重すぎる、言葉は、世界に

「たったいま、砂漠に最初の雪が触れた。彼はフランカーから降り、空に手を伸ばしたが遅かった。曇ってはいなかった。まだ陽があった。青くはなかった。彩度を失っていた。風はもう吹き始めていた。その強弱に合わせて砂が上がった。小刻みに揺れた。体を叩いた。

 彼はバックパックから装置を取り出した。装置は鈍い銀で、四角い筐体から一本の蛇腹が伸びた。その先端は華氏で四百五十一度の熱を持つことができた。

 左掌に埋めた球体に彼が触れると、球体は彼に方向を教えた。風向きに歩いた。砂まじりの雪が装置を打った。さわがしく響いた。

 長く長く歩いた。体が軋むのを知った。球体が適切な量のアミノ酸を投与し、乳酸を濾過した。軋みは消えなかった。肉がつぶれ、骨は音を立てた。球体が新陳代謝を加速したが、追いつかなかった。遠く遠く歩いた。半ば砂と雪に埋まる建造物があった。彼は下部の壁を壊し、のぞいた。球体が照らした。

 書物、書物、書物、書物、パピルス、けものの皮、人の皮、木の内皮、粘土板、竹札、紙、ありとありとありとあらゆる材質、形式の書物。

 それらは螺旋状に降りて行く坂道の、外輪を覆う傾いだ本棚に並べたてられており、本棚は足元から天井まで長く伸びた。内輪は手すりのない吹き抜けだった。覗く彼の視界に、底は見えなかった。

 砂と雪が吹いた。明かりの中を落ちて行った。飛び、道に降り、仰ぎ、天井が可視であるのを確かめた。漏らしの無いように、最上部から作業することを考えた。

 坂を上がっていった。彼の握った手から光が漏れ、壁の上を大きな影が動いた。手の明りに合わせて壁石に軌跡が残った。仄かに明るみ続けた。甘い匂いに咽かえり、嘔吐くように思った。そうしながら登った。怖気ながら登った。空気を吐き出し、埃を吸わないよう努めた。なにか大きな石のようなものを越えたが、注意を払わなかった。最上部に部屋があり、ヘブル語の古い方言でなにか書かれていた。彼は扉を開いた。広い部屋の中に天蓋のついたベッドがあり、彼女がいた。彼女は本を寝台に置き、片足に顎を置いて読んでいた。彼は近寄り、彼女の言葉で尋ねた。彼女は本を閉じ、答えた。

『そうですわ』

 古のむかし、シナルに塔が建てられたころ、人々は塔を天まで高く上げるだけでは十分でないと考えた。人々は大地の下に降りて行き、塔の地下部位を建造した。台車は本を乗せて降り、土を乗せて登った。この作業は終わらなかった。

 塔が倒れ、淆亂みだれ――バベルと呼ばれるようになった後も地下の塔は残った。残った部分はあらゆることばで満たされた。人が神に抗するための手段であり、人に宿る神の部分である『ことば』によって満たされた。途方もない数の書物が集められ、収められた。

 それが彼女の知る限りのこの塔の伝承だった。彼女は塔の中で生まれ育ったのであって、塔の建造者ではなかった。彼女は言った。

『数千キュービットごとに泉と、パンの味がする土があって、生きることができました。あるとき、本の一葉を開きながらに死にかけた男がみつかりました。それが終わりでした。錯乱した男は、ここをクレタの迷宮になぞらえました。出口と深奥が一本の道に繋がれた、枝分かれの無い迷宮。私たちは一笑に付しました。あるものが尋ねました。枝分かれの無い路でどうやって迷おうというのか? 男は答えました。この迷宮は生きていて、形を変える。私たちが歩くよりもはやい速度で出口を遠ざける。もう一人が反論しました。ここには人を食らう怪物は居ない。男は四方を指しました。私たちは笑いました。そこには本しかなかったからです。私たちの大好きな。私たちの大好きな。そうして、私たちは紙と文字に溺れました』

 彼女はひと呼吸置き、胸に触れた。かすかに上下した。

『男は外界の権力者と通じていて、彼らにこの塔を危険視させることに成功しました。彼らは塔の入り口を永久に封じました。しかし、私たちには何の意味もなかった。私たちは読み続けることができたから。私たちは飢えながら読みました。暗みを手で探りながら。昔は仄かに明るんでいた壁石に張り付きながら。寝そべって、肌の熱を床石に伝えながら。流行病の齎す熱の、朦朧のもとに』

 彼は尋ねた。彼女は首を振った。

『私はその病で死にました。そう思います。しかし仲間が死骸から臓腑を抜いて、来る日に備えて残しておくよう考えていたことを知っています。私が目覚めたとき、私はこのベッドの上にいて、飾られていました』

 彼女は肌の上の腕輪を差し向けた。それは本の一葉で出来ていた。彼は背中の装置を起動させ、蛇腹の先端で触れた。腕輪は消失した。彼女は驚き、今の腕輪はヘラクレイトスの『自然について』にあった一文の切り抜きだといった。どこにやったのか尋ねた。彼は答えた。彼女は驚き、泣いた。縋り付いた。彼は部屋を出て、最初の本棚の前に立った。彼女は追い、彼を叩いた。騒がしく響いた。やめて、やめて、やめて、やめて。

 彼は装置をあげ、先で背表紙を撫ぜた。触れる端から、本は消えていった。彼はその動作を数度繰り返した。その間中彼女は泣いていた。本棚の上から下までを消していった。隣の棚に動いた。彼女は腕に力を込めたが、彼の動きは変わらなかった。彼女は足を取られ、転んだ。人の骨だった。彼女はそれがなにかわからないようだった。彼女は拾い、彼を叩いた。ねじ伏せようと試みた。彼は次の棚に向かった。一昼夜つづけた。彼の開けた入り口があった。周りの壁は光を吸って、明るんでいた。雪に触れ、彼女は声を上げた。

 雪、雪片、粉雪、細雪、淡雪、風花、初雪、処女雪。

 彼女の知っているあらゆる言葉で形容した。やがて、彼女は自身の肉体を投げだし、彼に口づけようとした。彼は拒んだ。彼が泣いているのを知った。彼は言った。

『重すぎる、言葉は、世界に』

 彼らはおのおのの作業を続けた。彼らは降りて行った。数日は砂をみることができたが、やがてなくなった。通信で、外の雪が止んだのを知った。彼の握った手から光が漏れ、壁の上を大きな影が動いた。彼らは降りて行った。彼は書物を消し、彼女は彼を叩いた。騒がしく響いた。彼らは降りて行った。この作業は終わらなかった」

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