想う思いと想われた忘却は時を渡り
網野 ホウ
プロローグ:喫茶店「ライブラ」
カランカラン。
「いらっしゃいませ。……勉強熱心なのはいいことだが、ここは図書館じゃないんだぞ?」
ドアに挿げたベルが鳴る。
来客が来るたびになるそのベルは、俺に条件反射で挨拶をさせる。
しかし挨拶だけでは済ますことは出来ず、続けてつい軽口をたたいてしまう。
それもそのはず。
この時間にやってくる客のほとんどは高校生。
「図書館はお喋り禁止。知らないの?」
三倍以上長い人生の先輩に向かってこの言いようである。
マスターと俺らじゃ時代は違うんだよ?
そんなことを教えようとする社会勉強の先生にでもなったつもりだろうか。
「じゃあここが喫茶店だってことは知ってるか?」
「知ってるよ? だから図書館のお茶みたいにただで飲むつもりはこれっぼっちもないから」
誰に鍛えられたのか、最近の学生は学力ばかりじゃなく切り返しもできる。
断じて俺に影響されたわけではない。多分。
だが会話だけを聞けば、随分と大人を舐めた言い方をすると思う者もいるだろう。
しかし意外とマナーを守ってくれている。
勉強中は山となるほどの消しゴムのカスがテーブルの上に出来上がるが、会計をすます前にはきれいに掃除されている。
散らかしっぱなしのまま店を出ようとする学生達には、面識のない他の学生達が注意する。それに文句をつける者もおらず、まさしく来た時よりも美しくという言葉を学生の客はみんなで実行してくれている。
「ところでハルトはまだ帰って来てないの? 教わりたいところあるんだけどな」
「部活だろ? バスケだったっけか。まだ帰って来てねえよ」
俺は未婚の独身。もうじき五十に手が届く。
当然子供なんているわけがない。
ハルトとは、親父の弟の孫、つまり俺の従兄の子供のことだ。
学割の定期券があるらしいが、電車で通うには毎日の早起きがつらい。
そういうことでうちで預かっている。
もっとも俺にしてみりゃ、ねぐらを貸してるだけ。朝は店の仕込みで朝ご飯は作り置き。昼は学食を食うらしい。夜はいつも遅い時間に食べている。俺は店があるから客の切れ間に賄い食。
こうしてみると、碌に会話もしてないような気がする。
「もうテスト勉強期間中に入ったぜ? 部活はどこも休みだよ」
「んじゃ図書館で勉強だろうよ。静かにしながら勉強できる奴だろうからな。知らんけど」
テスト期間中でなくても俺の喫茶店「ライブラ」に足を運ぶ常連学生は、主に電車通学の下校で時間の調整のためにやって来る。
その期間中は、そんな学生らは地元の友達も誘い、一時間に一本の電車時間を何度も見送って、まるで自室のように勉強に集中している。
学生達の言葉遣いは目上の者に対して云々などと説教めいたことは言える立場ではない。むしろ店内ではそんな姿勢の彼らは、高校ОBとしては鼻が高い。
そして、そんな立場の人間として肩身が狭い思いも持ってしまう。
こんな毎日を、井澤市駅前の喫茶店でマスターをやりながら過ごしている。
この店は昭和一桁生まれの親父が始めた。
もうじき開業百年目の喫茶店を継いだ理由は特にない。
「進路? 親父の店で働いてもいいかなぁ。勉強苦手だし」
「担任の前で堂々と言うな」
学生時代はだれでも将来のことを考えるだろう。俺もそうだった。
だが俺の場合、ぼんやりとしか思い浮かべられなかった。
高校ばかりじゃない。
小学生の頃から勉強は嫌いだった。
その代わり、って訳じゃないが雑学やクイズの本は読み漁って、学校には不要な知識ばかり身についた。クラスメイト達からは遠ざけられた。当時はオタクなんて言葉すらなかった時代だったな。
「勉強が好きじゃないなら店を手伝え」
時間を浪費することが嫌いな親父からはしょっちゅうそう言われた。
俺は子供の頃からこの店を手伝わされた。
だが勉強するよりもむしろそっちの方が好きだった。
常連にも顔を覚えられ、可愛がられた。
そうこうしているうちに高校時代になると、メニューも覚え、料理のコツもすっかり身についていた。
とはいっても、一年やそこらで覚えたわけじゃない。覚えようとして一生懸命勉強したわけでもない。
就職すると、新たな知識を身につけなければならない。
同じくらい膨大な時間を費やさなければ一人前の社会人として認めてくれないのではないか。
そんなことを思ったら、既に戦力になっている親父の喫茶店で働く方がよほど社会の役に立つ。
