なりかけ-4
「じゃあ、今日で私の最後の授業だったね、半年間お疲れ様。一週間後までにレポート提出だから、忘れないように」
しゃがれ声を喉から掻き出しながら巽教授は教壇で笑顔で言っていた。
「レポートは前に伝えたように、展覧会とか個展とか何でもいいから行ってその感想だよ」
教授の言い方はすごく優しいが故に、教室はすでに放課後のように学生の話し声で溢れかえっていた。それを見かねた教授は、深く息を吐いたのちに、
「私はいろんなとこに観に行っているから、その美術館や展覧会の内容を知っている。だから行ってなくて適当に書くのは許さないからね。よろしく」
そう言うとシーン、と一瞬の静けさが教室を支配した。そのようなことをしようとしていた人たちが釘を刺され、その瞬間スマホを取り出し近場の展覧会を検索し始めた。
あらかじめ晴人に誘われて良かったと安堵した。
「じゃあそういうことで、お疲れ様」
巽教授は一瞬、僕に目を向けた気がする。しぼんだまぶたから覗く瞳が僕をがっちりと見据えた。一瞬であろうが、その奥々に吸い込まれそうな感じがした。
そして彼は不機嫌そうに教室を出る。その背中は横暴な、そんな感じを受けてしまった。
「なあ大雅。前までは放課後あんなに急いで帰ってたのに、今日はゆっくりなんだな。なんかあった?」
講義がやっと終わって、晴人が近づいて話しかけてきた。確かに彼の言うようにこの講義だけでなく、その日の最後の講義が終わればいそいそと帰って、朱莉がいる公園へと足を運んでいた。
でも今日からはもういいかな、と思ってしまってそれが行動に出てしまっているのだろう。
「あったといえばあったよ。何もなかったんだけどね」「意味分からん」「まあ言葉通りだよ」「ますます分からんけど」
淡々と言葉を重ねていく。軽くノリよく会話する感じが懐かしいとすら思ってしまう。晴人は息をついて僕を軽く一瞥する。
「今まで何やってたんだよ。俺たちの誘いも断ること多いし……あ、もしかして女か? 女なのか!?」
あながち間違ってはいない。興奮したように詰め寄ってくる。間違ってはいないのでうーん、と悩むふりをするとやっぱりそうなのか、と少し落ち込んだ表情を見せた。
「やっぱりか……悲しいぞ俺は」
「そんなんじゃないって」
軽く笑ってごまかす。
一連の不可思議な体験を彼に教えても頭おかしいんじゃないか? と言われそうだ。現実的に物事を語れる人間だからおそらくは信じない。
「なあ晴人」「どうした、そんな怖い顔して」
もしだよ、と僕は語りかける。そういうと彼は険しい表情になる。
「もし自分にさ、偉人の能力が使えたらどうする?」
「能力? ずいぶんと突然だな。なに、最近そういうアニメでもあるの」
「そういうわけじゃなくて。例えば亡くなった著名な画家と同じ技法が使えて、描いた絵がその人の本物の絵だと認められるなら、どうしたい?」
「哲学みたいな質問だな。そうだな……その絵には価値が付くだろうから売る、かな」
一般的な回答だろう。僕も最初はそのような理由で描かされていると思っていた。実際は、もしその人が現代に生きていたら。というifを有識者たちが楽しむ目的らしいのだ。本当に金儲けの視点はなかったのか。
「じゃあ、急に使えなくなったらどうする?」
「落ち込むだろうなぁ。だってそれまで稼げていたのに、急にできなくなったら困るよ」
けれど彼女はそうなっても嬉しそうに笑っていた。彼女にとってお金は問題じゃないのは分かっていた。じゃあその状態であった朱莉は何故いなくなったのか。
「とりあえず、ありがとう。多少分かった気がするよ」
「いや全然わかんねーわ」
自分で満足げにうんうん、と頷くと晴人から冷静なツッコミが返ってきた。思わず頬を緩ませた。
「ま、それが何に関係するか分かったものじゃないけど、聞かないでおくよ」
「そうしてほしいかな。僕もわからないことだらけなんだ」
「役に立ちそうなら良かった。ま、あとで整理がついたら教えてくれ」
そう言うと彼は思い立って立ち上がって、カバンを肩に担いだ。
「バイトあるの思い出しちゃった。じゃ、そういうことで。また遊ぼうな」
彼は僕に背を向けて去っていった。一時期、僕は本当に落ち込んでいた。朱莉がいなくて喪失感に打ちひしがれ、話しかけられても素っ気ない態度をしてしまったこともあった。だけど、今のように気を利かせてもらうことが多かった。空気を読んでくれる人で本当に助かった。
彼女にとって絵を描く目的というのは何だったんだろう。そういえば分かっていない、考えたことがなかった。
単純に考えれば……単純な思考をしても思いつかない。ただあの能力の傀儡になっているにすぎなかったのか?
分からないからイラついて思わず頭を強く搔く。何かを失念している気がする。朱莉がいなくなった理由がそこにある気がする。でも分からなくてさらに自分が嫌になる。
ため息をつく。息を長く吐いて自分の吐き出した息をきれいな空気中に混ぜる。淀んでいったのが感覚的に分かった。
考えながら帰り道を歩こうかと僕もリュックを背負って教室を出ようとする。そして廊下はトンネルの中のようにすっかりと沈んでいた。
そうか、もうこんな季節なのか。寒くてたまらない。暗いとなぜか身体に深く冷たさが刻まれる感じがする。
ゾッと背筋を舐めるように気配が長い長い空間から感じる。どこからだろう、と後ろを振り返ったり前を遠い目で見据えたりした。けれどもその気配を察することはできなかった。その気配が僕の身体を気持ち悪いぐらいまとわりついている。
一歩歩くたび身体が浮かされている。足がおぼつかない、そんな不可思議な感覚だ。
「佐伯くん」
声がする。さっきまで耳に残っていた、かすれた声。いつの間に目の前にいた。出現していた、エンカウントしていた。暗闇の向こう側から死神のようにヌッと姿形を現した。
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