Side:B
エレベーター・ガール
Side:B 篠宮裕人
子どもの頃から、霊感はあるほうだと思ってきた。母も、母方の祖母も話を聞いていると昔からあったという。たぶん、自分に霊感があるのは母方の血からきているのかもしれない。
とはいえ、幽霊が見えるとか、幽霊と対話できるとかそんな特出した能力は持っていなくて、唯一霊感らしいものといえば、ある場所に行けばただなんとなく寒気がしたり、嫌な予感がしたりとか。そんな場所はたいてい、実は曰くつきだったとか、その程度だ。
だから、とある病院のエレベーターで隅にたたずむ「彼女」の姿を見かけた時は、初めこそ普通に若い女性がいるという認識しかなかったが、次第に、たぶんこれはなにか“それらしいもの”であるかもしれないと思うようになっていた。
――それから、「ああ、亡くなったんだ」とも。
もっとも俺にとっては、そこに悪しきものを感じなかったので、お迎えのなかった「彼女」がただそこに取り残されてしまっただけの善良な幽霊であろうという結論に達しただけのことだった。
そりゃあ、幽霊の徐々に透けていくその身体をこの目で見たことは、実を言えば初めてのことではあったが。
ある日、母方の祖母が脚の骨を折った。
洗濯物を取り込む際に、転倒したのが原因だった。医者は、「大腿骨の転子部骨折」と説明。転子部がどこを指しているのか俺にはわからないが、大腿骨くらいは知っている。
祖母は、救急外来を受けるや、すぐに入院した。話によると、手術が必要になるという。ただ、骨折はしているものの意識は変わらずはっきりしていて、一度口を開けばなかなか閉じることのないそのおしゃべりな元気があることが、俺たち家族にとっては救いだった。
祖母が入院してからというもの、俺はほぼ毎日のように病院に通っていた。平日の面会時間は午後三時から。だけど、普通に会社で仕事をしている身としては午後三時にはとうてい面会になど行けるはずもなく、俺が行くのはもうすでに入院患者も夕食を食べ終えた午後七時過ぎ。どの患者のベッドも仕切りのカーテンがひかれていて、ちらちら動くテレビの明かりが漏れていた。音はイヤホンで聴くマナーになっているらしい。
「ばあちゃん」
六人部屋の窓際のベッドでカーテンをひかずに、街の明かりを眺めていた祖母に声をかける。床にカバンを置いた俺を見て、祖母はニカッと笑った。
「おかえり」
「今日の夕飯は何だった?」
昨日と同じように訊くと祖母は、だし巻き玉子とタラの粕漬けと、けんちん汁と……と思い出しながら答える。それからひそひそ話をするように、口元に手を当てて、「全部冷めてたけどね」と小さく不満を言った。
「裕人、毎日来んでもええ。あんたも仕事で大変だろう」
「俺が来たいから来てるの。家帰る途中にあるんだし、別に遠まわりしてるわけじゃないから」
また押し問答で面倒になることを避けて、俺は「そういえば、さっき」と話を変えることにした。
「そこのエレベーターで幽霊見たかもしれない」
よほど真面目な顔をしていたのだろう。俺の顔をまじまじと見た祖母は、一度ぷっと吹き出すと、次の瞬間には大きな声で笑い出した。
しっ、しーっ!
