第12回
秋が深まるにつれて、それがしの不安もいよいよ増す。
夏をうまく乗り切ることができなかった思いが、常に付きまとった。それは結局のところ夏休みだけの問題ではなく、この四月からの、あるいはこれまでの勉強に対する姿勢の延長と見た場合、当然の帰結であると受け入れざるを得ない。
後期に入りしばらくして、漢文の藤井先生は勉強のやり方について講義の時間中に教えてくれた。前期にも、シュリーマンの例を引き合いに出して、言語習得の早道は何度も何度も繰り返し読む。声に出して読む。そうすれば自然と身につくものであると教えてくれた。
「これだけはやると決めておくのです。数学なら本当に基礎の問題だけをやるのです。一〇〇問ぐらいの基礎的な問題を、毎日少しずつでも確実にこなすようにするのです。
そしてそれを繰り返しやってください。三度もやれば随分と違っているでしょう。一ヵ月もあれば十二分です。重要なのは、毎日やる点にあります。というのは、嫌いなものはやりたくないのが人間の性情だからです。
人を殺すことは人間にとって簡単にできることではありません。最初の殺人は本当におぞましく、己のなした行為の恐ろしさに震えおののくそうです。しかしそれも度重なれば次第に楽しみを覚えるようになるそうです。
殺人ですらそうなのですから、勉強ごときも繰り返しやれば、最初は嫌で手につかないものだって、楽しくできるようになります。人間には繰り返し行う行動を積極的に評価しようという働きがどうやらあるようです。それをうまく利用しない手はありません」
「一つ悪い例を挙げます。これで失敗した人も多いと思います。それは夏休みの計画を立てる際、あれもやろうこれもやろうと欲張って、学習計画に盛り込みます。すると、出来上がるのは殺人的な学習計画です。そして、それを実行に移します。
最初の数日は保ったとしても、後は最初の意欲も衰え、できなかったと敗北感がつきまとうようになります。そのうち、自分は頭が悪い、才能がないんだといった短絡的な結論を導き出し、何も計画を立てずに適当にやっているよりもなお惨憺たる有様となります。
肝心なのはそれをやり通すことです。一〇〇やろうと思って七〇しかできないよりも、五〇やろうと思って六〇できた方がはるかに自信につながります。『自信をつけなさい』、『自信を持って』などと言う人は大勢いますが、その自信をどうやったらつけることができるかを教えてくれる人は多くありません。
自信をつけるにはたとえ少ない分量でも、それを確実にこなすところから始めます。そして、できたことを意図的に褒めるのです。同時に、やればできるのだと自分に言い聞かせるのです。確実にこなすには、最初から多くを望まないことです、それが望む以上の成果をも上げうる近道です。
一つ注意しておくことがあります。それは、焦ってはいけないということです。焦ると、いたずらにエネルギーを消耗します。自分で決めたわずかなことでも確実にこなしていけば、焦りは抑えることができるでしょう。そういう意味で焦りを堪えた人、あるいは焦りを感じることのない人が受験を制するでしょう。単なる精神論ではないことは自分自身で確かめてください」
講義の後、藤井先生を追って講師控室に入った。そして先程の話をより具体的に聞くことができた。一時間近く話をしていたが、藤井先生は嫌な顔一つせず、話に応じてくれた。それがしは、最後に中学三年冬ごろの経験を藤井先生に語った。
「爽快感って、こういうことを言うのだろうなって思いました。山の頂きにいて、空はどこまでも澄んでいて、そして遠くまで、本当に遠くまで、どこまでも広がっているような、そんな感じです。当然、頭の中のもやもやした気持ちはきれいさっぱりなくなっていて、体も軽く感じました。こういう体験てそう特殊な体験ではないんでしょう、多分。
マラソンランナーが感じるランナーズハイとか、優勝して感無量としか表現できない、それらと同じような達成感だと思うのです。
それが、僕の場合に勉学の方面で感じたから、それに未だに拘ってこうして浪人しているのかもしれません」
藤井先生は、そういう経験があるなら成功は簡単ですよと言ってくれた。
別れる間際、藤井先生は何か言いかけたが、途中でやめてしまった。
藤井先生には話さなかったけれども、この話には続きがある。
それがしは公立高校の受験に先立ち、私立高校を受験していた。同じ中学の奴らと一緒に行くから、周りは皆知っている奴らばかりだった。
午後、手洗いから帰ってくるとそれがしの机の上に一枚の写真が置いてあった。それはそれがしのカバンの中にずっと入れっぱなしになっていて、その存在すら忘れていた写真だった。
それをカバンの中から勝手に引っ張り出し、机の上に置いた奴はそれがしにそれを強引に売りつけた当人だった。
それがしは怒りのあまり震えおののき、その場で写真を破って捨てた。次の、理科の試験はほとんど手につかなかった。
それがしが感じていた爽快感は、これにより簡単に奪い去られた。
その写真に写っていたのは、制服姿で微笑む中谷の姿だった。
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