なりかけ-5

「こんばんは、少しお話しないかい?」

「巽教授、まだ、お帰りになっていなかったんですか」

 よろよろのスーツ、首に蛇のように巻きつけたしおれたネクタイ。くたびれた風貌の彼に言葉を投げかけられ、僕は思わず震えた声を返した。嫌な予感が身体を駆け巡っては自身の身体を壊れそうなほど膨張させる。

「そんなに驚かなくていいじゃあないか」

「いえ、珍しいな……と思いまして」

 言葉が震えておぼつく。何を話すことがあるんだ、僕と何を話せるというのだ。巽教授が僕に何を期待して話そうとしているのだ。

「何も怖がらなくていい。ただ話そうと言っているんだ」

 暗くて顔がよく見えない。どんな表情をしているのか見当がつかない。でも彼の周りから変なオーラがまとわりついている。それが僕の周りまで侵食してくる。気持ち悪い空気が僕の中に入り込んで、それを拒むこともできない。吐き出しても瞬間的に五臓六腑に無理やり染み込んでしまっている。

「君は、才能のない人間はどうなるべきだと思う?」

 唐突に投げかけられた言葉に、僕は唖然とする。突拍子もなさすぎてとっさに返事ができない、その意味深長な言葉について考えられない。何を言えば正解なのか全くわからない。

 そして彼はため息をして僕の目を見据える。暗闇の中で彼の目は蛇のように光って、瞳の奥まで入り込んでは僕の考えていることさえも見透かされているような気がする。

「私はね、そこら辺にゴロゴロいるそいつらはどうしようもないと思っていた。でも私は奇跡を見たんだよ、昔の話だけどね」

 才能。僕はその存在に、その言葉に苦しめられてきた。母が僕に押し付けた、何よりも重いそれが巽教授の口から出てきた瞬間、頭が締めつけられる。

 なんの話をしているんだ。それを僕にする意味は? 意図は? これはどんな罰ゲームだ。自分のトラウマが掘り返される感覚が怖くてたまらない。

「才能が、無くたって。自分らしく生きることを、否定なんか、できません」

 絞り出した言葉の節々が震えていた。そう思っているのは確かだ。でも強く言う事はできなかった。巽教授の前では強く言えない、不思議な魔力みたいな壁があるように感じられる。それに阻まれて自分の言葉が届かない。

「そうだよ、そうなんだよ」

 僕の言葉に何度も頷く。

「才能は縛られない。もしかしたら別の分野で開花するかもしれない、人生はそれを模索する。だから否定はできないはずなんだ」

 意図が見えない。言葉を必死に理解しようとして、彼の口から出ている言葉の糸を手繰り寄せる。しかし引っ張っても先が見えないほど長すぎる。

 もしかしたら理解すること自体杞憂なのか?

「でもね、私は許さなかったんだよ。美術分野で才能がないことが。それ以外で才能を発揮させられることが。私の前で才能のへったくれもない絵を描くことは、私自身もプライドも許さなかった」

 誰のことを言っているんだ。彼は内に秘めてる憎悪を吐き出している。何のために、誰に向かって吐いているんだ。

 一方通行の会話の中で、僕はある人物のことを思い浮かべた。

 ぴったりと当てはまった。誰のことを言っているのか分かってしまった。それを信じたくなくて虚空に首を振る。

 巽教授は、そんな僕を見て口角を上げた。気持ちの悪いオーラが増幅したのを肌で感じた。

「才能のない私の子が、天啓を与えてもらったんだ。才能のある子になったんだ」

 浮かべた笑みは邪悪だった。

 そして僕は確信する。いなくなった彼女は、関係している。若干分かっていたことではあった。心臓の高鳴りが止まない、心拍数が急激に増える。不自然に鼓動が揺れ動く。

「それと、僕に何の関係が」

 僕は非常に汚い人間だ。一瞬、自分が朱莉と関係ない人物だとして話を進めようとしてしまった。

 最初に彼女と出会った時、僕は確かに恐怖を覚えた。でもその感情は大したことなくて、ただの杞憂に終わった。

 でも今回は本当に怖くて仕方ない。何をされるのか分からない。たまたま受けていた講義の教授だった彼が、得体の知れないものにしか見えなくなった。変貌を遂げた彼は僕を睨めつける。それに伴い、舐め回すような悪寒が身体に纏う。

