短編集

紫乃緒

黄桜亭の日常……?

 その日は朝から少しだけ様子が違っていた。けれどその違いは決して派手なものではなく、意識の片隅に引っ掛かる程度で気付かなかったものが居てもおかしくはないほどの些細な変化だった。


「それで……貴方がその、きーちゃん?」


 恐る恐ると言った感じで声を投げたのは明るいオレンジの髪を長く三つ編みにした少女……から女性に変わろうとしているような印象を与える人物だった。くるりとした瞳は好奇心と興味が浮かんでいて、やや幼さを残している。


「ええ、その通りですよ。 ……貴女はアラストルさんですよね?」

「あたしを知ってたのね」

「珍しい同業者ですからねぇ」


 平時と変わらないのんびりとした口調で言いつつ、黄桜はおしぼりと冷茶をサーブする。ことりと置かれた冷茶には薄氷が浮かべられていて、涼やかだ。

 アラストルは冷茶が入ったグラスを手に取り、それに口をつける。するりと喉を通った後は不思議と清涼感があった。

 軽く息を吐くと、アラストルは疑問を口にした。


「ねぇ、貴方だったらこんな小さな世界に閉じこもらなくても、もっと他の世界で大成できるんじゃないの?」


 見上げた黄桜の表情は全く変わっていない。細い眼は緩やかな曲線を描いていて、口角は穏やかに緩く上がっている。一見して穏やかな笑みにしか見えない。


「まぁ、同業者であるアラストルさんなら解るでしょうが、残念なことにどの世界でもやはり悪目立ちしてしまいますからねぇ」

「……まぁ、それは解るけど、」

「人間にしろ亜人にしろ、変化していくもののなかで変化しないものというものは畏怖でしかないですからねぇ」


 『到達者』である黄桜もアラストルも老化しない。彼らにとって時間というものは概念のひとつであり、それに縛られているわけではない。やろうと思えば外見だけでも年齢を重ねるように見せることはできるが、やりたいかと言われるとそうでもない、としか答えないだろう。


「さて、そんなことよりもご注文はいかがなさいますか」

「えっ」


 驚いたように顔を上げるアラストルに黄桜は笑みを深くする。


「此処は小料理屋です。作れるものはなんでも作りますよ。ここ最近はとある方が甘味ばかりを注文されますので小料理屋ではなく喫茶店の様相ですがね」


 茶目っ気たっぷりにウィンクまでされては注文しないわけにはいかない。アラストルの目的は違ったところにあるのだが、それでもアラストル自身甘いものが好きだ。

 人界への情報収集ついでにその時々で流行っているものを食べるのが楽しみになっている。厳密に言えばアラストルも、当然黄桜にも食事など不要だ。栄養というものを口から摂取しなくても存在できるように既になっている。けれどアラストルは人間だった頃から思考には甘味だと思っていたし、何より黄桜手ずから料理を供してくれるならそれを楽しむのもそれはそれで愉しみだ。


「おすすめはなにかしら」

「おすすめですか。では、何か苦手なものや嫌いなものがあれば教えてください」

「んー……、特にはないわね、毒でも大丈夫よ、死にはしないから」

「料理人としては、毒をお出しするよりもお客様には満足していただきたいものですがねぇ」

「あっ、ごめんなさい、そういう意味じゃないのよ?」


 到達者たるもの毒ごときで死ぬことはない。そもそも死を超越したものが到達者と呼ばれるのだ。毒を盛られても痛痒はないが、少しばかり礼にかける物言いをしてしまった。


「いえいえ、まぁ言いたいことはわかりますとも」


 特段気分を害したようにも見えない。穏やかな笑みはそのままで、黄桜はカウンター下の収納から何かを取り出した。練り切りと呼ばれる上生菓子。漉し餡に食紅で色を付けたもの、寒天や葛で固めたものなど多岐にわたる和菓子だ。

 アラストルは知識としてそれを知っていたし、なるほど、と感心もした。


「少々お時間いただきますのでこちらをつまんでいてください。おすすめはこの後にお出ししますね」


 言葉と共に供された平皿には梅の花を象った練り切りと、葛で艶を出した小豆の塊……こちらも上生菓子なのだろうか。平皿の隅には赤く染まったしば漬けが添えてある。

 菓子楊枝で梅の生菓子を一口大に切り、口に運ぶ。ふんわりと鼻に抜けるのは爽やかな梅の香りだった。甘い。けれどしつこくない。くるまれていたのは梅シロップを混ぜた餡で、ほんのすこしだけ外側よりも柔らかい。とろりと舌に絡みついてくる。それがまた梅の香りを沸き立たせ、口いっぱいに広がる。


