・ノーマンの出自 ノーマンやカミルの過去の話は全く魅入ってしまっていたのですが、考えてみると確かに英連邦の人々がどういったプロセスでRAFに参加していたのか気になるところです。 どうやらBritish Commonwealth Air Training Planと、それに基づく Empire Air Training Schemeという教育プログラムがあるようで、ウィキペディアでオーストラリアの空軍基地の歴史などを見ていると、RAAFでもこれに合わせて施設整備を進めたらしいことはわかるのですが、前者の合意が39年12月、後者のプログラムの実施が40年4月からのようで、ノーマンのようなそれ以前の志願者たちがどういう手続きでイギリスに渡ったのか、ちょっと検索にかけただけではわかりませんでした。 奥が深いです……。
編集済
>窓に霜がつくのは想像です。
!!
なんと、左様でしたか……。
・3機編隊
おっしゃるっとおり、BOB期間中であれば1個小隊3機が緊密なV字編隊が基本だったと思います。2×2機の緩い編隊が主流になったのはBOBより後のようです。
どこかに編隊に関する記述があったなと思って読み直してみたのですが、レヴューでも挙げた本、リチャード・ハウ&デニス・リチャーズ『バトル・オブ・ブリテン イギリスを守った空の決戦』河合裕訳,新潮文庫,1994年,549-553頁にありました。
以下要点です。
イギリス空軍はフランス戦線からBOBにかけて1個中隊12機を3機ごとの小隊4個に分けて運用していた。1個小隊は「各機の間隔が詰まった矢尻の形つまり倒立V型の編隊(俗にvicと言う)を組んで飛ぶ」のが基本だった。しかし「リーダーの直後に密着して飛んでいるため、各小隊の二番機と三番機は攻撃の瞬間に敵機に照準が合っていない場合が多く発生した。間隔の狭い編隊を維持することに神経を集中しているため、気が付かなかった敵戦闘機から不意打ちを受けることも起こった」
この問題点はBOBのあいだ多くの飛行中隊で議論されることになるが、最終的に解決策となったのはドイツ空軍が実践していた戦法、四機編隊だった。
「この四機編隊では各パイロットは開いた右手の指の爪の位置を占める。指の例で言えば、いちばん長い中指が一番機、人差し指が二番機であり、三番機と四番機は薬指と小指で左側の二機よりやや高い所を飛ぶ。左右二機ずつの編隊では、それぞれ外側のウィングマンはリーダーよりも高度を下げて、リーダーから見て自分の姿が太陽を隠さないようにする(太陽の方角が最も危険性が高い)。
この間隔の開いた隊形によって、約二百メートルずつ離れている各戦闘機は行動について完全な柔軟性を与えられ、敵機を早期に発見するチャンスも最大限に活用できる。戦闘を行う際には、この群れは二機ずつの部分に分離して、それぞれの一番機が攻撃の主力となり二番機が背後を守る役を務める」
BOB終盤になってイギリス空軍では第501および第605飛行中隊が自主的にこの「フィンガー・フォー」隊形を取り入れていたし、1940年7月には空軍省の空戦技術部および空戦戦技開発部隊も推奨し、8月にはパーク司令(K.R.パーク空軍少将・第11飛行群司令)も正式に承認、11月には強く支持するようになったが、ヒュー・ダウディング(戦闘機軍団最高司令官・空軍大将)が反対していたため、彼の退任(1940年11月25日)までは一般的に採用されることはなかった。
と、こんな感じです。要はRAFもロッテ・シュヴァルムを取り入れるのですが、40年11月末以降ということのようです。
この本の劇中(?)にもスピットファイアやハリケーンはだいたい3機単位で登場します。
ハリケーンについてですが、BOB期間中ずっと3機編隊(vic)だったという証言もあります。
http://www.airbattle.co.uk/b_research_1.html
(中ほどやや下、Q:Most squadrons used Fighting Area Attacks ~のところ。)
時期については言及がないですが、以下のページにも記述があります。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU5/fire7.htm#8
(「16 空中戦は四機編隊で」の部分。このページ自体は、ジョン・ベダー『スピットファイア 英国を救った戦闘機』山本親雄訳,サンケイ新聞出版局,1971年を写したもののようです。)
・ジグザグタキシング
上の編隊の記述を探していてたまたま見つけたのですが、テストパイロットのジェフリー・クウィルが1936年3月にスピットファイア試作機に乗った時の証言が引用されていました。以下引用です。
「[J・サマーズによる3月6日の初飛行ののち]それから一、二週間あとに、ジェフリー・クウィルが試作機を飛ばした。こんどは初めて高ピッチの固定ピッチ・プロペラが装着されていた。操縦席に身体を沈めながら、座席は狭い感じだが窮屈というほどではないなと彼は思った。シートをアップのポジションにすると頭の上にほとんど隙間がなくなるのにも気がついた。『予めマーリンには慎重に燃料を吸わせておいたから、一発で始動した。飛行場の北西の端に向かって走り始める……こんなに鼻先の長い戦闘機には乗ったことがなかった……だから、ゆっくりジグザグのコースを取って、前の方に何も邪魔ものがないのを確かめながら走った』」
(ハウ&リチャーズ,1994,pp.73.)
