第27話 寧々の母親

「すぅ、はあぁぁ……」

 俺は少し息を吸い、鼻に微かな消毒液臭を蓄えた後、何回目かの溜め息をく。俺は人通りのあまりない廊下のソファに座り、目の前の病室を見ていた。その病室のネームプレートには『咲蕾寧々』と書いてある。あの後、救急車が到着し、寧々は最寄りの病院に運ばれていた。少し前に寧々の母親らしき人が病室に入って行った為、病室内からは微かに会話の声が聞こえていた。

「――寧々!目が覚めたのね!」

 少し大きな声で母親らしき人の声が聞こえた。どうやら目を覚ましたらしい。俺はソファからおもむろに立ち上がった後、また静かに腰を下ろした。目が覚めたのは嬉しいが、俺が病室に入るわけにもいかない。

「どうしようかな……」

 少し長く居座ってしまった為、帰るタイミングを見失っていた。そんな時、ふいに病室の扉が開いた。

「優斗君、少し良いかな?」

 扉から出てきた医師は優しく微笑みながらこちらに手招きをした。

「何でしょう」

 俺が医師のもとに着くと、医師は落ち着いた声で言った。

「寧々さんが目を覚ましましてね。優斗君に会いたいそうなので中に入ってもらえますか?」

 医師からそう言われ、俺は少し遠慮しながらも了承した。そして俺は医師の後を追い、病室に入る。

「優斗くん」

 俺が病室に入るとすぐ、寧々の声が聞こえた。その方向を見ると、ベッドに寝たまま首だけを傾け、うつろな表情で寧々がこちらを見ていた。目が覚めたばかりだからか、薬の影響か、心の傷が影響しているのかはわからないが、いつもの表情との違いを痛々しく思い、思わず視線を外す。足は拳上の為に上げてあったが、ほかに仰々しい機械があるわけではない。大事に至らなかった事に安心した。その時。

「寧々?どうしたの?急に泣き出して!」

 と言う寧々の母親らしき人の声に、俺は反射的に寧々を見た。寧々は表情を一気にゆがませ、大粒の涙を零していた。

「貴方、一体寧々に何をしたの!?」

 俺は、その怒声に驚きながらも声がした方向を見る。その時には寧々の母親らしき人が目の前まで来ていて、胸ぐらを掴まれた。俺は寧々の涙や胸ぐらを掴まれた事、怒声を浴びせられた事に動揺して、即座に反応が出来なかった。

「お母さん待って!」

 室内に寧々の声が響いた。先程の怒声よりも小さな声であったが、病室の全員に聞こえ、皆が寧々を見る。寧々は、すぐに言葉を続けた。

「お母さん、違うの、勘違いだよ。優斗くんは、私を助けてくれたの」

 寧々は未だ涙を流しながらも、必死に言葉で止めようとしてくれている。

「そう、なの?」

 寧々の母親らしき人は少し動揺しながらも胸ぐらを掴む手を放す。俺は解放され、少したたらを踏みながらもしっかりと立ち、再び寧々を見る。すると、寧々は俺の視線に気づき、こちらを向いて、涙ながらに微笑んだ。

「ごめん、なさい、優斗くん。迷惑を、掛けちゃって」

「迷惑だなんて思ってないよ。だから安心して」

 俺は即座に返答する。その言葉に寧々は少し涙の量を増やしながらも「ありがとう、ございます」と言って少し目を伏せた。そして少しの間、静寂が訪れる。寧々の母親らしき人も、お医者さんも、何を言うべきか思いつかずに、誰も声を発しない。そんな中、寧々が先ほどより小さく、ぼそぼそと声を発した。