慌てて人差し指を口に当てて黙らせる。他のベッドは皆カーテンがひかれていたが、聞こえないわけでは決してない。
「あんたもよほど疲れてるんだねえ」
馬鹿にされているのかと思えば、そうでもないらしい。祖母は続けてこう言った。
「疲れている時ほど、そういうものが見えるようになるものさ。どんな霊さんだったんだい」
祖母は幽霊のことを「霊さん」と呼ぶ。幼い頃、これを聞いた時は近所か親戚に「レイさん」という女の人がいるのかと思っていた。
「……女の子?」
と、語尾を上げて答えてから、慌てて言い直す。「って言っても、俺よりちょっと年下ってくらいで」
「……おかしいねえ。私がエレベーターに乗った時には、そんな子は見なかったけれど」
「すぐそこにある、ベッドが入る大きい方じゃなくて、ナースステーションの向こうにある小さい方のエレベーターなんだ。さっき乗ったらさ、普通に女の子がいるから、最初幽霊だなんて全然気づかなくて、でもなんか怪しいなって思えてきて。それがさ、上から降りてきたエレベーターだっていうのに、その子一階で降りなかったんだよ。じゃあ、途中で降り忘れたのかと思って、俺が乗った時に『何階ですか?』って訊いて振り返るといなくなってて、だけど扉が閉まったら、なんかちゃんと後ろに乗ってて。で、まだボタンも押してないのに、いつの間にか勝手に六階のボタンが点いてるわけ」
「で、その子は何階で降りたんだい?」
祖母が静かに訊く。俺は、自分の声が大きくなっていたことにようやく気づいて、トーンを少し落とした。
「降りなかったんだ。六階についた時、『どうぞ』って言ったんだけど、曖昧な顔で頷かれただけで。……で、その時になってわかったんだけど、ほら、ばあちゃんが入院した日――おとといか――俺、外来の方で女の人が倒れたって話、しただろう。すぐに救急センターに運ばれたって言った……その人と同じ顔、してたんだ」
「ああ、裕人が一番に見つけたっていう、その女の人かい」
頷くと、祖母は顎に手を当てて何やら考え始めたようだった。そして、じっくりと時間を置いた末に、一言。
「おまえ、その子に好かれちゃったのかねえ」
ええええ……。
文字通り、頭を抱えてしまう。
「幽霊に好かれても全然嬉しくないんだけど」
祖母は、やはりぼんやり考えたまま、「どうだろうねえ」とつぶやいただけだった。
その翌日に行われた祖母の手術は無事に成功した。プレートやらスクリューやらといったもので固定した骨折部は、これからきちんとリハビリを続ければ、また歩けるようになるという。
その日の夕方頃、全身麻酔からようやく目が覚めた祖母は、ロビーで仕事の電話を受けていた俺を呼びつけると、一番にこう命令した。
「裕人、エレベーターで会ったっていう子、本当に倒れた子と間違いないのか、確かめてみなさい。その子の話をよく聞くんだよ」
ええ……マジで。
実を言えば、俺は昨日あんなことがあってからというもの、今日の手術の付き添いには例の小さい方のエレベーターを避けていた。かと言い、玄関口のある南棟の、迷路のように入り組んだ階段を東棟の六階までどう昇ったらいいのかもわからず、また『業務用』、『一般の方はご遠慮ください』と貼られた大きい方のエレベーターを使うわけにもいかず、さてどうしたものかうろうろ迷っていたのだ。結局、奥まった東棟の階段を見つけ、そこを使うことにしたのだが、それでも断じて小さい方のエレベーターは使うまいと決めていた。
「どうして」
あからさまに嫌だと顔に出す。祖母ははっきりとはその理由を答えてくれなかった。
「おまえなら、その子を助けてやれるかもしれないからだよ」
幽霊の成仏に力を貸すなんて、別に霊媒師とか心霊術師とか、そんな怪しい仕事をしているわけではない。ごく一般的な会社勤めだ。
俺が幽霊を助ける? 無理だろう、そんなこと。
と言ったところで、祖母の
母も父も、なんのことやらさっぱり、といった顔をしていたが、祖母の視線は俺だけに向いていた。
そして、ついには俺も折れるしかなかったのだ。
一階の売店で、ミネラルウォーターを買い、自然と吹いてくる汗を拭うと、意を決して東棟の小さいエレベーターに乗り込む。
――いた。
例の女性が、今日はボタンの前に立っていた。他に乗客はいない。
「何階まで行かれますか?」
あ、話せるんだ。
初めに思ったのはそんなことだった。そういえば、「その子の話をよく聞け」と言った祖母は初めからわかっていたような口ぶりだった。
これと言って高くもなく、低すぎもしない声。正直、この声は嫌いじゃない。
さて、何と答えたものか。
ぶーんと頭上で空調の音がする。業務用のエレベーターより製造年が古いのだろう。音がするわりには、たいして冷房は効いていないような気がした。
覚悟はして乗りこんだつもりだったが、正直言うと、彼女にはあまり恐怖は感じなかった。幽霊だと思えば、背筋は少しひやりとしたが、昨日見たとおり、やはり普通の“生きた”女性と変わらない。悪意あるものとは違う気がする。
とりあえず、この人がどこで降りるのか、それだけは確認しないと。そう思って声に出したのは、「何階まででも」というわけのわからない返答だった。だが、何か収穫を得ないと、病室に戻った途端に祖母に叱られてしまうのだ。
幽霊の彼女は、明らかに疑った目で振り向いた。
あ、まずい。直感的に身の危険を感じて、慌てて言い直す。
「あなたが行くところまでお願いします」
そんなことはしないだろうとわかっていても、こんなことで呪われたらたまったものじゃない、とも思う。
エレベーターの扉が閉まる。この扉がもう一度開くまで、俺は果たして生きているだろうか。もし、そうでなかったら。――だとしたら、恨むよ、ばあちゃん。
ボタンは六階で点灯していた。昨日と同じだった。もしかして、この幽霊は六階に用があったのか。
ところが、いざエレベーターが六階に着くと、扉が開く前にまるで煙のように彼女は消えてしまったのだ。
「――だあああああっ!」
事務所の自分の机にカバンを投げ出して、その上にうつ伏せる。
俺には、無理だっ! 生きていた彼女を助けることもできなかった俺が、死んだ彼女を助けられるわけがないだろう!
