

「子供だとは思いませんでしたか?」

 くすくすと可愛らしく笑うルーカスに、ソフィアは正直に頷いた。

(完全に、大人の人だと思ってた)

 だって二度目にソフィアのもとに届いた手紙は、とても丁寧な文字と文章で書かれていて、きちんとした大人の印象を受けたから。一度目に届いた妖精が持ってきたメモの方も、まさかこんなにふんわりとしたふんの子供が書いたとは想像できなかった。

 驚くソフィアに、ルーカスと名乗った男の子が、うわづかいで見つめてきつつ唇を開く。

「ソフィアおねえさん」

「は、はい」

 真正面からの呼びかけに、ソフィアはいつしゆんにして真っ赤になった。

(かわっ、可愛い! とてつもなく可愛い子に、おねえさんって呼ばれちゃった!)

 可愛くて、綺麗。しかも容姿だけでなく、とろけるように甘い声とふわふわの笑顔のりよくがすさまじい。ソフィアの胸の上あたりまでしかない身長。少し細すぎるのではと思えるくらいきやしやな体から伸びる、スラリと長い手足。

 あまりの愛らしさにあてられたソフィアは、くらりと眩暈めまいさえした。

 年上のお姉さんはきっと、ソフィアだけでなく皆メロメロになるに違いない。

 それくらい、本当に背中に羽が生えていてもおかしくないくらい、『天使』と呼ぶにふさわしい容姿と笑顔だった。

「僕、ソフィアおねえさんとお話ししたくて。わがまま言って、来てもらっちゃって、ごめんなさい」

 眉を下げてしゅんと落ち込まれると、こちらがとんでもない罪悪感にわれる。

 ほっぺを指でつついただけで泣いてしまいそうで、その泣き顔もきっとたまらなくよくをそそるのだろう子に、強く文句を言えるはずもない。

「い、いえ。まったくお気になさらないでください。ルーカス様」

「そう? おねえさん、嫌な気持ちになってないかなぁ?」

「だ、大丈夫! 全然問題ありません!」

「……ふふっ、よかったぁ。あ、どうぞ座って?」

 椅子をすすめられて、ソフィアはぎこちなく座った。そこに、ひかえめなノックの音がして女性が入ってくる。格好からしてメイドだろう。

「失礼致します。お茶とお菓子をお持ち致しました」

「うん。ありがとう」

「有り難うございます」

 じやな笑顔のルーカスと、少しぎこちなく頭を下げたソフィアに丁寧に礼を返したメイドが退室し、扉を閉めた。

 その、たったいつぱくの間のあと────。

「さてと」

 急に、部屋の温度が下がったふうにとりはだが立った。

「え? な、何……?」

あいさつは済んだ。もう構わないだろう」

 部屋の温度だけでなく、ルーカスのこわいろもワントーン低くなっている。

 驚いたソフィアが彼の顔を見ると、先程の印象からがらりと何かが変わってしまったような。どことなく、目が柔らかで無邪気なものから、冷えたキツイものへと変化しているような感じがした。

「出せ」

「え?」

 まどうばかりのソフィアに、目の前のソファに深く腰をかけたルーカスは、足を組んで顎をクイッとあげてみせる。

「さっさと持ってきたものを出せと言っている。どれだけ待たされたと思うんだ」

「は?」

「あぁ、さっきはずいぶんと真っ赤になって喜んでいたな? お前みたいな残念な頭と顔をした女に、僕が興味を持つ訳がないのに」

「ルーカス……様?」

「相手が子供だとわかったとたんに、あっさりほだされて、けだな」

「…………」

「ちゃんと僕の言ってる事、聞いてる? 理解できてる? ソフィアおねーサン?」

 鹿にしたふうに、ふっと鼻息を吐く男の子。

 彼はついさっきまで、天使のようにで愛らしい笑顔を浮かべていたはずだ。

「に……二重人格?」

「さっきのは余所行き用の顔だ。よく見られる為にねこを被るなんて常識だろ。初対面だから一応、いい顔してむかえてやったんだ。だが、そんな価値もないへいぼん以下の女だったな」

 ふうとあからさまな溜息を吐くルーカスに、ソフィアはカッと頭に血をのぼらせた。

「酷い! だましたんですね!」

「騙された方が悪い。だいたい、あんな純真無垢な子供が今どきいるはずないだろうに」

 足を組み替え、片ひじをひじ掛けに乗せた彼はえいに目を細めて言う。

(なんて生意気な子なの……!)