「美味しい……!」


 アラストルは自然と声を漏らし、吐息に混じった梅の香りまでも楽しんだ。楽しんで、ううむ、と唸る。


「どうされました?」


 作業の手を止めないまま問いかけてくる、その余裕のある表情も。


「なんか口惜しい……! あたしだってこのくらい作れる……と、思う……!」


 言いながらこれは負け惜しみだと自覚している。数多くの世界を股にかけ、様々な世界を歩き知識を貪欲に吸収してきた。気が付けば自分は錬金術師として何か踏み越えたらしい。いつの間にか到達者になっていた。それなりに自分の力にも自信がある。けれども。目の前の穏やかな男は人好きのする笑みを浮かべたままこのような高い技術を何事もなく披露する。きっとそれなりに辛酸だって味わってきただろうに。きっと、それなりに苦労だってしてきている。それをなんでもないことのようにさらりと流すその余裕は、自分に不足しているものだ。口惜しい。


「ただの物好きですよ、時間だけはたっぷりとありますからねぇ」


 ほら、こういうところだ。

 アラストルは苛立ちを吐き出すかのように軽く息を吐いて、次の一口を味わう。美味しい。


「……ねぇ、」


 ぱり、としば漬けを奥歯で噛みながら声をかける。


「何でしょう?」

「素朴な疑問があるんだけど、答えてくれる?」

「まぁ、内容にも依りますねぇ」


 口のなかにものをいれたまま喋るという不作法を、この店主は見逃してくれる。その程度の甘さはある。だから、アラストルは己の好奇心のまま尋ねた。


「なんで料理をするようになったの? 確かに料理は錬金術にも通じるところはあるけれど、あたしたちは決して食事を摂らなければならない訳じゃない。のに、どうして調理をして盛り付け、他の誰かに供するの?」


 アラストルの言葉に、黄桜は珍しく滑らかに動いていた作業の手を止めた。

 ふ、と。

 細められた両眼が遠くを視る。


「どうして、か……」


 嗚呼。


「確かに、食事に対する執着など元々あってないようなものでしたねぇ……」


 思いだす。ずっとずっとずぅっと昔のこと。

 生きるためには食べなければならなかった。けれど、何を口にしても特に感動することも忌避することもなかった。味の良し悪しなど二の次三の次、とにかく身体を動かせるだけのカロリーがあれば良かった。穏やかで平穏な食卓など就いたこともない。冷たい床板に置かれた食膳や、広い食堂に一人座って出される冷たい食事や、銃弾の飛び交うなかで口に携帯糧食レーションを詰め込んだ、そんな記憶しかない。けれど、その記憶も遠いものだ。


 決して豪華ではない、小さなちゃぶ台。「粗末なものばかりで申し訳ない」と労わる言葉と同時に出された、確かに豪華ではない食事。白米と、野菜をたっぷり入れた味噌汁、そして卵焼き。メニューは確かに豪華ではなかった。けれど、一人ではなかった。同じものを分け合って食べる相手が、その時は居たのだ。

 それから、食事が苦痛ではなくなった。量は少なくとも、不思議と相手に食べさせてあげたいと思う気持ちが沸き上がってきた。卵焼きの最後のひときれを、相手の茶碗に乗せてやると、遠慮しながらも笑んで、喜んでくれた。


 いつだったか。

 何がきっかけかもう、忘れてしまったけれど、いつも作ってもらってばかり、与えてもらってばかりの彼女にお返ししたいと思ったのだ。見よう見まねで米を炊いて、味噌汁と卵焼きを作って。そして見事に失敗した。

 水が足りなかった米は固かったし、味噌汁はしょっぱかった。卵焼きは味付けの概念がなくて本当に卵を焼いただけのものになった。


『  さんが作ってくれたんですか……? ありがとうございます』


 いくら味にこだわらない自分だって解った。決して美味しくない。それでも彼女は『美味しい』『嬉しい』と言って米の一粒も残さず完食してくれた。

 嗚呼。

 それからだ。何かにつけ台所に入り、彼女の手元を見てはそれを真似した。彼女は苦笑しながら初心者用の料理本を本棚から出してきてくれて、それと実際を見比べながら彼女がどれほど自分好みの料理を作ろうとしているかを思い知った。