「朝からなんだ、篠宮」
コーヒー片手に声をかけてきた先輩に、俺は首だけ回して訊ねる。
「……貝沼さん、幽霊って見たことあります?」
「なになに、何の話?」
椅子をガラガラと寄せてきて、事務員の緑川さんまで興味津々といった顔。
「俺は霊感とかないからなあ。緑川さんは、あるんじゃないの?」
と貝沼先輩。
「何言ってんの、ないわよー。まあ、心霊番組とかちょー好きだけど? で、何の話?」
「……幽霊って、何で幽霊になるんですかね?」
「そりゃあ、あれだろ。この世に未練があるから、とか?」
「お岩さんはほら、旦那恨んで幽霊になるじゃない。皿屋敷のお菊さんも、『うらめしやー、鉄山どーのー』って、いちまーい、にまーい、さんまーい、四枚五枚六枚七枚、十七、十八枚って」
もう何言ってんだ、この人は。
「二日分読んで明日の晩お休みするんでしょう。それ落語」
「あら、よくおわかりで」
「へえ、そんな話があるのか」
「そうよ。あたし、落語の皿屋敷大好きなんだから」
あああ、この人たちだと話にならない……。顔を伏せると、先輩は俺の肩を叩いて、「で、なんだ突然」。
「もういいですよ……」
言うと、緑川さんが少し真面目な口調になって答えた。
「恨みとか、やり残したこととか、何かあるから幽霊になっちゃうんじゃないの? ま、でもそんなこと言ってたらこの世界、幽霊だらけになっちゃうけどねー。あたしは霊感なくて良かったわ! シノ君、ドンマイ」
伸びをするようにうんと両手を上げて、緑川さんはようやく立ち上がったPCに向かっていった。
残った貝沼先輩は、腰に左手をあて、コーヒーを一口飲むと、心配そうに俺をうかがう。
「……お祖母さん、そんなに悪かったのか?」
「へ? ああ、違いますよ。それとこれとはまた別で。おかげさまで、祖母の手術は無事に成功したようです」
「なら良かったじゃないか」
はあ、まあ。と答えてその空気をやり過ごす。
――それはそうなんですけどね。
仕事終わり、祖母の面会をするついでに、病院のエレベーターへ通いつめること数日。エレベーターの幽霊について、わかったことがいくつかある。
どうも、彼女は自分が幽霊だと気づいていないらしいのだ。むしろその逆で、彼女自身は、俺を幽霊だと思っているらしい。しかも、子どもの幽霊ときた。
ようやく普通に会話ができるまでに幽霊とコミュニケーションを積んだ俺は、その日、彼女と顔を合わせた途端に『エレベーター・ボーイ』と呼ばれたことで、「ああ、なるほど」と妙に合点がいった。
どうにも態度が少しおかしいと思っていた。少なくとも、年上の男に対するものではないだろう、と。
というのも、この病院で働いている(という設定らしい)彼女には、俺が幽霊少年に見えるらしいのだ。
それから、わかったことがもう一つ。
「東棟の四階だと思うんだ」
その日、面会に来た俺は、さっそく祖母に報告した。
手術を終え、術後の経過も良好だという祖母は、しかし少し元気がないように見えた。今までは何でも一人でやってきた人だから、自由に動けない身体がもどかしいのだろう。手術前は、ベッドにいてもできるだけ上半身を起こしていた祖母だったが、昨日、今日と横になったままだ。それでも母に聞けば、昼間は血栓ができないようにと、フットポンプと呼ばれるもので、足のマッサージをしている元気はあるという。
「たぶん、四階に何かあると思う」
幽霊の彼女についてそう考えたのは、エレベーターで現在階を示すボタンが四階を灯した時、必ずといっていいほど彼女はその赤い光を見つめるからだった。それから、その時の表情。
そう祖母に話してから、俺は彼女のそんな些細な表情が読み取れるほど近くなったんだな、と内心で苦笑した。
納得したように頷いた祖母は、裕人、と改まったように俺を見上げた。
「看護師さんから聞いたんだ。裕人がこの間助けた女の子は、今、内科で入院しているんだってね」
え?