 熱く煮えたぎる頭を、しかしソフィアはグッと顎を引いて必死におさえた。

 怒鳴ってゲンコツを落とさなかった自分を全力でめてやりたい。

(……まん。そう我慢よ私。だって相手はどう見てもお子様なんだから。大人のゆうを見せてやらないと!)

 自分にそう言い聞かせるが、テーブルの上へバスケットを置く動作には、つい力が籠もってしまう。ドンっと音を鳴らして置いたバスケットを、ルーカスの方へと寄せた。

「はいどーぞ。伯爵ご子息様、ご所望のお菓子ですよっ!」

「……ふむ」

 ルーカスが組んだ足を解いて、バスケットに手を伸ばした。

 ふたを開くと、中にはリボンを結んだ包みが入っている。

 それを彼は手に取って、リボンをほどき、包み紙をめくる。

 すでに一切れずつに切り分けてあるバターパウンドケーキが、ソフィアからも見えた。

 程よい焼き色。味も、昨日一緒に焼いて妖精達にやった分を一口食べたけど、問題なかった。一晩置いたから食感もしっとりして、よりいい感じになっているはずだ。

 ルーカスは包み紙をくようにバターパウンドケーキをテーブルの上に置くと一切れ摘まみ、更に小さく、人間の一口分ほどの大きさに千切った。

 そして視線を、ゆっくりと後ろへと投げた。

「リリー。例のものだ」

(うん? 誰に話し掛けてるの?)

 ソフィアが不思議に思って首を傾げた、そのしゆんかん

「──あら。ルーカスったら、本当に手に入れてくれたのね。例のもの」

 背もたれの後ろにいたらしい手のひらサイズの生き物が、ひょこっと顔を出した。

 スラリと長いあしと、美しいロングドレスのすそ

 長いぎんぱつが、ソフィアの視線の先でゆうに上品にらぐ。きわめつけに小さな羽が生えている。

「え!?」

 ソフィアは瞳を、大きく見開いた。

 その、人ならざる小さな生き物は、ルーカスと何やら会話が成立している。自分だけでなく彼にも見えて、声も聞こえているようだ。

「よう、せい?」

 ソフィアの唇から、かすれた声が漏れた。たぶん、妖精で間違いないのだろう。だって羽が生えている手のひらサイズの生き物なんて、そうとしか思えない。

 でもソフィアが驚いたのは、『妖精』が出てきた事ではなく。妖精は自分の中だけの妄想でなかったのだと、ついに証明されてしまった事でもなく。

(う、うちのと違う……! この子、ボンキュッボンだわ!)

 知っている妖精達と、まったく姿が違った事にあった。

 ソフィアの家にいるのはコロコロ丸々した、マスコット的な、二、三頭身の子達だ。背中の羽なんて小さすぎて、なぜソレで飛べるのだと突っ込みたいほど。

 なのに今目の前に現れたばかりの妖精は、サイズが小さいだけで、普通に大人体型だったのだ。更に言えば形のいい胸にくびれた腰つきの、まさに大人の色気をたたえた美女だった。