「朱莉は私の娘でね」

 言葉が脳を揺さぶる。話の流れからそうなんだろうな、と理解していた。だけどそれが事実として改めて突きつけられて、頭をガツンと殴られたように一瞬脳が働くことをやめた。

「才能がない子だったよ。芸術家であった私と妻の影響で絵を描き始めた。私と妻の子供なんだから、当然サラブレッドだろうと思っていた、けれどそんなことはなかった。彼女の描く絵は才能を感じなかった。まったく、大成しない」

「そんなの……彼女が幼かったからまだ技術が伴ってないだとか……考え方が、一方通行すぎる」

 確かに彼は美術界でも有名な専門家で美術家だ。そんな彼の目から見たら足りないものがあったのかもしれない。だけど、それだけで決めつけられるのはあまりにも彼女がかわいそうで、エゴを押し付けられているにすぎない。

「でも妻は優しいから彼女の絵を褒めた。そんなの気休めだろうと思っていたけど、放っておいた」

 僕の放った言葉を無視して勝手に話を進める。

「でもね、奇跡が起きたんだよ。君だったら分かるはずだ。私の娘に悪影響を与えた、君ならば。ね」

「ゴッホが、祝福として宿った」

「そうだね、そうなんだよ。娘があの壮絶な人生を歩み、その果てに生み出したカオスな絵々を描いた天才の絵を、本物として描けるようになったんだよ。これは素晴らしいことなんだ、君が思っている以上に何倍も何十倍も」

 僕は絵の価値なんか分からない。でも彼の言っていることも分からない。

 朱莉はそれに苦しめられてきた。自分の絵が『彼』によって阻まれていた。自分の表現が、自分の色が出せないことに淀んで自分自身を隠していた。

 素晴らしいというのは誰目線の話なんだ。もちろん、朱莉目線の話ではない。僕の目の前にいる自分勝手なモンスター目線だ。自分目線の話でしか物事を語れていない。自分の子供を何だと思っているのか、理解に欠ける。

 ふつふつと水が沸騰しかけるほどの怒りが頭の頂点まで昇る。でもそれは行き所のないもので、それを少しでも解消するために拳を握る。

「私の子供が才能に溢れる人間になれたんだもの。やっと才能ある人間と同じスタートラインに立てた。素晴らしいことだ、だから私は喜んだ」

「でも朱莉は!」

「そういえば君は、娘の描くゴッホを邪魔してくれたみたいだね」

 声が地の底に這っている。しゃがれた声はビブラードを揺らし脳に直接恐怖を植えつけてくる。嫌になるほど脳内に残る声だ。

「邪魔だなんて、それは」

「邪魔なんだよ君は。私たちの」

 声を遮って僕を言葉で突き飛ばす。理不尽な出来事に僕は何もできずただ目の前を眺めるしかない。

「君たちが変なことを吹き込んだらしいね。何を吹き込まれたかは言ってはくれなかったが、ね。そのせいで乱れた。ゴッホの絵が、世間に嘘つき呼ばわりされたよ。本物が、贋作扱いだ」

 ハハハハハ、と笑い声が暗闇でスーパーボールのように反響する。反射して何度も僕の耳に届いてくる。

 朱莉がいなくなったのは、やはり彼女の描いた【ひまわり】の贋作疑惑のニュースが関係している。いつのまにか贋作疑惑のニュースは風化していて、何事もなかったかのように世間は動いている。詳しくは調べていないが、もしかしたらあのニュース自体がなかったかのように存在ごと消されているのかもしれない。