だったら、俺が会っているあの幽霊は、あの時の彼女とは違うってことか。
「……そっくりだと思ったんだけどな」
ひとりごとで呟くと、祖母はそうじゃない、と続ける。
「その子は、あれから一度も目を覚ましていないそうだ。入院している部屋はここの四階。裕人、東の四階だよ」
「え、だって入院中なんでしょう? だったら生きてる――ごめん、ばあちゃん、わかるように話して」
ああもう。あんたはほんとに、お母さんにそっくりだよ、まったく。
祖母は俺の額に手を伸ばして、ぺしんと叩いた。
「エレベーターにいるっていう女の子は、今四階で入院している子なんだよ。その子はまだ死んじゃあいないんだ。生きているんだよ。幽霊になる一歩手前ともいえる」
幽霊になる一歩手前? あの子が?
「今は個人情報やらなんやらで名前まで教えてくれないからねえ。看護師さん困らせても悪いし、その子の名前は訊かなかったよ」
と祖母。
いつもは俺が来る前には家に帰る母が、その日はまだ病室にいた。祖母の勧めもあって、俺が母と一緒に四階の病棟へ面会を装って訪れれば、三つある重症部屋のネームプレートには女性の名前は一つしかなかった。
『古崎かなえ 様』
面会謝絶と書かれた扉はきっちり閉められていて、廊下からでは中の様子はうかがえない。けれど、祖母の言う女性が入院しているのはこの病室に間違いない。
だけど、俺に何ができるっていうんだ。
帰りのエレベーターで、再び彼女と会った。途端にふくれっ面になる彼女を目にして、そういえば、数時間前に軽く喧嘩したばかりだったと思い出す。
――私、今日は階段使うんだから! 君とはもう会いたくありません!
ついさっき言ったばかりの言葉なのに。彼女と俺は、少しばかり時間の流れが違うらしい。
「もう降参?」
と笑えば、顔をつんと背けて「うるさい」と返ってきた。
可愛い子だな、と俺はどうしようもなく泣きたくなってきた。
コードブルー、コードブルー
リハビリ室、お願いします
あの日の悪夢がまた襲いかかってくるなんて、俺は思ってもみなかった。それがまさか、大切な祖母に対してなど。
あの日の召集場所は、救急治療室だった。『古崎かなえ』が倒れたのが、救急センターの近くだったからだ。
今日、召集されたのは、リハビリ室だったという。
仕事中に母から電話が入ったので、何か祖母についてよくないことがあったのだと直感した。急いで電話を取ると、祖母がリハビリを始めた途端に倒れてしまったこと、すぐに緊急手術があ始まり、今は手術中だということを聞かされた。
半休を取って病院へ直行する。
小さいエレベーターには、ちょうど車イスの老人が乗り込んでいる途中で、俺が入る隙間は到底なかったため、大きいエレベーターを使うことにした。
六階のナースステーションに声をかけ、いまだ祖母が手術中だということを知る。そこから再びエレベーターに乗り、三階の手術室まで降りると、そこに母と父の姿を見つけた。
『深部静脈血栓症』からなる『肺血栓塞栓症』。
要するに、原因は俗にエコノミークラス症候群と呼ばれるものである。脚の静脈に出来た血の固まりが、リハビリで身体を動かしたことにより、急激に血管を流れ、肺動脈を塞いでしまう。術後の患者は動けない分、特にそれに注意しなくてはならず、祖母も、この予防のためにフットポンプを使用していた。それでも、防げなかったのだ。
手術は長時間にも及んだ。呼吸困難に陥った祖母の心臓は、コードブルーがかかった頃にはすでに止まっていたという。
手術が終わると、どうにか息を吹き返した祖母は、しかし意識は戻らないまま、整形外科から内科の病棟へ転棟となった。場所は東棟四階、重症部屋だ。
「裕人、ちょっと外の空気吸ってきなさい。ひどい顔色よ」
母に言われるがままに、ロビーを出る。祖母の病室は、新しく変わった内科の担当医が診察中のため、まだ入ることはできずにいた。
