第4話 亡霊/3

 天井の高い広い地下室に、ノフィは両手を縛られ転がされていた。ヴェイルがかつて男に仕掛けられた沈黙術を施され、魔術の行使はできない。

 明かりはなく、目が慣れてからノフィは辺りを見回した。古ぼけた実験用具の残骸や瓦礫が多く、埃っぽい。ずいぶん昔に放棄された魔術の実験場のようだが、なんと床を走る霊脈は生きている。廃墟で水が使えるようなもので、驚いたことに途中で詰まりを起こして凝っているなどということもない。

 男が『モルダナ』を使うつもりなら絶好の環境である。ノフィは最後に男に視線を移した——その欠けた指の左手には、例の魔術書がある。

 内容までは知らないが、禁書として封じられていたものだ。それを男がどう使うにせよ、良い結果にならないのは目に見えている。エメドレア人の体を使い、イシュリア人のミルテは見逃したように、術に巻き込む人間の選別をしているところからして、ある種の執念を感じさせる。

 すぐ思いつくのは、『イシュリア人による報復』だ。先の北方戦争では血みどろの戦いを繰り広げたとあって、双方良い感情を持ってはいない。どちらが先に仕掛けたことかなどは、復讐者には瑣末なことだ。

 男は無言で魔術書をっていたが、やがてノフィの視線に気づいて顔を上げた。

「そう睨むな。君とは出来るだけ仲良くしたい。できれば、君の先生ともな」

 何を今更、とノフィは目をすがめた。両手を縛り上げ声を封じ、冷たい床に放り投げるということを、少なくともノフィは仲良くしたいという相手にはしない。男の言葉は単に主導権が誰にあるかを示したに過ぎない。ノフィは歯噛みした。

 男は本を閉じ、ノフィへと歩み寄った。死してなお、損壊した体を使われている兄のことを思うと、涙が滲む。男はそんなノフィの心情など露知らず、語り始めた。

「ヴェイル=アールダインは優れた才覚と繊細な感性の持ち主だ。地と水の精霊に愛され、幽寂の星を抱き、深智の魔術師とも言われた。しかし彼は、深淵を紐解きながらそれを封じた……」

 ノフィは目を瞬いた。この男は、ヴェイルの過去を知っている。ノフィはヴェイルのことを、遠い地からやってきた魔術師である、としか聞かされていない。どこの生まれか、家族はいるのか、ということは誰に問うても秘されていた。

 深淵を紐解きながら、それを封じた。男の言葉は抽象的で分かりにくかったが、ヴェイルが魔術の研究の末に何かを見つけたということであろう。しかしヴェイルはそれを封じた。男は残念そうに肩を竦めた。

「とんでもないことだ。真理は何よりも重く、価値ある知だというのに、彼はその扉の前まで来て、おののいて逃げ出したのだ。しかし、ようやく見つけることができた」

 男は腕を軽く広げて、恍惚とした表情で続ける。

「〈あのお方〉は幽世から解き放たれる。それに、彼は立ち会うべきだ。〈あのお方〉を見出した魔術師として」

 ——〈あのお方〉?

 ヴェイルが見出し、封じたそれを、男はエメドレアの人々を巻き込んで解放しようとしている。点と点が繋がり、線となる。男は思考するノフィに、ゆっくりと手を差し伸べた。

「君も彼の弟子ならば……共に来ることを許そう。は寛大で、友愛を重んじる」

 ノフィは男を睨みつけた。この男とその仲間を、ヴェイルに引き合わせてはならない。得体の知れない者たちに、彼の平穏は壊させない。ノフィはぎゅっと両手を握り込んだ。

 男はノフィの視線を受けて、差し出した手を下ろした。

「そうか……ならば仕方ない。来たる時代の、礎となってもらおう」

 そして懐から短剣を引き抜き、ノフィの首に向かって振り下ろした。その切っ先が細い首を切り裂く瞬間、ノフィは

「『鉄は去れ』!」

 男が目を見開く。短剣は男の手を離れ、まるで見えない壁に弾かれたように、勢いよく後方へと打ち上げられた。ノフィは袖から引き出したナイフで手首を縛る縄を切ると、素早く立ち上がり、ポケットから取り出した石を男に向かって投げつけた。