 宝石みたいに美しい切れ長のアイスブルーの瞳の脇には、ホクロが一つある。

 しかもソフィアの家にいる妖精達は質素なワンピースかズボンなのに、この子はとてもったデザインの、優美なスリット入りのロングドレス姿だった。

 背中に生えた羽は白色かと一瞬思ったけれど、光の具合によって様々な色に見える、とても不思議で美しい羽だ。その美しい妖精は、ソフィアの目の前まで飛んできた。

 彼女はまなじりを吊り上げて、腰に手をあて胸を張りながら、透き通った声で言葉をつむぐ。

「ふんっ! 間抜けな顔をした人間だこと! 貴女があのお菓子を作っただなんて、とても信じられない!」

「しゃ、しゃべった!」

しやべるわよ!」

「喋るだろ……」

 妖精がツンとそっぽを向き、ルーカスが呆れたふうに言う。

 馬鹿にしているような彼らの言葉に、ソフィアはつい反論した。

「うちにいる子達と違いすぎて。同じ妖精だなんて信じられないんです!」

「それって下級の妖精の事ね? あんなのと一緒にしないで! 失礼ね!」

「そうだな。失礼なやつだ」

「だって私、妖精って総じてお馬鹿でお間抜けなものだと思ってたんです。こんな知的で綺麗な感じの妖精がいきなり出てきたら驚きますよ」

「あら……知的で綺麗ですって?」

「妖精を見る目は悪くないようだな」

「え。はい……どうも…………」

 褒めたとたんに二人共、鼻高々といった感じになった。

「とにかく、早くお菓子お菓子! ルーカス!」

「あぁ、すぐに」

 リリーがルーカスの手元に飛んで行くと、ルーカスは一口サイズに千切っていたパウンドケーキを手渡した。両手でパウンドケーキを持ったリリーは、机の上に置いたバスケットの手すりの部分に腰掛けた。

 座り方もきちんと足を揃えていて、一つ一つの仕草がとても優雅だ。

(この上品さ、うちにいる下級らしい妖精にも見習ってほしいわ)

 ソフィアとルーカスの見守る中、両手で抱えたパウンドケーキを口にふくむリリー。

 見ていると、ゆっくりとしやくした頬がだいゆるんでいく。

(あ、気に入ってもらえた?)

 リリーは止まる事なく、二口目、三口目と食べ進んでいく。リリーの手の中にあった分がなくなると、タイミングを計ってルーカスがもう一欠片渡した。

「リリー、気に入ったか?」

「そうね……いいと思うわ」

 そっけない返事ながらも、リリーはまだ食べ続けている。美女のほっぺにお菓子の欠片がくっついている図は、ちょっと可愛い。

 そんなリリーを見ながら、ルーカスは幸せそうにしている。

 ソフィアに対する偉そうな態度とは違って、とろけるような天使の表情。

 少し彼らの会話を聞いただけだが、どうやらルーカスはリリーに首ったけのようだ。

「このお菓子、予想した通りだわ」

「ではやはり、この娘の作る菓子は他とは違うのか……」

「えぇ、間違いなくってよ。この子の作るものは、とっても変わってる」

「なるほど……」

 もう一欠片パウンドケーキを受け渡しながらの二人の会話に、ソフィアは首を傾げた。

(ごくごく普通のパウンドケーキなはずなんだけど)

 疑問を持ちつつも、ソフィアは口を開く。

 ケーキよりも、もっと気になる事があるのだ。

「あの。ルーカス様も、やっぱり妖精が見えるんですよね」

『妖精』というものが見える人は、今のところルーカスしか知らない。突然視界に現れるようになった、この訳のわからない生き物について、教えてほしいと思ったのだ。

「当たり前だ。リリーと今話してるだろう」

「……いつから見えるようになったんですか?」

「いつ? そうだな……六年前くらいか」

「そんなに前から!? あの、これって、何がきっかけで見えるようになるものなのですか!?」

 げんな顔をしたルーカスは、しばししてから「あぁ」と納得したように息を吐いた。

「お前、瞳について何も知らないのか」

「瞳?」

「妖精が見える瞳は、祝福を受けた瞳。──『祝福の瞳』と、妖精が見える者の中では言われている」

「え!? 妖精が見える人って、私達の他にもいるんですか!?」

「貴族にはたまにな。平民ではほぼ存在しないくらい珍しい」

「知らなかったです……」

「と言っても、貴族の中でも本当にひとにぎりの人間だけだ。見えない者に説明するのは難しいから、存在を知らない者がほとんどだ」

 とにかく妖精を見える人が他にもいると聞いて、ソフィアはあんした。

 自分だけが特別におかしい訳ではなかった。

「……『祝福の瞳』かぁ」

(祝福どころか、お菓子のごうだつにばかりあってるけれど)

