幽霊花

ことねくたー

幽霊花

 幼子のときの鮮烈な記憶は時を経ても昨日のように思い出されるもので、人の中に深く息づく。それはさながら産土うぶすな様のようでもあり、古来より人々はそうしたものも自らの中に在る尸童よりましとして捉えているのではないかと曽祖父はよく言っていた。そんな話を目を輝かせて聞いていたころも今思えば懐かしいが、父の初盆を迎えたあの日ほど心に残ることはこの先もそうないだろう。

 私の父が亡くなったのは小学生に上がりたての頃で、仕事中に不慮の事故に遭い亡くなったのだそうだ。当時私が滑落なんていう難しい言葉など理解できる訳もなく、母は「私を捨ててオニと結婚したのよ」と不満な様子で私に説明していたが、私には寡黙で実直な父がそういうようなことをするとは到底思えなかったのでこっそりと家を抜け出して"オニ"がいるという深山幽谷へと分け入っていった。

 山へ入ると昼間だというのに仄暗く、沢伝いに歩いてきたからか湿気た土の匂いが辺りを蔽っていた。迷わないよう持ってきた刃物で木の幹に傷をつけながらさらに山の深くまで分け入っていく。しばらく進むとどこからともなく声が聞こえてきていた。私はその声の主が誰か、何を言っているかも聴く暇なく声の元へと本能的に向かっていた。夢中でかけていくうちに膝小僧は擦り剥け、身体は泥で塗れ、息は絶え絶えになっていた。そんな中、ある場所に着くと声が一方からだけでなく四方八方から聞こえてきた。辺りを見回すと自分が来た方以外はすべて岩場でこのまま戻るしか術がなくなっていた。しかしその時空は天の岩戸が閉じたように暗くなり、風は黄泉より吹き込んできたような嫌な臭いを運んできていた。程なくして雨が強く降り出しそれで初めて自分の立場を悟った。私は"オニ"に魅入られたのだ、と。

 自分の軽率な行為を後悔するよりも前に父のように鬼籍に入るのだという考えが浮かんできたが、それでも私は不思議なほど冷静だった。雨が降りしきる真っ暗闇の中、沢に落ちる危険もあるのに来た道を注意深く戻っていく。そのうちにまた別の声を聴く。『わらべやこいこい、わたるにゃはやい』

 ふと気づくと、自分の周りだけがほの明るくなっている。何か一筋の光明が射した気がして私はまた我を忘れて足を動かす。濡れた地面で足を滑らせないように。

永遠とも言えそうな時間歩いた気もする。身体は冷え切って動かなくなっていきいよいよここまでかと思ったとき、暖かく逞しい腕に抱き上げられた。曽祖父である。「お前さん、息災だったか」

その一言を聞いて私の意識は闇へと消えた。


 その後どのくらいの間眠っていたのであろう。次に目を醒ましたとき、私は手に何か不思議な石を握っていた。その後は何事もなく皆が普通の生活へと戻っていったが、あの黒い石がはたして何なのか、あの体験が何だったのか完全に理解するにはあれから八年もの歳月がかかった。今ではもう優しく逞しい曽祖父は六文銭を船頭に払ってしまい、あんな信じがたいことを言っていた母はもう私の許にはいない。結局父の死も不可解な点が多すぎて、当時のことをそのまま鵜呑みにしたようでは父に申し訳ない気がしてしまう。けれどあの件がなければ今の私も無いわけなので複雑な気持ちでいっぱいだ。一体この世は何が真実かはこの地を視る神様にしか分からないのであろう、けれど自らが信じたいものを信じればいい、それだけのことなんだと強く感じた一件であった。

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