という、タキシングはもとより滑走中もジグザグしてるような感じです。
・ノーマンの出自
ノーマンやカミルの過去の話は全く魅入ってしまっていたのですが、考えてみると確かに英連邦の人々がどういったプロセスでRAFに参加していたのか気になるところです。
どうやらBritish Commonwealth Air Training Planと、それに基づく Empire Air Training Schemeという教育プログラムがあるようで、ウィキペディアでオーストラリアの空軍基地の歴史などを見ていると、RAAFでもこれに合わせて施設整備を進めたらしいことはわかるのですが、前者の合意が39年12月、後者のプログラムの実施が40年4月からのようで、ノーマンのようなそれ以前の志願者たちがどういう手続きでイギリスに渡ったのか、ちょっと検索にかけただけではわかりませんでした。
奥が深いです……。
すでにご存じのこともあるかと思いますし、最後の一点に関しては僕も全く知識不足ですが、参考になるところがあれば幸いです。
長文失礼しました。
作者からの返信
前河さま
補足まで読んでいただき、また、丁寧なコメントもいただきありがとうございます。
英空軍の小隊編成はArther Gerald Donahue : Tally-Ho! Yankee in a Spitfireを読むと12月に1個小隊4機とありますので、やはり1940年11月ごろから本格導入のようです。
この本は戦時中の出版なのでロッテ-シュヴァルムの説明はないのですが。
日本も英軍も3機編成のときは編隊が乱れて個々に敵と戦うことになることが多く、敵は2機・2機で連携していたために被害の増大につながっていたようです。特に日本は無線電話があまり通じなかったのでなおさら。
しかしBOBの功労者ダウディングが反対していたとは不思議ですね。偉い人の気持ち次第で戦争というのはずいぶん大きく動くものだと思いました。
英連邦のパイロット養成について詳しく調べていただきありがとうございます。
私の方は機体の性能や操縦はどうするか、は興味が湧くのですが、組織をどう構成するか、人をどう育成するかという方面はなかなか疎く、軍事物を書くときにどうしてもそこから逃げようとしてしまいがちです。
オーストラリアについては本当に資料がなくて、手元にあるのはなぜかニュージーランドのパイロットの資料ばかりという状況です(でも不思議とオーストラリアにしたいと思いました)。
ジョニイ・ホウルトン:『戦うスピットファイア』によりますと、ニュージーランドでは1937年に初級訓練が現地で行われるようになったとあります。それ以前は候補生が個々に英軍に入隊して、英国で訓練を受けるという状況だったようです。
おそらくノーマンの場合は英国に渡ってから初級訓練ではという推測でいます。士官候補生で英国に渡り、戦時の急速育成で軍曹として任官、とか想像を膨らませていますが、それがどこまでリアリティがあるのかは今後調べてゆきたいと思います。
ニュージーランドといえばデズモンド・スコット:『英仏海峡の空戦』という本があり、こちらで1スコードロンを3個シュヴァルムとするか2個シュヴァルムとするか、といった話がありました。1943年のタイフーンの航空団の話です。戦闘爆撃機としては2個シュヴァルム8機でスコードロンを編成するのが指揮しやすかったとのことです。
次作もまた第二次世界大戦にしようかと思い、実は今いろいろ調べているところです。こんどは特定の戦記からエピソードを拝借するのではなく、もう少しオリジナリティを出してゆければと考えています。
新作を投稿できるまでもう少しかかると思いますが、もしよろしければ、新作ができた時はちらっとでも見ていただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。