 ただの石ではない。魔術の触媒として直接呪文を刻み込んだものだ。ノフィが得意とする鉱石魔術であり、ヴェイルから護身用にと教わったものである。石は男の眼前で弾け、光を撒き散らし、衝撃を与える。

「魔術師との戦い方は心得ています」

 突然のことに対応しきれず、そのまま後ろへ吹き飛んだ男へ、ノフィは冷静に告げた。そして、先ほどまで呪文で縛られていた喉を軽くさする。

「あなたが先生に沈黙術を使ったと聞いて、あらかじめ対策しておいたんです。接触による呪詛への抵抗……時間はかかりますが、あなたが長々と話してくれたお陰で無事解呪できました」

 決して簡単なことではない。簡単なことではないが、ヴェイル=アールダインの一番弟子、ノフィエリカ=ベルジュはそれをこなす。ノフィはふうと息をついて、スカートについた埃を払った。

「あなたは先生の過去を知っているようですね。気になりますが……先生はあなた方と共には歩みません。なぜなら、」

 ノフィは背筋を伸ばし、片手を胸の前に当て、自信に満ちた表情で告げた。

「先生は私と一緒になるのですから」

 男が立ち上がる。それと同時に、ノフィは太ももにくくりつけたホルダーから短剣を引き抜いた。男が転移術でノフィを捕えようとする直前に、ノフィはその場から跳びのき、ナイフを投擲する。

 ノフィの代わりに男の手元に引き寄せられた短剣は、過たず男の手のひらに深く突き刺さった。男は痛みに仰け反り、うめき声をあげる。

「自分の術にはまるご感想は?」

 そう、何度も同じ手にはかからない。ノフィは懐から、術を施したばかりの指輪を取り出し、指にはめた。自分用ではないために少々大きいが、指を折り込むことで手を振りぬいても抜け落ちてしまわないようにする。

 呪文をあらかじめ刻み、魔術の触媒にする、あるいは励起させた瞬間に力を解放する、それらの物品を魔術兵装という。多くは使い切りで用意にも時間はかかるが、数を揃えておけば魔術戦において圧倒的優位を誇ることができる。己の肉体的な非力を補うため、ノフィは多くの魔術兵装を自作し、持ち歩いていた。それを、ここで男を倒すためだけに惜しみなく放出する。

「……お前は実の兄の体を傷つけることに躊躇いがないのか?」

「あなたは私の肉親の体を弄んで私の怒りを買わないと思っているのですか?」

 男の問いに、ノフィは冷ややかに答えた。そして、指輪を嵌めた手でゆるりと宙を切る。

「『火よ、炎よ、怒りの猛火よ』」

 ノフィの歌うような詠唱を追って、男も手をかざし、叫ぶ。

「『水よ、氷よ、嘆きの渦潮よ』」

「『逆巻け』!」

 火と水の霊素が一点に集まり、意思ある炎と水流として具現化する。それは二人の間でせめぎ合い、ねじれ、そして霧散した。かたや火の粉を、かたや雫を払い、再び睨み合う。

「見事だ。ベルジュ家の魔術師は優秀だな……では、これはどうかな」

 男は不気味に笑うと、数歩後ずさり、そして自らの右腕を強引に引っ張った。肉がちぎれる、耳を塞ぎたくなるような音と共に、男の体からその右腕が離れた。流血はない。痛みもないのか、男は口の端を上向きに歪めたまま、それを放り出すとぶつぶつと詠唱を始めた。

