かもめ
ぶいさん
恋
茹だるような夏の暑さが過ぎた、初秋の頃。放課後の校舎。時刻は17時を回ったあたり。ひとりの少女が窓から差し込む西日を避けて歩いている。
彼女の名前はミサキ。14歳の中学2年生だ。
ミサキは、目的を持って歩いている。ミサキは友達に会うために美術室に向かっていた。美術室の文字を視界の端に認めると、歩いてきた廊下を振り返って見回して、人の気配が近くにないのを確認した。
放課後の校舎だ、生徒の声は教室からは遠い。そしてこの学校には美術部がない。この時間に、美術室周辺にはもちろん人がいないことは分かっている。
だからこそミサキはここへ来たのだ。
美術室の戸を、その手で開ける。レールを滑ってカラカラと音がした。中には人はいない。ミサキは開けた扉の隙間から体を差し入れて、中へするりと潜り込み、後ろ手で扉を閉める。
白いカーテンの向こう側の、窓辺に友達はいた。
白い肌に厚い胸板、整った細工、美しい友達だ。ミサキの一番の親友だった。
「やあ」と彼は言う。ミサキも「やあ」と挨拶を返す。
彼はいつも美術室にいるから、彼と会うのはいつも美術室だ。彼は寡黙だが、包み込むように優しく、ミサキの相談を聞いてくれていた。
出会ったばかりの頃、彼はただそこにいるだけだった。
けれども、ミサキが足繁く通っていたある日、彼はミサキに心を開いたのだ。
彼のその陶磁器のような美しい唇から、編み細工のような美しい言葉が文字を紡いだのだ。
それはミサキと、彼だけの秘密だ。放課後から日が暮れるまでの、ほんのひと時の逢瀬だ。西日が彼の白い肌を赤く染める。ミサキはこの瞬間がとても好きだ。
まるで地上に遣わされた天使のようだ。陶磁器のようにすべすべな、なめらかできめ細やかな白い肌。くるくる巻いた髪。切れ長な目に、高く通った鼻。厚い唇。まつげ一本までもが美しく、ミサキは思わず息を漏らす。なんて美しいのだろう。ミサキ《わたし》しか知らない、ミサキ《わたし》の親友。
彼が生きているわけではないことも、彼が本当に自分に話しかけているわけではないことも、ミサキにはわかっていた。けれども、彼が自分に話しかけている声が、自分の耳には確かに聞こえているから、きっとこれは奇跡なのだ。
思春期の、豊かで強い想像力の成せる技だったのかもしれない。そんな気が頭のどこかにあったけれど、今日も彼が「やあ」と言ってくれるから、ミサキも「やあ」と返すのだ。
彼が話した日が正確にはいつだったか、よく覚えていない。それはミサキがいつものように美術室にひきこもり、カーテンの裏側に潜り込んで、校庭の生徒たちの姿を見下ろしていた時だった。
彼は「君はいつもここに来るね」と言ったのだ。
ミサキは、彼が口を開いたことにあまり驚かなかった。彼が話し出す今までにも、こういった無機物が自分に話しかけてくるようなことはあったからだ。これはおそらくいつもの、妄想の一部で、そしてミサキにとっては日常の瑣末なことなのだ。
ミサキはその仕組みはよくわからなかったが、自分がそうあることも彼が話しだしたことも、当たり前のことだと受け入れて、彼に「
彼との話題はもっぱら、ミサキの日常に関してだった。テストの点が良くなかっただとか、授業中に先生に当てられて恥ずかしかっただとか、親が自分の行動を制限するだとか、同級生のかっこいい男の子の話だとか。彼は相槌を打っては、話の続きを促してくれる。
まれにやんわり諭すような言い方をすることもあるけれど、彼はミサキの話を否定することはない。ミサキの周りにはそういった相手はいなかったものだから、ミサキが彼を好きになるまでにはそう時間はかからなかった。
彼がなんなのか、彼の正体がなんだったのかはわからない。けれども、あの青春の一ページに彼はミサキの前に現れたのだ。ミサキの心をたやすく奪っていったのだった。
彼は、ダビデ。彼は石膏像だった。体は常人よりも僅かに大きく、胸から下はなかった。バストアップの姿のダビデは、窓辺のカーテンのすぐ傍に置かれて、通常は白い布が彼を覆っていた。
ミサキは自分の姿を隠すように、カーテンの向こう側に隠れることが好きだった。そしてダビデをカーテンに隠して、彼を眺めるのが好きだった。
美術室の恋人。ダビデの石膏像とちゅっちゅしたあの日。
かもめ ぶいさん @buichi
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