弐重勒:絶望が口を開けて待っている

 風が吹いている。さぁさぁと草を鳴らし草原を駆け上がっていく風は、どこまでも穏やかだ。青い香りが鼻をくすぐる。小春日和と言って良い陽光がやわらかく降り注いでいる。

 小高い丘の上で、清世は静かにたたずんでいた。目的の人物は現れる。そう確信があった。


「……義兄上あにうえ


 樹の影から生えてきたかのように、一つの人影が木陰から現れる。

 嗚呼。

 清世は心中で深く息を吐いた。


「来ると思っていましたよ」

「あいつは……佐久夜は何処ですか、義兄上が隠したのでしょう、あれは私のだ、返してもらう」


 一息に言い切る義弟おとうとに、そしてその瞳に宿るぎらぎらと光る焔に、今度こそ清世はその薄い口唇から深く息を吐きだした。


「彼女はモノではないし、ましてやお前の所有物ではありません。

 何より、あのように傷付けてなお自分の所有物だと豪語するお前のその幼稚な精神を叩きなおしてやりたいところです」


 清世の口から放たれた声は地を這うように低い。けれど、表情は穏やかな微笑のまま。含まれた感情は冷たい。氷で出来たナイフのように容赦がない。


「違う、違う、私はあいつを傷付けるつもりはなかった、あれは必要なことだったから!」

「必要であればお前は生涯を共にする女性の身体を傷付けてその血を流させるのですか。

 確かにあの家の当主であれば時に非情な判断をしなければならないことがあるのは私も十分承知しています。

 けれどあの傷はどう贔屓目に見ても不必要なことでした」

「違う!義兄上、あの時ああしなければならなかった、絶対に!」


 噛み合わず、食い違う。片や感情のままに言葉を放つ弟と、冷静に言葉で抉る兄。

 お互いに歩み寄りはない。このまま進んでも決裂にしかならない、火を見るよりも明らかだというのに。

 それに眼前の義弟は気付いているのだろうか。

 清世は漠然としていた違和をはっきりと感じていた。おかしい、と。


 論争にもならない言い合いを続けながら、義弟の観察を続ける。

 強行軍で渡英してきたためか顔色は良くない。肌艶も。追っ手を振り切った時に乱れたのだろう髪もぐしゃぐしゃのままだ。

 そして何より、目に宿る狂気だ。明らかに焦点が合っていない。呼吸や脈拍も乱れている。

 なにがしかの影響下にあるのか、洗脳か、それとも薬物か。


「いいから! 義兄上と話している時間なんか無いんだ! 早く、早くあいつを、」

「なんか、とは失礼ですね」


 掻き毟るように叫んだ義弟の背後に素早く回り、頸動脈を押さえる。


「……っ……ぁ、……」


 通常で正常であればこの義弟が不出来な義兄に背後を取られることなどなかっただろう。それが出来た時点でおかしいのだ。


「少し眠っていなさい。 今のお前に彼女を会わせることは出来ない」


 恨みがましい視線を感じながら、ゆるりと崩れ落ちた義弟の身体を支える。

 自分の手が汗で湿っていることに気付いて、まだまだ師匠には遠く及ばないと自戒した。


「鴉、」

「あいよ―」


 名を呼ばれ、黒を纏った鴉は慣れた手付きで継の身体を受け取り、その手足を拘束していく。


「んで、どうすんの」

「鳩経由で送り返す」

「へぇ、ずいぶんをお優しいことで」

「不満か」

「うんにゃー? 別に不満じゃないけど、明らかおかしかったじゃん。

 どうせなら拘束してするかと思ってただけぇ」


 さくさくと草を踏みながら歩き出す清世の背中に向かって笑む。

 どうなることかと思っていた。それは事実だ。監視をしていた鼠たちからも、清世自身からも並々ならぬ実力者だということは聞いていたし、実際にその姿を見て、到底敵う相手ではないということを皮膚で感じた。

 錯乱にも近い状態だったから不意打ちが効いただけだ。そして、不意打ちがそう何度も効く訳ではない。


「……そうしたら、彼女が哀しむでしょう」


 絞り出すように呟かれた声に、鴉は目を見張った。


「え、なんで、だってワタナベに情報出さないようにって」

「恐らく、彼女は気付いているでしょう。 聡い方なので」

「で、でも、ワタナベもロブソンもサクに変わりないって報告してたよ」

「彼女が、知らないふりをすることを選んだだけですよ、鴉。

 お前もまだまだ彼女のことがわかっていませんね」

「えー……マジぃ?」


 言いつつ、鴉は継の身体を肩に乗せるように担いだ。細身の鴉がやると非常に危なっかしく見える。見えるだけなので清世は止めも代わりもしなかった。


「大マジですよ。

 あの家で長年過ごし、鍛錬を重ねているからこそです。

 不思議と思わなかったのですか?

 特別に教師をつけた訳でもないのに彼女は1か月もしないうちに英語を話せるようになった。 努力を重ねても通常は数か月から半年以上かかるのが普通です」

「ぁー……耳が良いんだって自分でも言ってたけど、そういう意味かぁ」

「無線でのやり取りを聞かれたと考えて良いでしょう」

「気付かせない方法だってあったと思うけどぉ?」


 少しだけ責めるように嫌な言い方をする。ひねくれた主への意趣返しだ。


「……否定はしません」


 全て必要なことだったのだと自分に言い聞かせる。直接的に対するにはまだ時期尚早だ。傷は癒えたと言えどまだそれらは新しすぎる。

 煩わしい妄執やしがらみから離れ、平穏な時間をと願ってもそれは傲慢だと言えるだろうか。

 出来るなら平穏な時間の下で、これからのことを考えて欲しい、そう思っただけだった。たとえそれが絶望の口に飛び込むようなことであっても。


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魔女と呼ばれた彼女 紫乃緒 @Bruxadanoite

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