 今のところ、そのめいしように似合ったおんけいは何一つ受けてない。

「でも、どうして突然見えるようになるのですか? 私、一カ月くらい前に突然見えるようになったんです」

「瞳は、がれるものなの」

 ちょうどルーカスから新しいパウンドケーキの欠片をもらう為に両手を伸ばしていたリリーが、教えてくれた。ソフィアは頬にケーキの欠片を付けた彼女に視線を向ける。

「受け継がれるって、どういう事?」

「前の宿主が死ねば、次の宿主へと力は受け継がれる。生前に親しくしていた、波長の合う人にね。ソフィアも最近、近しい人が亡くなったのではなくって?」

「ちかしい、ひと」

 最近亡くなった近しい人なんて、一人しかいない。

 それは間違いなく──曽祖父の事。彼の葬儀を終えた翌朝から、ソフィアの目に映る景色は、妖精が飛び交うファンタジックでにぎにぎしいものへと一変した。

「えっと……それは、つまり。私のひいお祖父様が、今の私と同じように妖精を見る事ができたという事? ひいお祖父様が亡くなったから、私に力が移ったの?」

「あぁ、前の『祝福の瞳』の持ち主はひいお祖父様なのね。そう。きっとソフィアはその人から、力を受け継いだのよ」

「そんな……。ひいお祖父様に限ってまさか、妖精なんて非現実的なもの……」

「疑うの? それだけはっきり妖精を見られるのに」

「う、疑ってはないわ……もう……妖精の存在は疑えない」

 むしろ自分の頭がおかしくなった訳ではないのだという確証を得た事に、心底安堵している。曽祖父が妖精を見る事ができたというのも、彼のまるで見てきたかのように上手に話す妖精の物語を思い出すと、納得できるような気がしてきた。

(ひいお祖父様、ただの作り話ではなかったのね。本当に妖精が見えていて、だからよく話して聞かせてくれてたんだ)

 本当はここにいるんだよ、とまでは教えてくれなかったが、ソフィアは曽祖父の妖精の話が大好きだった。

「……」

 ソフィアはちらりと、大人しく座ってソフィア達の話を聞いている男の子を見た。彼はこの『祝福の瞳』という力を受け継いでから六年間も、ずっとこの妖精の飛び交う景色を見て生きてきたらしい。

 目が合うと、ルーカスは青い瞳を細めて話を始めた。

「……それでだ。どうやらお前の力は、意外な事に『祝福の瞳』だけではないらしい」

「どういう事でしょう?」

「妖精の好む菓子を作る事のできる、特別な『手』を持っているようだ」

「はぁ?」

 何を言っているのだこの人は。特別な、手?

「以前まで、菓子が突然消えるような事はなかったか?」

「え? 窓辺に妖精寄せのおまじないとして置いてたお菓子以外は、消えた事はなかったと思いますけど」

「お前の曽祖父に、菓子を作る趣味は?」

「ないはずです」

「だったら菓子を作る能力は受け継がれたものではないという事だ。──タイミング的に、おそらく瞳の力が受け継がれて見えるようになった事に引っ張られて、元々持っていたけれど発動していなかった自身の手の力が出てきたという感じだろう。妖精は甘いものは好きだが、それでもまみい程度しかしないものだ。家からクッキー一枚程度消えたとしても、気付く者は少ないだろう」

「なるほど……消えてたとしてもそれくらいなら、確かに気にしなかったかも」

 つまり普通は妖精が来たとしても、クッキー一枚が消える程度らしい。

 窓辺に置いていたおまじないのお菓子もそれくらいだった。

「だが力が目覚めてからは違う。妖精にとってお前の作った菓子は、わくの菓子になった」

「あぁ……本当に作っただけ全部持って行こうとしますね。って言うとグズグズしながらも言う事聞くんですけど」

 最初に妖精が群がって食べたのは曽祖父が亡くなる前に作ったものだけれど。

 それでもソフィアが作ったというだけで力が宿り、妖精達は引き寄せられたのだろうか。

「ところで、どうしてルーカス様は私のお菓子についてこんなに詳しいのですか?」

 家族と屋敷の使用人、後は近しい友達と妖精にしかお菓子を渡してなかった。一体どこでソフィアのお菓子を知って──それも力のある菓子だとわかったのか。

「あぁ、リリーは美しいからな。余所の妖精がみつものを持ってくる事があるんだ。だが、ここまでりようされるものを持ってきたのは初めてだった」

「つまり、うちにいた失恋したって泣いてた妖精のこいのお相手は、リリーだったって事ですか。それはまたたかの花をねらったなぁ……」

 どうやら恋する相手への貢ぎ物としてソフィアの作ったお菓子がけんじようされていたらしい。

 あのコロコロしたお間抜けな妖精が、この頭のいい美女を射止められるとは思えないのだが。

(贈り物なら、言ってくれればラッピングくらいしてあげたのに)

