第13回
こんな夢を見た。
それがしは幼い女の子二人とともに家の中に立てこもっている。この女の子たちがそれがしにとってどのような関係なのか分からない。ただ分かっているのは二人を守らなければならないということだけだった。
家の中は静まり返り、それがしたち以外に誰もいない。
それがしは絶えず外の気配を探っている。物音はしないものの、この家を襲おうとする者がいて、包囲している。何人いるのか見当もつかない。
打って出ようかと考えるが、それがしはろくな武器を持っていない。両腕の力も当てにできない。敵がいつ窓を破って侵入してくるか分からない。
彼女たちを守らなければ。
それがしはそのことだけを、何よりも優先して考えていた。
目が覚めても依然として心臓の鼓動は高まったままだ。寝汗でシャツが体に張りついて気持ちが悪い。
いつものことながら、突然澤井がそれがしの部屋を訪ねてきた。夏休みはとうに終わっているし、冬休みにはまだ早い。そんな時期にどうして澤井がこんなところにいるのか。それゆえ、それがしは最初、経田が来たのかと思った。
「お前、少し前に墓の前に座って、ぼんやりしていただろう?」
「どうして知っている?」
「中谷がそう言っていた。一昨日、経田と中谷と俺で、稲村の運転する車に乗って出かけとき、そう言っていた」
「ふうん」
どうして中谷が知っているのだろう。
「何か言っていたか?」
それがしがお墓にいたことを、中谷がどう感じたのか気になったので聞いてみた。
「『海深はどうしたの? 気が変になったの?』と心配していたぞ。中谷が安心できるように、ちゃんと言っておいた。『前から変だっただろう?』と」
澤井のフォローをもともと期待していなかったものの、あまりの言い様にそれがしは苦笑せざるを得なかった。
「それは阿漕。度重なれば露われるぞする」
沢井は何を言っているのかよく分かっていないようだったが、そんなことはどうでもよかった。
そう度々、墓の前に座っていたわけではない。二、三度ではないだろうか。夕暮れどきに、散歩がてら寄っただけだ。
家の墓は小高い山の中腹あたりにあるので、周りが見張らせて良い。
高架の上を走る電車を眺めていた。駅に止まり、また走って行く。
夕暮れの空を見ていた。朱と紫に染まる。
澤井はその日泊まっていった。男同士狭苦しく一つのベッドで寝たくないので、それがしは押し入れから寝袋を取り出して床で眠った。
翌日大学へ戻る澤井を駅まで見送りに行った。
床で寝たせいか、寝袋では寒かったのか、鼻がぐずぐずする。
一旦家に戻ると言った澤井は、案の定遅れてきた。
澤井が来ても、それがしは彼を放っておいて中谷と話をしていた。中谷が浪人をやめて働き出したと聞いたのは、つい昨日のことだった。以前からバイトで働いていたところに就職したそうだ。これも澤井が先日ドライブしたときに聞いた話だ。
澤井の見送りをしようと思ったのは、なんとなく中谷に会えるのでは、と予想していたこともある。以前、これぐらいの時間に出かけたとき、たまたま出くわしたからだ。予想どおり会えたので嬉しかった。
「墓場の海深です」
そう言って、笑いながら中谷に近づいた。そのとき、彼女は口元を手で覆い隠し、あくびをしていた。
「余計なことを言わなくてもいい」
中谷は言った。澤井に余計なことを言ったのはお前だろう。
「心配したか?」
「心配って程でもないけれど、どうしたのかなと思って。最近見かけなかったし」
取り交わされた会話はこれだけだ。
中谷と澤井の乗る電車を、それがしはホームで一人見送っていた。
ハンカチを持っていなかったので行儀悪く鼻をすすりながら、寝直すために家に戻った。
中井先生は言った。
「まだ走れば間に合いますよ。ジリジリと電車の発車を報せるベルが鳴っています。これに乗り遅れると後がありません」
発車を報せるベルが鳴っているとき、彼我の距離を測る。
歩いても間に合うのか、走らないと間に合わないのか、走っても間に合わないのか。駆けて行き、飛び乗ろうとした瞬間に、非情にも目の前で扉が閉じられるかもしれない。それを承知で走ってみるか、あるいは、もう諦めるか。
発車を報せるベルが鳴っているのは分かっている。それが、最終列車だと言うことも。しかし、それがしは急ぐ気になれない。もう間に合わない。諦念がそれがしの心を支配する。
すぐにも列車は走り去るだろう。そのとき、それがしはどうするのだろう?