「あの、優斗くん。……こちらに来てくれませんか?」

 ほんのりと頬を赤く染めた寧々が、涙を貯えながらこちらを上目遣いで見つめる。その姿に寧々の母親らしき人は、先ほどまでの状況を忘れたかのように優しく微笑み、少し遠い位置に設置してあったパイプ椅子にこしを下ろした。その行動を了承と取り、俺はしっかりとした足取りで寧々に近づく。そして寝台の横に立つと、寧々は俺に向かってゆっくりと手を出した。そしてこちらを見ながら訴える。俺は、その要望に従い、手を握った。すると寧々は、少しだけ力を込めて握り返し、俺の手を自分の顔の近くまで引く。

「ありがとうございます……」

 寧々はそう言って深呼吸をすると、体を震わし、嗚咽漏らした。

「っ……っ……優斗くん……」

 俺は、うまい返答が思いつかなかったが、その代わりに手をしっかりと握り返す事にした。すると、寧々は俺の手をより一層強く握った。

「すー……すー……」

「……寝たみたいね」

 しばらくすると、寧々の嗚咽が途絶え、規則的な寝息が聞こえてくる。その寝息を聞いて、寧々の母親らしき人が控えめに声を上げた。俺はその言葉を聞き、ゆっくりと寧々から手を放し、寧々の母親らしき人の方向を向く。

「私は寧々の母です。さっきは勘違いして、強く当たってしまってごめんなさい。それと、寧々を助けてくれてありがとうございました」

 寧々の母は、少し気まずそうにしながらも頭を下げた。俺はその時には動揺も落ち着いていた為、冷静に対応する。

「顔を上げてください。俺も少し思う所があるので……」

 俺が寧々の誘いを断っていなければこんな事にはならなかったかもしれない。そんな、選択一つで変わったかもしれない現実を感じ、俺は横目で寧々を見ながら悔しく思っていると、寧々の母はそんな俺の事を見ながら、優しい声話し始めた。

「寧々は優斗くんの事を信頼しているのね。最近、寧々は優斗くんの話を良くするのよ。あんなに楽しそうに学校の話をする寧々はあの時以来……優斗くんは、彩ちゃんの話、寧々から聞いたかしら?」

 俺は寧々の母の言葉に、少し顔をしかめ・・・ながら頷いた。寧々の母は「……そう」と一言言って、少し考えるように俯いた。そして数秒の後に顔を上げ、何か覚悟をしたようにこちらを見た。

「彩ちゃんが亡くなってから、寧々はずっと彩ちゃんを殺した犯人を捜しているわ。警察は自殺と断定したけれど、寧々はそう思っていないみたい。優くんに彩ちゃんの話をしたという事は、一緒に犯人を捜してほしいって言われたのかしら?」

「……はい」

 寧々の母は、声のトーンを少し落として言う。もう犯人捜しは諦めろと言われる気がした。

「……寧々の事をよろしくお願いします」

「え?……」

 突然の発言に、俺は意味が理解で出来ずに素っ頓狂な声を上げる。俺の反応に、寧々の母はそうなると分かっていたかのように補足し始めた。

「私は寧々にこれ以上苦しんでほしくないわ。それはきっと彩ちゃんも同じはず。だからもう犯人を捜すのは止めにしてほしい……でも、やめたとしても寧々の心の中に後悔が残ってしまう。……私はどちらが良いのか分からないの。なら、せめて寧々のやらせたいようにさせてあげたいのよ。でも、あれこれ一人でさせるのは心配で……。私が彩ちゃんの話を極力寧々の前で言わないようにしていたからか、捜していることとかを私に話してくれないの。だから、もし優斗くんが寧々と犯人を捜しているのなら、寧々を手助けしてくれると嬉しい。優斗くんには何の益もないけれど、お願いできるかしら?」

 そう言い終えると、寧々の母は深く頭を下げた。確かに、俺には何も益が無い。だが、もとよりそのつもりであった。

「顔を上げてください。分かりました、私の出来る限り寧々を手伝います」

 俺はそう寧々の母に言う。その言葉に寧々の母はゆっくりと顔を上げて「ありがとう」と言って微笑みながら、少し涙を流した。

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