 とにかく献上されたお菓子を食べたリリーが、作り手のソフィアの力に気付いて、貢いだ下級妖精から聞き出した情報を使って家まで調べて、ルーカスの名で呼び寄せたという事か。

「なるほど、経緯いきさつはわかりました。──でもなぜわざわざ私を呼び出したのでしょうか」

 力について知れたのは助かった。他に妖精が見える人がいる事に安心もした。

 でも、それを教えようという親切心で呼んだとは思えない。

 首を傾げたソフィアに、ルーカスは答えをくれる。

「ソフィア。お前の作る菓子らしい」

「だけって……」

「リリーが人間の食べ物にこんなに喜んだのは、初めてなんだ。本当に、菓子はいい。毎日でもリリーにあたえてやりたい!」

「まただけって言った!」

 ソフィアのこうをさらりとかわし、今日会ったばかりの少年は、おもむろに天使のように可愛い笑顔を作る。

(くっ……演技だってわかってるのに。わかってるのに! 可愛いってきよう!)

 ルーカスは更に合わせた手を頬の横に寄せて、小首を傾げるという可愛いポーズまで付けてきた。そのキラキラな笑顔のとても可愛い天使君は、更に上目遣いで、やけに高い声でソフィアに言うのだ。

「だからソフィアおねえさんには、僕の妖精の専属菓子職人パテイシエールになってほしいんだ!」

「はい? 妖精の、専属菓子職人……?」

 ルーカスの訳のわからない申し出に、ソフィアはエメラルドグリーンの瞳を瞬いた。

「えっと、それはつまり、リリーの食べるお菓子を作る職人として、やといたいって事でしょうか。あの、私一応それなりの規模の商会の娘なんですけれど」

 平民とは言っても、ソフィアは王都で一番賑わう大通りに本店を構える、そこそこの規模の商家の娘だ。

 はなよめしゆぎようや教養を身につける為に、じよとして貴族の家に仕えるのはおかしくない。

 でもさすがに、菓子職人として働きに出るのはありえない立場だった。

(まぁ、うちの親は私が本気で菓子職人になりたいって言ったら、おうえんしてくれそうだけど)

 でも、ソフィア本人が嫌だった。だって本気で菓子職人として生きていくつもりなんて、今のところないのだ。菓子作りは好きだけど、そこまでの情熱を傾けてはいない。

 好きな時に好きなように、好きなものを作りたい。

 雇い主の意向に沿って作るなんて、きっと楽しくないだろうし。

「就職のかんゆうでしたら、お断りします」

「いや、別にうちで働けなんて言ってはないぞ」

「だってさっき菓子職人にって」

「言い方がおかしかったか……職人として雇うという事は、何かあればめられる可能性があるという事だ。だからそれは駄目だ」

「はぁ……? ええと、もう少しわかりやすく説明してください」

「だから、僕はリリーが毎日お菓子を美味しそうに食べて、毎日幸せそうにしている顔を見たいんだ。一生、ずっと、毎日だ!」

 毎日リリーが幸せそうにしている姿を想像しているのか、ルーカスはくちをあげて微笑ほほえんでいる。

 しかしすぐにぶつちようづらへと戻し、ソフィアへと視線を移した。

「それを実現する為には、一生僕から離れずにここにいる立場になってもらわないといけない。つまり、ソフィアに僕の妻になれと言ってるんだ」

「はい?」

「表向きには僕の為に手ずから菓子を焼いてくれる優しい妻という事で。そして実際は毎日、リリーの専属菓子職人として働け。そうすればリリーは、毎日ソフィアのお菓子を食べられる訳だ。これは素晴らしい名案だろう?」

 自信満々というふうに、ルーカスは胸を張る。

「リリー、そんなふうに毎日美味しい菓子が食べられたら嬉しいだろう?」

「まぁそうね」

「だろ? やっぱりな。だから、ね? ──ソフィアおねえさん。大切なリリーの為に、僕の奥さんになってよ」

 最後だけ、可愛い天使の笑顔で、こわいほどに柔らかな声色で、ルーカスは「ね?」と首を傾げる。一方のソフィアは胡乱気な目で、がらな少年を見下ろしていた。

(頭痛がしてきたわ……)

 妖精に夢中になるあまり、まったく周りが見えていないお子様に心底呆れた。

 彼の提案は、馬鹿馬鹿しすぎる。

けつこんなんてありえない。しかもこんな子供相手とか、絶対に嫌なんですけど!)