親父の後を継いだ理由は、たったそれだけの事。
それに比べてこの店の常連客達の何と勉強熱心な事か。
少しでも勉学に集中できるような心配りをして、彼らの手伝いをするくらいしか能がなくなった。
「はい、店にいる皆さんにお知らせしまーす。そろそろ電車時間が近づいてまいりました。お帰りになる学生さんは会計の方お願いしまーす」
乗り遅れて帰宅時間も遅くなってしまったら彼らの親御さんも心配するし、この店の風紀が疑われてしまう。
それに、当時の俺よりも目の前にいる彼らの目が生き生きとしている。
彼らの行く末を見守ってやるのが、年齢だけ食った大人がしてあげられるせめてもの思いやり。
一般客が少ないこの時間帯は、店内が少し眩しく見える。
それに耐えかね、やや下を向きながら食器を洗う。
あの時代、彼らみたいに勉強や、どこかに部活に入ってやる気を出してたらどうなっていただろう。
そんな意味のない妄想も時々頭の中で浮かんで消える。
今は自分のやるべきことをやる。
とはいっても彼らの注文を受け、帰り時間に気を配る。それだけだ。
カランカラン。
ドアのベルが鳴る。
「ただいまー」
いらっしゃいませの声かけをする前に飛び込んできた声。
もうすでに会計を済ませて帰ってしまった、さっきの学生が待ちかねていたハルトがようやく帰ってきた。
「家の玄関から入れよ。ここは店だぞ」。
「んー? 今日は客を連れてきたんだ。一緒にコーヒーか何か飲むかなって。……ここだ。入れよ」
客を連れてきた?
普通は、一緒に来たとか言うもんだろ。
「こんにちは……。初めまして、ですね」
ハルトの後ろから女子学生がおずおずと顔を出す。
明日の天気は槍に決定だな。
「先週うちのクラスにやって来た転校生。町中を案内してほしいっつーんで、クラスメイト代わりばんこで連れて回ってる」
「多和部優香と言います。お世話になります」
「あぁ、どうも。ハルトに連れ回されて大変だね。立場的には甥? そいつの爺さんと俺の親父が兄弟でね。苗字は同じ朏(みかづき)だ。ハルトの高校生達が電車が来るまでの間、ここで勉強して時間を潰したり、たむろしてることが多いんだ」
「……居心地良さそうなお店ですね。私は市内に住んでるのでずっといられますね」
他の喫茶店に入ることはまったくない。
だから他の店との違いは分からないのだが、彼女には物珍しいらしい。
しばらくは他の学生の勉強する様子や店の中をきょろきょろと見回してたが壁一面に挿げてある本棚の本に視線が移っている。
「これ……お店で読んでもいいんですか?」
店の経営をしている以上、売り上げも気にしなきゃならない。
その戦略の一つとして、無数の漫画本や今流行りの小説なんかを置いている。
これが見事に功を奏した。
「まるでうち並みだね。これじゃ売上上がったりだよ」
「憎まれ口叩かないでくださいよ。調べてみたら、ここでたくさん本を置いてくれてからこっちの売り上げも上がってるんですよ」
俺の店に客として来る書店の店員達の会話だ。
俺の店に置かれている数々の本は、なけなしの小遣いで買う本の下調べにも使われてるらしい。
思わぬところでいろんな効果があるもんだ。
「それにマスターもしょっちゅううちに来てくれるじゃないですか。有り難いお客さんですよ?」
おまけその書店では俺も常連扱いにされてることを知らされた。
それもそうだ。
この店に置く本を買うため近所の書店に通っているのだが、その冊数が多くなる分書店に足を運ぶ回数も多くなる。考えるまでもないことだろうが、考えなきゃ気付かなかった。
それはともかく。
「あぁ。学生さんはなかなか自由に物を買えないだろ? 俺の好みで偏ってたりするが、店から持ち出さず丁寧に扱ってくれりゃ問題ない。何か注文するなら空いてる席にどうぞ」
その女子はハルトと一緒に何やら雑談を交わしている。
俺の学生時代は、異性と親しくするだけで周りの冷やかしのネタになったりしたもんだった。
さらに、女子と話をするだけであがる当時の俺の性格も加わって、女子と絡んだ記憶は全くない。
だが、そんな事実が過去にあったらしい。
三十年越しに、その転校生とやらによって過去の出来事と対面することになった。
想う思いと想われた忘却は時を渡り 網野 ホウ @HOU_AMINO
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