三
うっすら目覚めると、まだ外は暗い。時間は3時を回ったところだ。一言で言えば、夢を見たというのだろうか。今でも記憶の奥底から汲み上げたようにたまに見る夢がある。
――10年も前のことだ。俺は冬のある休日、親に連れられ銀座を歩いていた。百貨店で旬の服や生活用品、そして俺のおもちゃを買ってくれたのだけど、かなりの量で俺も小さい体に荷物を持たされていた。
時間は夕方3時頃だったと思う。背後から怒鳴り声がして、振り返ると人々をかき分けてこちらに走ってくる男がいた。親は咄嗟に俺の身を引いてくれたのだけど、走りながら後ろを気にする男に荷物がぶつかってしまう。
男は倒れ込んで俺を睨みつけるも、直後に怒鳴り声を挙げて男に迫る警察官2人を見て慌てて起き上がり、そのまま向こうの人だかりへと姿を消した。
警察官は俺に「大丈夫?」と声を掛けてくれたけど、肝心の男は諦めてしまったらしい。まあそれだけのことなのだけど、妙に記憶に残る出来事なのだ。
あの男のその後はわからないけれど知らないうちに捕まったとか報道されていたかもしれないし、すごく気になることでもある。
ただ……あまりにも知るには遠すぎた。ぼんやりとした記憶に、メディアに残らない出来事からではどうにもならない。
そんなモヤモヤとした考えを時に浮かべながら、今日も朝がやってくる。誰がそうしたかは知れたことけど、ただの朝じゃないことくらいはわかってる。
いても立ってもいられず、俺はとりあえずテレビを付けつつリビングに出て冷蔵庫を見た。めぼしいものはあるけれど、せいぜいヨーグルトドリンクくらいのもの。
ストローが破れにくいのを気にしつつ、俺は濃厚なドリンクを口へと吸い込みながら六枚切りの食パンを2枚取ってグリルで焼き出す。8枚では期限内に食いきれないのと好みの問題もあるけれど、とにかく食パンは6枚に限るというもの。然うしているうち、片面が焼けてくる。
しかしどうも古いガスコンロはどこか調子が悪いというか、あまり長く火を付けていられない気がした。
俺は片面焼きでも構わず火を止め、さっさとマーガリンといちごジャムを面倒ながらもたっぷりと塗りつける。それに、昨日の残り物であるポテトサラダをついでにつまみながらと……ずいぶん軽い雰囲気の朝食である。だがそれも慣れたもので、実に愉快なものと思う。
それが終わると今度は顔を洗い、歯を磨く。俺は歯磨きをしてからしばらくは歯磨き粉のミント味のおかげで味覚がおかしくなるのを嫌っているから、朝食を先に摂るのは当然のことだった。
だからといってこれから何か口にするわけにもいかないわけだが、厄介なものを見つけてしまった。わかっておきながら冷蔵庫を開けると、さっきは無視したプリンが目に入る。
一応賞味期限を見ると昨日で切れていた。俺はできれば賞味期限を守りたかったけど、忘れていたものは仕方ない。少し時間を置いて、プリンをいただくことにした。味は最初は少し変だけど、後は普通。汁が多くて溢れそうにもなるが、大したことではない。あっという間に食べきると、テレビ画面に目が入る。
それはニュース番組での記録的な大ヒットだというアニメ映画の紹介だった。
(アニメか……ずいぶん見ていないなあ)
昔、自分はよくいわゆる少年漫画を原作としたアニメを見ていた。それがいつしか、どこかで懐かしみながらもとても遠いものだと感じ始めるようになっていた。とは言っても、そのアニメが少年向けというわけでもないし。
単にアニメという言葉から出てきた記憶の再生に過ぎないのだろう。ならばいい、都合が合えば見るとしよう。アニメ、久々の響きだ。
新しいことは特にない。引きずるように思い出してはその続きをして飽きたらまた思い出して別のことの続きをして、堂々巡りばかりで。でもそれが好きで好きでたまらないから、新しいものもたまには見つけたいから、全然いいことだ。
「ごめ〜ん」
雨の降る土曜の
「いいよ、おかげで冷たいコーラが飲めたから」
「え、えぇ……」
「気にしないで。じゃあ、どうしよっか?」
人数はいつかの日よりだいぶ少ないように思える。まばらに歩く人々はみな屋根のあるところに集まるはずなのだが、それ自体が少ないのだろう。