 彼に理不尽に言葉をぶつけられて逃げてきた僕にできることは、まだある。僕が知っていると思い込んで勝手に話す彼の言葉から、情報を掴むんだ。そのためにも一つも聞き逃すことはできない。耳を澄ましてすべてを、それ以上を聞くんだ。

「祝福は魔法みたいなもので、世界中の人間にかかっていた『本物と認識する』幻が解けそうになったのは正直驚いたよ。何をやったかは知らんが、ね」

 魔法……確かにこの不可思議な能力、現象を一言で説明するにはそうなんだろう。しっくりしてしまう自分が嫌になるけれども。

 じゃあなぜその魔法が解けたのか。僕は巽教授と対面している水面下で考えを巡らせる。

 僕たちが悪影響だと言っていた。僕の他は、レンさんのことだろう。何かした、と主張しているものの何かした覚えはない。悪影響は言いがかりで、じゃあ彼がそう思った理由はなんだろう。

「とりあえず忠告だよ。朱莉は美術界の宝なんだ。君らごときが付き合ってはならないんだ」

 ダメだ、このままでは「もう会わないでくれ」と会話が打ち切られる。そして朱莉と二度と会えなくなるかもしれない。情報が掴めない。目の前にいる奴が一番情報を持っているのだから、逃すわけにはいかない。

 言葉を模索しろ。

 彼の気をひく言葉を言え。

 そして、僕とも彼女とも向き合わせるんだ。

「そこまで、大切なはずの娘の絵じゃなくて『彼』の絵に執着するのは、何でですか」

 眉がぴくっと動いた。

「なんども言う。彼女には才能がない。『彼』には才能がある。有識者がどっちの絵を見たいかは明白だろう? ああ、私たちは恵まれている。現代で才能溢れる『現代の彼の絵』が見られるのだから」

 両手を広げ、天を仰ぐ。自分に酔っている。彼自身は何もしていないはずなのに、それでも、自らの欲望が実現しているという酒に溺れている。

「本当にそれだけなんですか」

「……何がだね」

「現実では起こりえないはずの、奇跡みたいな魔法が現実で起こったことは僕の目からも確認できた。だから、それを崇拝するのはあながち間違いじゃない。そうかもしれない」

 訝しげな表情が見えた。暗闇に目が慣れて、よく彼の表情が、瞳がよく見える。さっきまで光っていたような目の灯火はなかった。僕をまっすぐ見据えていた瞳は横に逸らしていた。

 どんな言葉に、動揺した?

