LEVEL28 / コピペが絶対ダメな理由

 ゲーム感想文が書ければ読書感想文が書ける……智恵子はゲームをやらないが、その感覚は何となく理解出来た。


 「でも、玉野先生」

 「私ですか?」


 先程さきほどは和久井に突っかかっていた智恵子の矛先ほこさきが一点、どういうわけか玉野に向かう。


 「うちの子がコピペというのはぎぬです!」

 「それは分かってますよ」

 「じゃあ、何で!」

 「コピペだからです」

 「どっちなんですか!」


 玉野にとって月城陽菜は「真面目な生徒」という印象だった。その真面目な彼女が彼女がコピペサイトを使うというような「ズル」はおそらくないだろう。


 「そもそも、手書てがきの文章なのに何でコピペだと言うんですか?」

 「似てたんですよ。の文章と」

 「似てた?」


 読書感想文において優れた文章が書かれていた場合、教師はそれに感心するよりも先に「コピペサイトを利用しているのでは?」と疑うことが多い。まして、その内容が中学生内容。例えば世の中を批判的に見る。あるいはビジネスや法律、哲学といった話を引き合いに出したりする文章だ。


 「学校で習っていない分野を完璧かんぺきに理解しているとすれば……」


 それは本人の実力ではなく大人の力。即ちコピペ、もしくは親や塾等の人間による「代筆だいひつ」あるいは「智恵ぢえ」ではないかと疑う。


 もちろん、インターネットが発達していなかった時代はそうではない。単に「上手うまい文章」として評価されただろう。しかし、今の時代はそう純粋に信じられない事情が存在するのである。


 コピペ率をチェックする方法は簡単だ。まずコピペサイトにあった文章をコピペする。そして次に、提出された「オリジナルの部分」だけ、新たに書き換える。


 そしてコピペチェックツールのソフトで判定をする。


 100%コピペであれば、そもそも教師が書きなおす部分は存在しない。コンピューターの判断にゆだねるまでもなく「クロ」だ。


 しかし、文章の部分をいくつか「改変かいへん」しているとなると、そうではない。そこで改変したと思われる場所を「打ち直してみる」のである。


 玉野の感覚だと、自分が打ち直した部分は少ない……したがってコピペの疑いがある内容と判断した。そして結果は「87%」……即ち「コピペの疑いあり」である。


 「でも先生、うちのむすめがどういうか知っているでしょう?」

 「もちろんです。そんなことをする子ではありません」

 「じゃあ、どうして……」

 「私以外の人が見るかもしれなかったからです」


 彼女の作文は出来が良かった。もしコピペサイトと同じような内容を「サイトを見ないで」仕上げたとすれば、その実力はがみつきだ。そして実際にそうだった可能性はある。


 だが、彼女の人となりを知らない不特定多数ふとくていたすうの人間が、その実力を「今、目の前にある作文」だけ評価した場合、どうなるだろうか?当然だがそれは「コピペ」あるいは「盗作とうさく」と評価されるだろう。


 「先生以外の人って誰ですか?」

 「コンクールの審査員しんさいんです」


 彼を含め、国語教師が読書感想文のコピペにきびしい理由は2つある。


 1つは自分で考えない。いわば「ズル」を容認ようにんした場合、真面目に課題をこなした生徒との間に不公平が生じてしまう事。


 そしてもう一つはコピペされた文章の「レベルの高さ」である。


 コピペサイトの「原文」を書いているのは、例えば予備校講師やフリーライターといった「文章のプロ」が多い。当然だが彼等の文章は完成度が高く、同年代の中学生の書いた作品と比較した場合は文字通り「大人と子供」。あるいは「雲泥うんでい」である。


 そのような文章を、仮にコピペが存在しないという前提で見た場合、教師はどう思うだろうか……


 当然、それらの文章が「もっとすぐれている」と思う。そして、その文章を「みんなが見習うべきお手本てほん」として紹介しようと考える。


 いわゆる「読書感想文コンクール」は、そんな傑作けっさく舞台ぶたいといってよい。そして当然だが、彼女の作品もコンクールに出展されるレベルの作品だということになる。


 だが、これは同時に多くの人の目にれる事により、その「素性すじょう」が知られることを意味する。当然だがコピペそのもの、あるいはコピペ率の高い文章は「不正行為」とされ、仮にその作品が入賞したとしても取り消されてしまうだろう。


 それだけではない。そのような事態となれば当然、文章を書いた本人は非難の対象となる。そしてその時、不正がなかったと証明する方法は基本的に存在しない。


 「コピペをしていないという証拠はない。故にコピペは行われた」


 痴漢ちかん冤罪事件えんざいじけん等に多くある「悪魔の証明」だ。単に結果だけを以てそう結論付けられてしまうのである。そこに親や教師の人物評価、あるいは温情おんじょうが入っていく余地よちは存在しない。


 「それじゃあ、別にコンクール出展作品しゅってんさくひんに選ばなければいいだけじゃないですか!」


 確かに、智恵子の言っていることは一理ある。コンクールに出展されて多くの人に注目されたならば、そういった可能性もあったかもしれない。


 言い換えれば、コンクールに出展すると考えるから話がややこしくなるのだ。だったら出展作品の候補から外す。あるいは本人に辞退じたいさせて一般の感想文と同等どうとうの扱いにすればよい。そうすれば単なる課題として、「きちんとやってきた」という評価を教師がするだけで解決する。


 コピペの疑いがある文章をコンクールに出展するわけにはいかないというのは当然として……自分の娘にせられたのは出展中止ではなく再提出だ。これは彼女の課題がコピペでないと認めている彼の言動げんどうと全く一致していない。


 「でも、それだけ彼女の文章は優れていたんです」

 「じゃあ、何でですか!」

 「だから、優れていたからですよ」

 「一体どういう事ですか?」


 そう、彼女の感想文は優れていた。そんな作品を出展作品に選ばない、そして本人よりも明らかに劣ると思われる生徒の作品が選ばれたとする……


 当然ながら本人が納得しないだろう。


 「でも、再提出でコピペ率は下がったんですよね?」

 「確かに、下がりました」

 「だったら何故、それを出展しなかったんですか?」


 むろん、その可能性もあった。しかし再提出を命じた生徒の作品がコンクールに出展された場合、そのために選ばれなかった生徒の気持ちはどうだろうか?


 「月城陽菜は依怙贔屓えこひいきされている」

 「出展された彼女の作文は、実は教師が手を加えたのでは?」


 そう思われても仕方がない。


 「結局、再提出しかなかったんですよ」


 玉野にしてみれば「親心」だという。しかし「実際の親である」智恵子は、そして何より、文章を書いた本人である陽菜はそれを理解できるだろうか?


 「それって結局、先生の自己満足じゃないんですか?」

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