とりあえず上の階へ行くも、俺には興味がないことだ。何やら物色している彼女の後に付いていくだけで、実につまらない者で申し訳ないとも思うけど、何もしない自分が店に展示されてる姿見に映し出されていた。
ふとそれを見つめて、思わず首を横にする自分を彼女が呼んでいた。「ねえ、ねえ」と言って服が似合うかを聞く彼女に「いいんじゃない」なんて、確かにいいとは思うけど深く伝えるに至らない自分がいた。
店を出て通路を歩くとなんとも退屈になって、ため息も出てきていても立ってもいられなくなる。
「う〜、どこか入んない?」
「え? まだ早くない?」
「朝早かったし……コーラSサイズだったし?」
「それ関係ある?」
「ないかも」
しょうがないな~、なんて言いながら気が付けば最上階に着いていた。あらゆる系統の飲食店があるけども、入ったのはごくごく無難で少し場所に似合うようなパスタ屋だった。
意外と中は人がいて、大方二人組である。店員に案内されて腰掛けたのは窓際のソファ席で、窓を覗けば結構な高さから
俺が頼んだパスタはシンプルにカルボナーラ、彼女が頼んだのはペスカトーレ。好みと言っていたが、俺には合わないものだろう。
待っている間に、頼んでおいたソフトドリンクが来た。俺はアイスティー、彼女はドクターペッパー。これがコップで出てくるのはあまりないと思うが、とにかくこれも俺の舌には合わないものに違いない。
さらに2人前のシーザーサラダが来た後、ようやくパスタをフォークで巻き始まる。よく考えればパスタは食べてもカルボナーラなんて久々だなあ、なんて思いながら生卵を絡めていると彼女が自分のペスカトーレに粉チーズをかけ始める。カルボナーラにもかけてよ、なんて言うとこれでもかというほどかけてくれる。参ったなあ。
パスタを食べ終えると、比較的少食であるためこの量でもお腹はいっぱいになっていた。しばらくは楽にしていたいものだが、そろそろ時間である。
嬉しそうにする彼女には少しゆっくり歩いてもらって、エスカレーターを上る。そこは最上階のさらに上の映画館。黒を基調としたロビーは雨の日であることや、独自に設定された入場料金の割引日であるからか人が多い。
チケット発券機に表示された「好きという
漫画みたいなタイトルに思えるが途中から涙なくしては見られないらしく、女性を中心とした観客層によってロングラン上映に突入しているとか。上映時間表が縦までびっしりと並び、ロングランとは言え大人気作であることが窺える。
この後の11時50分の回は400席というこの映画館最大のスクリーンでの上映だが、さすがにある程度空いていて、すかさずスクリーン後方の席を取る。
ちょうど構内アナウンスが流れて入場時間を迎えたようで、次々と集まる観客たちに紛れてぞろぞろと自分たちの座席がある列へと入っていく。しばらくは緩い雰囲気に包まれていて、連れと話す人、スマホをいじる人が見受けられる。
上映前の予告が始まると少しスクリーン内は暗くなり、いよいよという雰囲気が強まってくる。それは、110分の映像を目に焼き付ける時が来たということだ。
「な〜にしょんぼりしてんだよ!」
「うわ、また出た。キノコマン。かなりキモいんですけど」
「それはいいんだけどさ、疲れてるの? 映画、面白くなかったか?」
「面白かったよ……やっぱり付いてきたのか」
「デートまでは知らな〜いよ?」
「はあ……ちょっと来いよ」
俺はあいつを雨上がりの河川敷に誘った。堤防から高水敷につながる階段に腰掛けようと思ったが、濡れていたのでやめた。階段前で妙な立ち話になるが、とにかく目の前に川が広がる。
ずっとこの川を伝っていけば家の近くに行けるのだが、ちょうどいい交通手段はないものか。そんな風に川の先を見つめる俺を、無言で待つあいつも心得たものだ。するとどこかに余裕も生まれてくる。
「なんか普通に終わっちゃってさ。そういうことじゃないんだけど、またね、みたいな感じで帰っちゃったんだよ」
「まだ彼女、余裕ないんじゃない? でもさ、映画館行けたじゃん。十分じゃないの」
「十分とかでもなくて、アユムってなんなのかなとか思ってさ」
「アユム……お前、アユムって言うのか」
「え、言ってなかった? いやまあアユムだけどね」
「自分くらい何か定義付けしておけよ」
そう言って、肩に手を軽く乗せてくる。と思ったら、あいつは堤防上の遊歩道に歩を進めていた。
