天気予報の名人

 彼女はそう呟いて、大樹に体を預ける。

 ちょうど胎児のように膝を抱えた彼女がすっぽり体を仕舞い込めるだけの大きさの、うろが空いているのだ。腐葉土の上の、裸足の指。ヤスデやオサムシなど、ちいさな屍食者たちがとりついて這い上るのを彼女は観察する。眼でだけでなく、耳で、鼻で、露わになったふくらはぎで。くすぐったくて、笑う。痙攣した脚が地面の柔らかい泥土に飲まれていく。彼女の蹴り上げる土の匂い。混じって、海の潮と雨の匂いがする。すぐ傍からだろうか、波音が聞こえてくる。瞼を閉じた彼女の、笑顔の上で、小指ほどの太さのムカデがとぐろを巻いている。

――もうすぐ雨が降るのよ

 遠雷。稲光に彼女の横顔が照らされる。ミルク色の肌、薔薇色の頬、ふわりと閉じた眼。桜色の唇。

「へえ、そいつは確かかい?」

――私、天気予報が得意なの。外したこと、ないわ

 彼女を見る。その眼を。じっと待つ。瞼が開く。

 眼が合った。

――雨が降る。海に時化が来る。雷も鳴るの

「それはひどい」

――それだけじゃない。どんどん悪くなるわ。

 彼女は首を振る。

「ひょうが降る?」

――五月の風は竜巻のように吹いて、星や人工衛星が落ちてきて、人々の心は荒んで、殺人がたくさん起きる。戦争が起きる。マスタード・ガスの霞が街を覆うわ。銃弾と炎が家を壊すの。放射性物質の雪が吹雪いて、流行り病で死んだ人々の死体が路上に放置される。奇形の魚で海がいっぱいになる。

「最悪だ」

――ううん、最悪じゃない……

 彼女は眼を逸らし、苔むした樹皮を撫ぜ回す。傷一つない、白い、滑らかな、ちいさな掌を痛めつけるかのように。

――あなたは、その中を生き抜くの。

――どんな物語よりも恐ろしくて豊饒な現実を、老人になるまで生きぬく

――たくさんの戦いと、愛と、友情と、この世の本当の悪徳と、他者へのほんとうの思いやりがあなたの頭の上を通りすぎていくわ

 数匹の太いヒルが彼女の首に張り付いている。彼女の鼓動に合わせて、ヒルも蠕動する。

 細く細く流れる、彼女の髪から糸を張り、クモが地面へ向かって降りていく。

 彼女はいとおしげに唇をすぼめる。吐息が糸を揺らすので、クモは脚を畳んで耐えている。

「ヒロイックだ」

 彼女は屈託なく笑う。

――でも、一生かかっても、あなたは自分の生きる意味を見つけられない。死の床にあっても、あなたはあなたの人生を価値づけられない。すべての出来事はファクトでしかない。ファクトはあなたにとって、意味をなさない。

 夕立。

 むせかえり、嘔吐えづくような、雨の匂い。雨が舌を打つ。ほのかにい。雨だれが優しく、眼球を叩く。

 優しい雨。

 僕は五感のすべてを用いて、この場所この瞬間を記録しようとしていた。

――あなたはこの世のなにひとつを大切に思えないまま、生きて、生きて、死ぬのよ

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彼方 @wakefield

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