「……部屋、落ち着いたら呼んで」
そう残して、エレベーターに乗り込む。
そこに待っていたのは、俺と同じく蒼い顔をした『古崎かなえ』の幽霊だった。
彼女は、今日かかったコードブルーの話を俺にした。その様子がすっかり動転しているようだったので、同じく彼女もコードブルーの患者として何か触れるものがあったのかもしれない。彼女にしては珍しく、閉じることのない口。その口が放った一言に、俺は一気に怒りがこみ上げてきた。
彼女は俺に、こう言ったのだ。
「まるでコードブルーって、人の死を呼ぶ呪文みたい――」
ふざけるなふざけるなふざけるな――! そんなこと、冗談じゃない!
「あれは、人の命を助ける信号だ!」
その時、なぜか扉が開いた。押してもいないのに、エレベーターは一階に着いたのだ。暗い廊下には誰もいない。もう間もなく、面会終了時刻の午後八時を回ろうとしていた。
俺が怒鳴ったせいだろう。少し怯えた様子の彼女は、今にもその姿を消してしまいそうだった。
――おまえなら、その子を助けてやれるかもしれないからだよ。
急に、祖母の言葉を思い出す。
俺なら、彼女を助けてやれるかもしれない。祖母を助ける術を俺は持っていないけれど、今ここにいる彼女なら、助けてやれるかもしれない。
……ねぇ、ばあちゃん。そういうことだろう?
祖母の言わんとすることが、今になってようやくわかった気がした。
彼女の姿が消えてしまう前に、ひとつ深呼吸をすると、俺は静かにこう告げる。
「明日、待ってるから」
まず、俺がやるべきことは、彼女が四階で入院中の『古崎かなえ』であるかどうかを確実にすることだった。とはいえ、それは簡単なことだった。『古崎かなえ』とついたプレートがある重症部屋は祖母が眠る部屋のすぐ隣で、重症部屋の壁は廊下に面した部分を除き、ナースステーションから確認できるように、ガラス張りになっている。そこに目隠し代わりに、申し訳程度、白いカーテンがひかれるのみだった。
そのカーテンの隙間をちょっと覗けば、部屋に眠るのは確かに見慣れた、エレベーターの彼女の顔だった。白い顔で、静かに目を閉じている。あのやわく閉じた口が、俺に毎日のように生意気を言ってくるとは、どう信じたものだろう。
彼女の正体を確認すると、次に俺がやることは、彼女の家族と接点を持つことだった。俺が『面会謝絶』と書かれた『古崎かなえ』の病室を訪れても、怪しまれないようにしなくてはならない。
難しいのはそこだった。俺は、彼女がエレベーターで“幽霊ごっこ”をやっていることの他に、彼女のことを何も知らなかったのだ。
友人と称するにしても、異性ともなると変に疑われてしまうかもしれない。職場の同僚だということにしても、彼女が果たしてどんな仕事に就いているのか、それとももしやまだ学生なのか、俺にはまったくわからない。
祖母から大方事情を聞いてた母に相談すれば、「それは正直に話すほかないわね」と言われてしまった。
その翌日。
彼女の家族に声をかけるチャンスはいくらでもあった。何しろ、病室が隣同士なのだ。廊下ですれ違うこともあれば、ロビーで向かいに座っていることもある。
ただ、いくら職場で日頃コミュニケーション力を鍛えていても、プライベートとなると、しかもそれが一般には理解されないだろう事案であると、どうしても声はかけにくくなる。そこを助けてくれたのは、やはり母だった。
――こんにちは。
――ここは涼しくて良いですね。外来の方は行かれました? あそこは冷房がかかっていないんじゃないかってくらいに暑くて暑くて。
世間話をするように母はいとも簡単に、古崎さん(たぶん彼女の母親)に声をかけてくれたのだ。
「息子がね、少し古崎さんに聞いていただきたい話があるというので、今お時間構いませんか」
そうして振ってくれたおかげで、俺は少しは落ち着いて話を進めることができた。
「はじめまして――僕、先日かなえさんが倒れられた時に、ちょうどその場に居合わせた者なのですが……」