「は? どこ行くんだよ」
「帰るんだよ。駅近くの川沿いに家があるって楽だな!」
俺からどんどん離れていくあいつがどこか恋しくなってくる。はたから見ればストーカー、良くて変人だけれども、態度の中にある気さくな内面と変に面白い外見が俺の中で混ざり合っていた。
「ちょっと、待て〜」
走る俺に感づいて振り返ったあいつは、逃げるように走り出す。そう、まさに俺から逃げるように。
「おお、なんだあ」
「お前の家に行かせろ〜」
「……だめだ!」
あいつは走る速度を落とさない。俺は久々に体力を消耗していくのを感じつつ、堤防を降りて住宅街へと入っていくあいつを追いかける。しかし、左へ曲がったあいつを見つけることはできなかった。
意気消沈して、俺は町を歩いた。まだどこかに居るかも知れない、そう思いながら。来たこともない、見ず知らずの住宅街を行ったり来たりするうちに大通りに出た。
気付けば日も暮れ始め、少し先に見えた牛丼屋の看板が俺を誘っているかのようだ。
牛丼なんて、と思いつつ俺が入った
どうも俺には合わないと思っていたから、思い返せば十年は入っていないんじゃないかという気もする。
いらっしゃいませ~、と、閑散な店内に響き渡る店員の声。それに加えて流れるノリのいい音楽が場に遭わない。あまり慣れない食券機の前に立つ。
牛丼並とか、大盛りとかもあればチーズ並とか、ネギ並とかのメニューがタッチパネルに表示されている。
ゲームをしているようだが、俺はとりあえず牛丼並を押して面倒なのでICカードで支払った。出てきた食券を店員に渡し、近くのカウンターに腰掛ける。
他の客を見てみると、端のほうのカウンター席で牛丼を食べるおじさんと、ソファ席には声のうるさい親父が子供と定食を食べていた。
なにやら子供が飯を食べるのが心底可愛らしいようで、笑顔が絶えない。しかし声を出せばやはりうるさく、時折笑い声を出せばそれはもう、というものだった。
すると、あっという間に牛丼と冷えた麦茶が机に置かれた。机の箱に備え付けられた箸を取り、紅生姜を少々牛丼に乗っける。
しかしここで何かがすっぽりと抜け落ちているように感じられた。
「卵、卵だ」
思わずそうつぶやいて、そっと店員のいる方へ顔を向ける。厨房の方ではなにやら作業する店員が見えた。そうなると、店員を呼びつけるということの気が引けてくる。
それに面倒なので、このまま食べることにした。文字通り何の飾り付けもない牛丼という味だが、個性はある、そんな味だ。だらだら食べるうちに気付けば他のお客さんはみんな帰ってしまったようで、店内は俺一人。
そんな中でも店員は黙々と厨房に閉じこもっているように作業をしていた。
俺が店を出るまで誰も店に入ることはなく、牛号屋は客のいない店になっていた。店に出るとまず、見慣れないしここがどの辺であるかもわからない。
どうしようかと車は頻繁に通るのに歩道は自転車がたまに通るくらいという大通りを可能な限り見渡してみる。
この道の少し先にバス停のポールが見えた。俺はもしやと思いバス停に書かれた行き先を見てみると「
さっき川の公園で思っていたことがそのまんまここにあったんだと思うとスッキリした気分になれる。そう、ちょうど良くって半端でたまらないけれど、とても近くて意外なところに連れて行ってくれるんだ。
何分か待ち、見慣れた赤と白のバスがやって来た。乗り込むとまあまあというべき人数のお客さんが乗っていた。動き出す車両の反動に気を付けつつ最後尾の座席に腰掛け、車内の様子を見つつ外の景色も高らかに眺める。少し暗いが、それもいい。
そのうちにバスは調布に着いて、まだ家までは電車とバスを乗り継がなければならないのにもかかわらず、妙に早く着いた気がする自分にわかっていながらもなんだか違う、と言いたくなる。
それはそれとして、あの男はどこへ行ってしまったのか。やはり家に隠れ入ったと見るのが普通だろうが、なぜそうする必要があるのか……考えても仕方のないことを一区間だけ乗る特急電車の中でじっと考えて始めていた。
地下から出た車窓に一瞬、西日でシルエットになる
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