家にいても、どうせ勉強しない。寝転びながら本を読んでいるだけだ。
それに一人でいて不安に苛まれて、煩悶とするぐらいならと家を出る。行き先は尾治大学である。
「こう言うのって、労働の搾取とは言わないのだろうか」
それがしは冗談めかして、鴻上さんに聞いてみた。
わざわざ尾治大学まで出かけて、大学祭の手伝いをしている。看板の紙を白の無地のものに張り替え、糊が乾ききったころを見計らい、字を書く。それがしは、今それを鴻上さんと一緒に手伝っている。
「私もまだ勉強中だから、間違っているかもしれないけれど・・・」
このような言い方に、鴻上さんの誠実さを感じる。それがしは聞きかじった知識でも平気で吹聴するから質が悪い。彼女は今年大学に入った。浪人したとは聞いていないので、恐らくそれがしと同じ歳だろう。
「労働の搾取は、買った労働力を値段以上に使用することを言うと思う。だから、この場合は当てはまらないんじゃないかな?」
「つまり、ボランティアってことか」
「そう。革命遂行のための尊い献身ね」
最後に彼女は微笑みながら言った。照れを隠すような微笑みが初々しかった。
プロ革マレ派との関係を断とうと思いながらも、ずるずると関係を続けているのは、このような助平根性も働いていた。
ここは居心地がいい。だからこそ、離れなければと思う。この心地よさは危険だ。それは、コンプレックスを共有しているからではないか、そう思うからである。それが事実に則しているのか分からない。たとえ、それが事実に即した考察であったとしても、そのコンプレックスは何かと聞かれるとそれがしには見当がつかない。
この現状を打開するために、それがしは牧村先生と話す必要性を感じていた。 後期に入ってから、牧村先生はあまり話さなくなった。テキストを開いて解説をしている。以前の、「講義と言えるか分からない講義」(本人談)と比べると、どうしても面白味に欠ける。そのため、受講生の数も以前と比べ随分と少なくなっている。また、ほぼ定刻どおりに終了する。
講義が終わってから、他の塾生が牧村先生に質問をし終わるのを待って、それがしは話しかけた。プロ革マレ派とそれがしが関わり合いになった経緯や、反戦集会に参加したことなどを、移動した講師控室で話した。そして、論破したいとも付け加えた。
流石に、牧村先生はプロ革マレ派について詳しかった。
「彼らは結構歳いっているだろう」
「えぇ。三〇代前半と思われるような人もいますし、大学に八年いる人がいて、その人がこき使われていますから、それ以上だと思います」
「そうだろうな。三〇歳とすると一〇年以上はやっている計算になる。彼らはひたすらそのことだけに専念しているのだから、論破しようなんて考えない方がいい」
あっさりと、それがしの野心は否定された。
「尾治大学には、昔、敷地内に学生寮があったんだよ。そこを対立するセクトが占拠していたから、大学当局に働きかけて壊させたんだよ。ともに戦おうと言っておきながら、平気でそういうことをやる」
一時間ばかり話していただろうか。話し終えるころには、彼らとの関係を完全に断ち切れると確信した。しばらく感じたことのなかった身軽さを感じた。
結局、組織は人を飲むということなのだ。それがしは飲まれかけ、それに抗った。けれども抗いきれず、このままプロ革マレ派の一員になってしまうのか、という恐れが付きまとっていたのだ。
傲慢がほころびを生んだのか。これはそれがしの増長が招いた結果なのだ。そう感じた。一時の安易な気持ちで交わろうと考えるには、あまりに相手が強大で、それがしは迂闊だった。
このまま、彼らと会わないで自然消滅させれば、それで済んだことだろう。しかし、それがしは決定的な決裂を望んでいた。まだ懲りないと見える。
その機会を、今度は用心深く窺っていた。『共産党宣言』も意を決して読んでみた。
民族問題を扱った、学祭の講演会が成功裏に終わり、尾治大学自治会室は弛緩した雰囲気が支配していた。そこにそれがしは仕掛けた。
塚田と鶴さんが民族問題について議論していたところに強引に割り込んだ。「歴史を全て階級闘争に還元して考えることしかできないあなた方には、民族問題を分析するには荷が重いでしょう」
鶴さんが反論しようとするが、それがしはなおも言葉を続けた。
「何かと言ったら、スターリンや毛沢東の独裁を批判するけれど、すべては『あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である』なんて、歴史を冒涜するような安易な法則化が生み出した、とどうして認めようとしないんですか。
個人崇拝を批判すると言っておきながら、あなた方のマルクス崇拝は何です。崇拝するなら、もう少しまっとうな人を崇拝しましょうよ。
自分の女房が身重の身を押してまで金策に奔走している間に、自分は女中に手を出して妊娠すらさせ、さらにできた子どもを友人に押しつけて責任逃れするような卑劣漢でなく」
「お前は何も理解していない。今まで語り合ったことを全然覚えていないじゃないか。マルクスは・・・
鶴さんの反論に意図的に言葉を重ねて、それがしは言い放った。
「プロレタリア革命が歴史の必然と言うならば、その必然を見せてくれ。過去を歪めるものは、現在を歪め、そして未来をも歪めるものだ。どうしてそれが分からない。いや、本当は分かっているんじゃないんですか? 自分たちが無意味なことをしているって」
「出て行け」
鶴さんは静かな声で言った。
「誰がこんなところに二度と足を踏みいれるものか」
出ていくとき、鴻上さんと目が合った。心配するような表情をしていたと思う。彼女に会えなくなると思うと、寂しい気持ちがする。
多分、彼らにはそれがしの声は届かないだろう。それがしの言葉は、何一つ真理をついていないかもしれない。それでも、関係を清算するのに役に立ったなら、それだけでも言葉の存在意義はあっただろう。
決別することはできた。けれども、それがしの気は晴れなかった。
ネガティブアタック 海深真明 @ssstst
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