 十五歳のソフィアにとって、自分の胸程の身長しかない、幼い男の子なんてまったく恋愛対象外だ。あと数年すれば成長期に入って変わるだろうが、現状で今目の前の子供をはんりよにするなんて考えられない。

 そもそも身分の違う娘を、お菓子の為だけにめとろうなんてありえない思い付きすぎる。きっとルーカスの身内の人々も許さない。

 なのにそんなとつぴようもない思い付きを、得意気に口にするルーカス。

(うん、とっても子供らしい意味不明なわがままね。ここは年上のお姉さんとして、きっちり言ってあげないと!)

 ソフィアは背筋を正して、口を開いた。

「あのですね、ルーカス様。私はそんなのお断りです。妖精のリリーの喜ぶお菓子を一生与え続けてやりたいという理由だけでの結婚だなんて、馬鹿げてます。ありえないです。そもそも私は、てきな大人の男性と恋をして結婚するって決めてるんです!」

 ソフィアの両親は恋愛結婚。三人兄弟で兄と姉がいるけれど、その二人も恋愛結婚だった。ソフィアも愛する人のもとにとつぐよう言われている。

 自分の意思で素敵な異性との未来を掴むのだと、心に決めているのだ。

「私は、おもい合ってない相手を夫にするなんて嫌です! 貴方とは結婚しません!」

 ソフィアの反論に、ルーカスは馬鹿にするかのように「はっ」と鼻を鳴らした。

「お前の意見はどうでもいい」

 平民の意見なんて、聞く価値もないという事だろうか。

 腹が立つあまりに額に青筋を立てたソフィアは、きつい口調でまくし立ててやる。

「だいたい、ルーカス様にこれから好きな人ができたらどうするんです! 妖精の為に私を連れてたら、その人との恋ができませんよ!」

「恋? 馬鹿らしい。僕は恋なんて一生する予定ないから。政略結婚の話がきても頷くつもりはないしな」

「はあぁぁぁ!?」

 幼い子供が口にする『一生恋しない』という言葉に、ソフィアはまったく重みを感じられなかった。明日気が変わって誰かを好きになっていても不思議じゃないくらい、彼の言葉は信じられない。政略結婚の話がきても断ると言うが、簡単に断れないのが政略結婚だと、理解していないのか。

(一体、どう言ったらあきらめてくれるんだろう……まともに話が通じないし。もう家に帰りたい……)

 我儘な貴族のお子様相手に、これ以上どう対応すればいいのかわからなくてほうにくれたソフィアは、大きな溜息を吐く。

 ──その時、いらいらしていたソフィアの耳に、控えめなノックの音が届いた。

「ルーカス、客人がいらしてるのかい? 私も挨拶しようか」

 低い大人の男性の声に、ソフィアは扉の方を振り返る。

「ルーカス? そちらのお嬢さんは、どなただい?」

 そう言って顔を出したのは、二十歳前後の男性だった。けた茶色い髪と同じ色の瞳をしている。

 長身でぎんぶちの眼鏡をかけていて、なんとなく温和でおっとりした印象を受けた。

(誰かしら? ルーカス様を呼び捨てにしているところから、ご家族?)

 ソフィアは挨拶をしようとソファから立ち上がった。しかしソフィアが口を開くよりも前にルーカスが動きだして、声を発するタイミングを失ってしまう。

「エリオット兄さん! 僕のこんやくしやを紹介するよ!」

 容姿は似ていないけれど、どうやら兄弟らしい。

 それにしても気になるのは、ルーカスが突然天使バージョンになった事だ。

(もしかして、お兄さんに対してもこの演技なの? え、っていうか、婚約者って何!!)