その一言で古崎さんは気づいてくれたらしい。驚いたように口元に手をやると、途端に涙を浮かべて応えた。
「ああ――娘を見つけてくださった方ですね……! お礼もできずに、申し訳ございませんでした。看護師さんから、若い男性が大きな声で呼んでくれたのだと聞いておりましたが……」
「いえ、あの、お礼とか、そのためにお話ししたかったわけではないんです。実を言うと、信じていただけないかもしれないのですが、もしかしたら、僕にかなえさんの意識を取り戻せるかもしれない、と思いまして」
古崎さんの目は見る間に困惑したものに変わっていった。ああ、普通はそうだよな。俺は途端にしどろもどろになる。
「――この子がですね、病院内で迷っている様子のお嬢さんを見かけたと言いましてね。その姿を見て、もうすっかり元気になったものとばかり思っていたようなんですが、ほら、うちの母が古崎さんのお隣に移動になったものでしょう。それで、まだお嬢さんの意識が戻っていないってことに気づきまして。それでこの子が、古崎さんとお話しがしたいと」
母さん、ナイスフォロー!
「かなえが、迷っていた……?」
震えたように古崎さんがつぶやく。ええ、と俺は答える。あとは、俺が伝えなくてはいけないことだ。
「見間違いかとも考えたのですが、あれは確かにかなえさんだったかと思います。もしかしたら、もう僕には見つけられないかもしれないのですが、もし、また見かけるようなことがありましたら、その時は僕から声をかけてみようかと思いまして。それが果たせるようでしたら、お隣の病室にお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか」
彼女がひどく取り乱すようなことがなくて、本当に良かったと思う。そうでなければ、俺も母も立派な不審者だ。
過度に期待を持たせるのも、それがうまくいかなかった時が一番酷になる。とはいえ、まるで信じてもらえないのも、やる方の俺としては辛い。けれど「もし、見かけた時は、よろしくお願いします」と頭を下げた古崎さんに、俺たちを怪しむ素振りは見られなかった。
だと言うのに、勝負をかけた肝心の午後一時。『古崎かなえ』は一度も姿を現さなかった。
今日は休みの日だったため、面会時間も午後一時からと平日よりも早かった。祖母はいまだ意識が戻らず、人工呼吸の挿管はされたまま。俺も古崎家も重症患者の家族だったため、決められた面会時間に関係なく病棟を出歩くことができたものの、それを知る由もないだろうかなえさんには、面会時間になってから会えるだろうと踏んでいた。
ところが、一時から辛抱強くエレベーター内やその扉で待ち続けていたものの、昨日怒鳴ったのが悪かったのか、結局面会終了まで彼女は来てくれなかったのだ。
俺がどんな思いで待っていたんだと、誰もいないエレベーターに向けて文句の一つも言いたくなるが、こればかりはどうしようもない。
しん、と静まり返ったロビーで彼女宛てに手紙を書くと、どうか気づいてくれますようにと願いを込めて、それをエレベーター内の床に置き、家に帰ることにした。ありがたいことに、明日は公休だった。
その翌朝、浅い意識で夢を見て、それから目が覚めた。
夢には、あの日に俺が見つけたかなえさんが現れた。耳に残るコードブルーの放送。運ばれた彼女の身体が救急センターの向こうへ行ってしまったというのに、俺の傍にはなぜかぷかぷかと宙を漂う彼女の残像があり、俺がその場を後にして、祖母が入院したという病棟に向かうべくエレベーターを探せば、慌てたように追いかける。エレベーターの扉は閉まり、そこに乗り込めなかった彼女を思う。
ああ、あの子は俺を捜していたんだ――と。
手紙に書いた、約束の午後三時。俺はエレベーターに一人で乗り込む。来るか、来ないか。どんなに時間が遅くなっても、今日はずっとエレベーターで彼女を待ち続けるつもりだった。