 決して多くを求めようとしなかった彼女の、慈愛にも似た優しく暖かな感情に、少しでも報いたい……そう思ったのだ。


「……単に、料理を食べてもらえるのは嬉しいですし、そして何より美味しいものを食べると笑顔になるでしょう? 私はそれが見たいのです」


 ふふ、と笑みをこぼす黄桜は本当に穏やかだった。思わずアラストルが息を飲むほど。


「納得いくようないかないような……」

「きっかけは忘れました。が、食事することに何の罪があるでしょうか。食事をすることが存在することにつながるのですから、私は此処へ辿り着いた方にはどんなものだって供しますよ」


 黄桜の言葉にアラストルは諦めたように息を吐いて、手を付けていなかったもう一つの上生菓子を丸ごと口に放り込む。もぐもぐと咀嚼すると柔らかく炊かれた小豆の風味が鼻を抜けて控えめな甘みが舌に広がる。葛で纏められていた表面はつるんとして全く嫌味がない。


「美味しい!」


 口惜し紛れに声を放つ。認めよう。美味しいものは美味しいのだ。


「そうですか、それはようございました。 では、ご所望のおすすめもどうぞ」


 ことりと目の前に丸い平皿が置かれる。ころんとした形のものが5つほどそれに乗っている。表面はややざらついており、白い。砂糖が結晶化しているものだとアラストルはすぐに解ったが、その奥を見据えて眉根を寄せた。

 薄い砂糖の膜の下に、七色の輝きがある。それは虹の色であり、人間には視ることのできない色味も含まれていた。きらきらと輝くさまは宝石かと見紛うほど。しかし、このような宝石は存在しない。鉱石には一定の色味というものがあって、成分や熱によっても変わってくる。こんな、七色の宝石は理論上あり得ない。


「これ……なに?」


 摘んで持ち上げてみる。表面はやや硬い。かといって石のように硬いわけでもない。


「琥珀糖、と言うお菓子です。どうせなら珍しいものを、と思いましてね。

 こちらが作りたてのものになりますが、色味が変わって面白いかと」


 言葉と同時に置かれた小皿には透き通った七色の輝きを持つ小さなお菓子があった。まだ表面はやわらかく、ぷるんとしている。一瞬、どちらから口にしようか迷ったが、手にしているものを意を決して放り込む。

 噛むと、しゃりっとした砂糖の膜が軽やかに砕ける。その後、むっちりとした歯ごたえと口に広がる甘味。無駄な味がない、という意味で純粋に甘い。見た目に反して絶妙な柔らかさだ。咀嚼を妨げるほどではなく、かといって歯ごたえがないわけでもない。


「美味しい、初めてだわ、こんな……」


 思わず2個目を手に取ってしげしげと眺めてしまう。作りたてのものはまだ砂糖が結晶化しておらず、色味が更に鮮やかだ。薄い赤から黄、緑、青、紫とグラデーションが滑らかで本物の宝石のようだ。


「食べるのがもったいないわ、このまま永久保存したい……」


 思わず、ほぅ、と息が漏れる。


「まぁお気持ちはわかりますが、食べてこそのお菓子ですから。ご希望であればお土産として包みますので」

「ほんと!?」

「それほど量がありませんのでほんの少しですが」

「いいわ、成分組成を分析して自分で作るから!」

「成分……寒天と食用色素と砂糖だけですよ?」

「はぁ!? それだけ!? それだけでこんなの出来るの!?」

「乾燥と、寒天の量に気をつければアラストルさんでも出来ますよ」

「……出来るでしょうけど、やっぱり人に作ってもらって、それを頂くっていうのが一番の贅沢なのかもしれないわ、あたしが作ってもせいぜい劣化版コピーかしら」


 言いつつ、琥珀糖を口に放り込む。結晶化した砂糖が無い分、甘さが控えめでさっぱりしている。むっちりというよりもぷるりとした食感。大きな欠片を噛まずに飴のように口のなかで転がすのがまた楽しい。


「まぁそうおっしゃらず。お気に召したのならいつでもおいでくださって構いませんよ」

「そうね、まだ返してもらってない貸しもあるものねー」

「おや、それは痛い所を突かれてしまいました」


 肩をすくめるその仕草が小憎らしい。悪いと思っている表情ではないからだ。けど、決して不快ではない。


「いいわ、琥珀糖、気に入ったから。使う予定のないものだったし」

「そう言っていただけるとありがたいですねぇ」

「どうせ他にもあるんでしょ? 貴方のおすすめ!」


 仕返しとばかりにウィンクしてみせる。今度こそ困ったように黄桜が苦笑わらったのを見て、アラストルは満足した。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編集 紫乃緒 @Bruxadanoite

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