 しようだくなんていつさいしていないのに、どうして婚約者として紹介されているのだ。

「ルーカス様! 何言ってるんですか!」

「彼女が、僕のこいびと!」

「待って! ストップ!」

 ソフィアの制止なんて意味はなく。ルーカスは椅子から可愛くジャンプして下りて、兄のエリオットのもとにけて行った。そしてうでからみつく。

「ふふっ」

 更に上目遣いで相手を見上げる姿は、あまえんぼうな年の離れた弟そのもののように見えた。素の彼を知らなければだが。

「……ルーカス、今なんて? 婚約? 恋人?」

「そうだよ! 彼女はソフィアさんっていうんだ。僕、彼女と結婚したいんだ!」

「突然何を言い出すんだ」

「だって兄さん。僕、ソフィアさんの事が好きなんだ。ずっと一緒にいたいんだよ」

 当たり前だが、エリオットは眉を下げて困ったような顔をしている。いきなり幼い弟に恋人を紹介されて、しかも結婚したいとまで言われたのだ。驚くに決まっている。

「いいでしょー?」

「ええと、だな…………待て……待て待てルーカス。ちょっと落ち着いて話を、」

「兄さんの方が落ち着いて? ──でね。できれば今年中には結婚しちゃいたいなぁと思ってるんだ」

「いやいやいや、あのな? ルーカス、いいか。長男の私より先にお前が妻をもらうというのはだな……その、外聞的にも色々と問題がだな? そもそも十歳は早過ぎるしな?」

「でも兄さん。僕はソフィアさんがいいんだ。早く彼女と結婚したいんだよっ!」

 無邪気な子供らしく、少し頬をふくらませてをこねる。

 でもソフィアは、その無邪気な様子に寒気がした。

(なんという演技派。笑顔だけじゃなくねた顔まで作れるなんて。最近のお子様、怖すぎるわ……!)

 容姿が可愛いから、無邪気な子供の演技がとてもくハマっている。

 知らなければ確実に騙されるレベルの演技力だ。エリオットは落ち着かせる為か弟の肩を軽く叩きつつ、ソフィアを振り返った。

「──ええっと、ソフィアさん……だっけ」

「は、はい。ソフィア・ジェイビスと申します。初めまして」

 やっと挨拶するタイミングがきた。ソフィアはドレスの裾を摘まんで少し腰を落とす。

 その様子を見たエリオットは、しばし考えるような仕草をしたあと、思い付いたように「あぁ」と声を漏らした。

「ジェイビスって、もしかしてジェイビス商会の子かな。大通りにある食料品系の商会の」

「はい、そうです。それは父が経営している商会です」

「そうか。よろしくね。評判はかねがね聞いているよ……あの、うちの弟が悪いね」

 ルーカスの「ソフィアをよめにしたい」発言に、ソフィアが困った様子なのはエリオットも気付いていたのだろう。しようしながら、彼は自らの腕に絡みつく弟の髪を撫でた。

「この子は、見た目通りふわふわっとしていてね、あまり物にも人にもしつしないんだ。とりあえず笑ってしておけ、みたいな適当な感じだし」

 素の彼に、ふわふわしたところなんてじんも見受けられないが。

(それにしても。どうしてお兄さんなんて、一番近しい人に対してもねこかぶりしているんだろ、この子)

 エリオットがルーカスの今の態度を不思議に思っている様子はなかった。

 つまり相当昔からルーカスは、この天使の仮面を付けている事になる。

(こんな小さい子の相当昔って、いつ……? あ、もしかして私に見せていた意地悪な性格の方が、演技だったりするのかしら。あぁ、もう訳がわからない!)

 混乱して、もうどう反応すれば正しいのかわからなくなったソフィアは、とりあえずその場しのぎであいわらいを浮かべて返した。

「あはははー。そうなんですね」

「……。そんなルーカスが、どうして君に興味を持ったのか。それも色々すっ飛ばしていきなり結婚だなんて……気になるね」

 そこで細められた、さぐるような厳しい目にソフィアは気付き、納得した。

(あぁ、そうよね。私が騙してる側だと疑われても仕方ないわ)

 ルーカスは貴族の子だ。きっといえがらほつした商人の娘のソフィアが、いろけでルーカスを落としたとでも思われたのだろう。

 彼は弟の事を心配している。

 だから口調こそ柔らかく対応しつつも、少しきついまなしを送ってくるのだろう。

 ソフィアがルーカスの発言に困っていたのも、浅ましい演技だと思われたのかもしれない。

(弟想いの、いいお兄さんなのね。弟はこんなだけど)