上がって、降りて、また上がって。二巡して、三巡目。六階に到着した時、彼女はようやく姿を現した。
「……ねえ、約束どおりちゃんと来たよ」
こわごわかけてきたその小さな声に、俺は天井を仰ぐ。……ああ良かった、来てくれた。
あとはもう、彼女を彼女の病室に連れていくだけだった。
ちゃんとうまくできるだろうか。もし、とんでもないことになったら。
そんな不安が彼女に伝わったのかもしれない。大丈夫? と声をかけられて、俺はすっと手を伸ばす。繋いでいないと、置いていってしまうかもしれない。エレベーターが扉を閉めて、彼女を再び現実から切り離してしまうかもしれない。
彼女の手は確かに透けて見えていたけど、俺にはしっかりそのやわらかな感触があった。ぎゅっと握って、外に出る。置いていかれていないだろうか。怖くなって、何度も何度も確認した。頼む、頼むよ。俺は、この子を救いたい。
ようやくたどり着いた病室の、扉をすっと手で引くと、戸惑っていた彼女はゆっくり中に入っていった。
「――裕人」
俺の名前を知りたがっていた彼女の耳に、そっとささやく。別に俺のことは忘れてくれていい。だけど、待ってる家族のことは、忘れないでほしい。
子どもの頃から、霊感はあるほうだと思ってきた。
それは、母方の祖母譲りの力だと、最近になって初めて知った。
祖母は、長い昏睡状態から意識を取り戻した時、開口一番、俺を見てかすれた声で「よくやった、裕人」と褒めてくれた。
なんで知ってるの、と泣きながら笑えば、「見くびるんじゃないよ、なんでもお見通しさ」と祖母はニカッと歯を見せた。
その頃には、すでに重症部屋から一般病室に移っていたかなえさんが、「おばあちゃんに会わせてよ」と俺にしつこくせがんでいた。「看護師さんがオッケー出したらね」と、のらりくらりかわしていたが、とうとう彼女は俺に黙って祖母の病室を訪れるようになっていた。
「裕人ときたら、昔っからぼけーっとしてるからねえ」
三人でいる時は、必ずと言っていいほど、俺の嬉しくない話ばかりだ。
「裕人君は、おばあちゃんの前だと“俺”って言うよね。私の前でも俺でいいのに」
ああ、もう、痛い。ほんとに痛い。すごく今、今日は事務所に残ってくれば良かったと思ってる(わざわざ引き継いでくれた先輩には悪いが)。
かなえさんは今やすっかり顔も赤みを帯びて、普通に病棟内を歩けるようにまで治っていた。病衣じゃなければ、外を出歩く女の子と変わらない。退院するのももうじきだろう。
「もう面会時間終わりだから――帰る」
逃げるようにしてそう言うと、ひょこひょこと後をついてきたかなえさんが、「裕人君」と声をかけてきた。
「いつも、ありがとうございます?」
そうして丸めた紙ゴミを、俺の手の中に握らせる。
「なに、その疑問形。というか、まてまて、部屋にゴミ箱あるでしょう」
いいからいいから。じゃあね、おやすみなさい。
俺をエレベーターに押し込んで、彼女は手を振る。
動く箱のなかでふと、手の中のゴミを広げれば、そこにはこう書かれていた。
エレベーター・ボーイくん
残業ばかりしないで、早くおうちに帰りたまえよ。
お仕事、あまり無理しないでください。
まいったな。
顔に手をやり、にやけ笑いを堪える。退院したら、どこに誘おう。このままフェードアウトするつもりはもちろんない。それだけ、俺にとって手放したくない存在になっている。
――おまえ、その子に好かれちゃったのかねえ。
いつかの祖母の一言。今なら、それもありがたいと思う。
ただもちろん、それは彼女に限ることであって、幽霊全般に好かれるなんて真似は、到底勘弁願いたいところだけど……。
おわり
エレベーター・ボーイ 春野 悠 @harunoyuu
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