 彼女に『彼』の絵を描かせる目的が他にもある。と仮定すればどうだろうか。

 建前は現代の絵を見たい。建前があるなら本音が隠れている。本音は何だ、何が隠れているのだ。

「逆に聞こうか、佐伯くん。他に何があると思う?」

 ある程度気を引けたようだ。僕に対する興味を失わないでくれて良かった。まだ、情報は死なない。

 まだどんな目的があるのか分からない。ここからは自分の想像力との戦いだ。

「……あの講義が終わった時に、友人に聞いてみました。朱莉のような能力を使えたとしたら、と。そしたら、価値があるからお金を儲けるだろうと答えてくれました」

 自分の言葉を脳内で反芻させる。そして、自分の言葉に驚く。

『彼』の絵が本物だと認識されているならば、それ相応の価値がつくのは当たり前だ。そしてそれを売って金を儲けることができる。

 当たり前のことを何度も頭に巡らせる。その当たり前を失念していた気がする。

 朱莉の絵をそこまで執着する理由がそこにある、気がする。平凡な答えだろうか。しかしそれでも辻褄が合わないわけではない。

「朱莉の絵は本物の『ゴッホの絵』、それを売って生計を立てないといけない状態……なんじゃないですか?」

 彼がしつこく僕に詰め寄ってきたこと。近づくなと言われたこと。その理由は、その能力がないと経済的に生きていけない状況にあるから……としか考えられない。

 彼女自身が描き続けないといけない理由が自分の経済的事情ならば、確かに自分の意思を押し殺してまで親に従わないといけないのだろう。

 そしてそう言い放つと巽教授は目を伏せた。十何秒ほど長く息を吐いて伸ばす。口から飛び出す小さい風音が、ピンと張りつめていた空間を切り裂くように響いていた。

「残念だ、随分と平凡な答えだね」

 今度はため息に変わっていく。伏せていた目をキッと僕の瞳の奥を見据える。悪鬼に睨まれた感じがした。思わず逸らしてしまった。

 これ以上目を見つめられると、自我が崩壊してしまうような感覚に陥ってしまう、それをまだ生きている人間としての本能が察知してくれた。

 怖い。そんな感情が全身にまとわりついていた空気を揺さぶっては自分の穴すべてから体内に入り込もうとしている。

 脳が痺れた。経験したことのない悪どいモノがチクチクと脳をぶっ刺しては抜いてを繰り返し行われた。

「平凡が嫌いなんだよ、私はね。やはり君もそうだ。何も私を揺さぶらない、平凡だ」

 心臓の鼓動が一瞬止まった。あれほどさっきまで内臓を跳ねさせるほど弾んでいた心臓の鼓動が、死ぬ直前のように止まってしまった。

「おそらく君は私の深層心理を探ろうとした、だけど君のような平凡な考えではたどり着けない」

 僕は戦慄した。

 もう二度と彼女に会えない気がした。

「私たちの夢を、邪魔しないでくれ。だからもう二度と娘はお前に会わせない」

 彼は背中を向けた。僕はなんとか引き止めようと手を伸ばして肩を掴もうとした。だけど、その手は届かない。掴めない、いや掴ませなかった。

 僕に向けた背中は、小さかった。遠ざかっていく背中はさらに小さく見えた。

 何を背負っているからこんなにも小さいんだろう。それほどまでに重いものを背負っているのだろうか。

 小さく芽生えてしまった同情のせいで彼を引き止められなかった。

 そうか。僕は勘違いしている。

 さまざまなファンタジーに存在するものだ。それは、主人公側は絶対の正義で、敵側は絶対の悪。だから敵側は正義に倒されることで、見てる側はある程度の爽快感が得られる。

 でも、それは違う。絶対の悪なんかじゃない。敵側には敵側の正義がある。

 主人公と敵がそれぞれの正義が正しいかを主張するかのように戦いぶつかり勝つことで、自分たちの正義を証明する。

 だからキャラクターたちは戦う。正義と悪が戦うなんて稀だ、駄作だ。

 正義と正義が戦うからこそ面白いんだ。

 それと一緒で、僕は巽教授を悪だと思っていた。子供を縛り付けて自分のエゴを押し付けている悪だと勘違いしていた。

 でも彼には彼の正義があるとしたら。朱莉のために、娘が絵を描かなければならない理由を守ろうとしているならば、それは立派な正義だ。

 じゃあ僕はどうだ? 悪を排斥しようとした正義か? 違う、自分には都合が悪いからといって悪だと決めつけて、自分の正義を押し付けるなんてそれこそ横暴な人間で、そこらへんのヤクザと変わらない。

 今僕に彼女を助けなければならない正義はあるのかと問われれば、曖昧だ。

 彼女が産まれてからずっと一緒にいたであろう人の、大切に心にしまってあるものに勝てるわけがない。

 僕が敵側で、彼が主人公側だ。

 彼の小さくみえた背中にはそれほど大きな責任を背負っていると感じた。だから手を止めた。

 伸ばした手を胸に引き寄せてギュッと握る。

 どうしようもできなかった自責と大したことない自身の正義が僕の責め立てては心臓を締め付けた。

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