 とりあえず、ソフィアはおそるおそる口を開いた。

「……あの、エリオット様は、妖精って信じます?」

「は?」

「すみません。なんでもありません」

 ルーカスが自分に興味を持った理由を話してみようかと思ったけれど、信じてもらえそうにないと察して首を振った。どうやら彼は『祝福の瞳』を知らないらしい。

「変な事を聞いてすみません」

「いや。──なんとなく、ルーカスとの共通点がわかったような気がしたよ」

「共通点ですか?」

「この子もね、一時期……私の祖母が亡くなってすぐの頃から、妖精がどうのとか」

「私の……?」

 の、ではなくの、とエリオットは言った。瞳を瞬くソフィアに、彼は苦笑する。

「あぁ。私の母親は十二年前に亡くなっている。父上が迎え入れた後妻が、十年前にルーカスを産んだんだ。だから私の母方の祖母とこの子は、血がつながってないんだよ」

「は、はぁ」

 つまり、兄のエリオットはこの伯爵家の当主の前妻の子。弟のルーカスは今の妻の子。

 腹違いの兄弟という事なのだろう。そして時期からして、ルーカスはエリオットの母方の祖母から力を受け継いだという事か。

(そんな複雑な家庭かんきよう、私が聞いちゃっていいのかしら)

 困ったようなソフィアの反応に気が付いたのだろう。エリオットが苦笑する。

「貴族社会では有名な話だよ。かくしてなんかいないし、私とルーカスの間にはなんのへだたりもない、仲のいい兄弟だ」

 その仲のいい兄を相手に、ルーカスがどうして演技しているのかという疑問はあるけれど。

 つらい家庭環境ではないという事に安堵し、ソフィアはほっと息を吐いた。

(ルーカス様って十歳なんだ。それにしては小柄ね。もう少し下かと思ってたわ)

 そんな事をぼんやりと考えていたソフィアを余所に、ルーカスは無邪気な笑顔を兄へと向けていた。

「ねえエリオット兄さん。ソフィアさんはいい子でしょ? 結婚してもいいでしょ?」

「いやいや。いきなり結婚だなんて認められる訳ないだろう。ええと、そう……お友達だ。お友達になりなさい。見た感じでは、まだあまり親しい訳でもないんだろう。友達になってお互いに色々知って、それでルーカスがもっと成長した時にもまだ好きなら、その時には、私からも父上にくちえしてあげよう」

「えー」

「これ以上はゆずれないよ」

(まぁ、当然の判断だわ)

 ルーカスが成長して結婚を考えるような年齢になった時、ソフィアはもうとっくに結婚していなければならない年齢になっている。

 よほど嫁ぎおくれてしまわない限り、ルーカスの結婚てきれいわない。

 要はエリオットは時間を置いて、ルーカスにソフィアとの結婚を諦めさせようとしているのだろう。どうせ子供の一時の我儘だから、そのうちきるだろうと思っているのかもしれない。そもそも身分的に考えても、ありえない事だ。

「友達かぁー」

 口元に人差し指をあてた可愛いポーズで「うーん」と考え込んでいたルーカスは、パッと顔をあげる。キラキラな笑顔を急に向けられて、凄くまぶしい。

「ま、今はそれでもいっか。ソフィアさんがうちに来てくれるなら!」

「えー……」

「ふふっ」

 ルーカスがエリオットから離れてソフィアの方に走ってきた。

 そして今度はソフィアの腕に腕を絡ませる。

 なんのじようだんでじゃれられているのか、わからない。しかし突然、ルーカスの手がソフィアの二の腕の肉をぐりっと摘まむ。

「っ……!」

 服しだから凄く痛いという程ではなかった。

 それでもつねられて顔をしかめるソフィアに、キラキラの笑顔の圧力がかかる。

「ソフィアさん、絶対にまた遊びに来てね。お菓子を持って!」

「──はい……」

「明日ね! というか、毎日ね!」

「それはちょっと……」

「……」

「すみません。本当にちょっとそれは……」

「はぁ──。……じゃあ、すっごくさびしいけど、三日に一度でもいいよ」

 みようじようをしてくれたが、それにも首を振るソフィアに、ルーカスはびをして耳元で囁く。

「あと、今は友達で我慢してやるが、お前を娶るのを、僕は諦めないからな」

 強い、本気の声色にぞわりと背筋からかんが走った。

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妖精専属菓子職人(パティシエール) おきょう/ビーズログ文庫 @bslog

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