第11回

 夜中一一時ごろ、部屋の窓を叩く音が聞こえた。ベッドに寝転がりながら本を読んでいたそれがしは跳ね起きてカーテンと窓を開けた。

「久しぶりだな」

 外には澤井が立っていた。中学・高校のころはよくこうやって訪ねて来たものだ。

「上がってもいいか?」

「別に構わんよ。ちょっと待っていて」

 ベッドから下りて玄関に向かう。玄関の扉を開けるころ、澤井はすでに玄関先に回っていた。いつもは「上がってもいいか?」などと聞かずに、いつまででも窓にはめられた格子戸越しに話していた。蚊に刺されようと、深夜であろうとお構いなしに。


 二人で将棋を指していた。いつものことながらそれがしは劣勢である。小学生のころから一度も勝ったことがない。

「相変わらず弱いな。お前は相手のことなど全然考えていないだろう」

身ぐるみ剥がされて丸裸といった感じである。へぼ将棋しか指せないのを承知で誘っておきながら、文句を言うとは不逞な輩だ。

「いいじゃないか。それでお前が負けるでもなし」

「やっていて張り合いがない。相手の駒の動きを見ないのは、自分のことばかり考えている証拠だよ」

 将棋を指しているだけなのに、性格まで指摘されては立つ瀬がない。

「後、五手でお前の負け。投了しろよ」

 澤井がほざく。自分から誘っておいて「投了しろよ」とは身勝手極まれる。「自分のことばかり考えている証拠だよ」とそっくりそのまま言い返したい。

 結局、それがしは意固地になって投了せず、玉が取られるまで指した。

 澤井が立ち上がる。帰るのかと思ったら、それがしを散歩に誘った。


 深夜に散歩するのは久しぶりだ。

 それがしには深夜徘徊の趣味はないので澤井に誘われた時しかしない。コオロギの鳴き声が部屋にいるときよりも明瞭に聞こえる。お盆を過ぎると、秋の虫が鳴き始め、秋の到来を感じさせる。

 何を話すでもなく、ぶらぶらと歩く。

 澤井が道の真ん中に腰を下ろす。それがしもそれに倣う。アスファルトが暖かい。日が落ちて随分と経つのに、依然としてこれほど暖かいとは驚きだ。


 澤井は深夜徘徊と、道に寝そべって星を見るのを趣味とする男である。以前、星を見ながら寝てしまい、それを目撃した人が「道路に人が倒れている」と警察に通報、現場に駆けつけた警察官に厳重注意を受けた、という前科の持ち主である。

「抱いてしまった」

澤井がぼそりと言った。

「は?」

 それがしは前後関係が全く掴めないので、こんな間抜けな応答しかできなかった。

「恋で悩んでいる」

 また、ぼそりと言った。

 今ので分かった。つまり、「まぐわった、交わった、二人で一つになった、枕を交わした、成り成りて成り余れるところをもって成り成りて成り合わぬところを刺し塞いだ」等々とでも言いたいのだろう。

 澤井の口からこのような類の言葉が出てくるとは滑稽である。茶化すことを即決した。

「どいつもこいつも大学生になった途端、『解禁』と言わんばかりに、彼女とか彼氏とかこさえるのに目の色変えて、血道をあげて、まったく。それでは、女や男を見繕うために大学へ入ったみたいではないか。その昔、大学はレジャーランドと言われていたが、今ではナンパ場かよ」

 澤井は前からいたさと反論し、続けて、

「お前だって、節操なく女の尻を追いかけていたくせに。俺に説教しようというのか?」

「いや、そんなことはない。拙僧は求道者だから、女を寄せつけないのだ」

「節操」と「拙僧」をかけてみたが相手にされなかった。

「じゃあ、中谷はなんだ? 他にも・・・」

 思いつきで言っただけなので、すぐにぼろが出た。

 話を別の方向へ誘導しよう。

「でも、前は『女は全く別の生き物だ』って言っていたじゃないか。あれは嘘か?」

「今でもそう思ってるさ。全く別の生き物だから興味を覚えるし、惹かれるのだ」

 ぬけぬけと、このような戯言を言うとは、「悩んでいる」と奴が言うのも頷ける。もうこの辺で話を打ち切ろう。

「で、どうだった?」

「何が?」

「具合だよ、具合」

 それがしは、わざわざ下卑た物言いをした。

 澤井がそれがしの方を向く。それがしも澤井の方を向く。しばし、目を合わせた。澤井は別段怒っているようには見えなかった。

「お前、くだらない人間になったな」

 宣告するかのような言い方をした。

「お互いな。上手に歳をとるのは難しい」

 それを契機にそれがしは立ち上がり、手についた砂を叩いて落とす。手を見ると、アスファルト道路に長い間押しつけていたので凸凹になっている。

「もう帰ろう」

 澤井を見下ろしながらそれがしは言った。



 シャルル・ボードレール『人口楽園』(渡辺一夫訳)にこんな一節がある。

「著者(ド・クィンシーという人。ここでは、彼が著わした『阿片吸飲者の告白』について触れている)は、我々に親しい者の死だとか、或は一般に死の観照だとかは一年の他の季節よりも特に夏において、我々の魂に影響することが多いことを指摘している。夏には、空がいつもよりも高く、遥かに遠く、遥かに無限に見える。天蓋の広さを感ずる時の目のよすがとなる雲は、より大きな容積を持ち、広々とした岩乗な塊となって堆積し、落日の光とその眺めとは無限の特性と一層調和している。しかし主な理由は、惜みなく溢れ出るような夏の生活が、墓中の氷のような磽确さと一層強い対照を作っていることである。それに対立関係にある二つの思想は、互いに呼び合い、一つが他を暗示するのである。」


 これを読み、中根や有賀、八田の死を思い起こさないわけがなかった。

 中根や有賀、八田は、二〇年近くも養ってきたその体を虚しくし、澤井は抱いて抱かれ感じる喜びに浸る。それがしに対照はそのどちらも「惜みなく溢れ出るような夏の生活」のうちにあったが、それがしの体験したことではない。一人取り残されたような心境だ。生からも死からもスポイルされているような、そんな感じ。「夏には、空がいつもより高く」云々とあるが、日本にいて空を高く感じるのは、夏よりもむしろ秋にではなかろうか。天高く馬肥ゆる秋という表現もある。寒気を帯び、乾燥した空気が空の高さをいや増す。

 そして秋を迎える。


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