「何を……」

 本能的に恐怖を覚えたノフィは、それを中断させようと霊素の嚆矢を形作る。勢いよく彼女の指先から放たれた矢は、しかし、男の腕を食らうように床から滲み出てきた物体に弾かれた。

 それは、巨大で、いくつもの脚や腕のようなものを持った、名状しがたい生き物だった。表皮は泥に似た流体で覆われ、ぎょろりとした目玉がそこかしこについている。

「……っ、」

 右腕を供物に、異界の異形を喚び出したのだ。鎌首をもたげるそれに睨まれ、ノフィは足を竦ませた。

「君一人を嬲るには十分だろう」

 男の哄笑が地下室に響き渡る。ノフィは悲鳴をこらえ、きつく口を引きむすんでを睨み返した。




 案内された天文科の観測室の中心には、大きな天球儀が鎮座していた。四大の霊素が光の球となってその周囲を巡り、輪を動かしている。リズは一冊の本を手に絶えず詠唱しながら、魔術兵装〈十天儀〉の起動状態を保っていた。

 天の霊素の巡りを観測するために、古くから使われてきたものだというそれを用いて、今回は地にある霊素を観測する。ヴェイルが〈十天儀〉の側に立ち、目を閉じてから一時間が経とうとしていた。

 濁流の中から小石を探すようなことを、彼は『大丈夫』という一言で済ませてしまう。フレイセルははらはらしながらそれを見守っていた。かなり集中しているのだろう、汗が顎を伝い落ちて、床に落ちる。その体が突然ぐらりと傾いて、フレイセルは慌てて駆け寄った。

「先生!」

 くずおれた体を抱き上げる。顔色は悪く、息は浅い。ヴェイルは閉じた目をうっすら開きながら、見つけた、と呟いた。それに、リズは詠唱をやめ、本を机の上に放り出してヴェイルのそばに跪いた。

「どこだ? ヴェイルくん。街の中か?」

「西区にある、考古科ヴィロスの研究施設の……でも、あそこは、閉鎖されましたよね……」

 絶え絶えに話すヴェイルに、リズは口元に手を当て考え込んだ。そして忌々しげに舌を打つ。

「まさか霊脈の後始末を怠ったのではあるまいな」

「どういうことです?」

「魔術実験場には、術の成功率や安定性を高めるために、あらかじめ人為的に太い霊脈を引いておくんだ。田に水を引くようなものだな。しかしもし後片付けがずさんなら……よからぬ輩が利用しないとも限らない」

 フレイセルの疑問に早口に答え、リズは立ち上がると手を打った。

「お喋りは後だ。君たちはすぐに現場に向かってもらう。メイエル中佐、指揮をまかせる。貸し出せる魔術兵装は多くないが、許可証は後で私がまとめて提出しよう。私は学科長と議会の尻を蹴らねばならん」

 メイエル中佐が敬礼して足早に部屋を出ていくのを、フィルが慌てて追う。フレイセルはひとまずヴェイルを休ませようと、ぐったりとした体を備え付けの長椅子まで運んだ。そして慎重にヴェイルを降ろし、汗で額に張り付いた前髪をかき分けた。

「……先生。彼女のことは我々に任せてください。しっかり、休んでくださいね」

 ヴェイルが返事をする前に、フレイセルは立ち上がり、駆け出した。ヴェイルは声を上げようとして、そんな体力も残っていないことに気がつき、脱力する。そこに、リズが通りがかりざまに毛布を投げつけた。

「クライフ教授……」

「あとは我々の仕事だ、ヴェイルくん。そこで寝ていろ」

 靴音を響かせてリズが退室し、ヴェイルは一人取り残された。ゆっくりと、なんとか身を起こし、 大きく息をついて、時計を見上げる。針は真夜中を示していた。

 ラドバウト教授の働きかけで、群衆も家に帰り着く頃なのか、ヴェイルを苦しめる霊波は落ち着きつつある。

「私は……彼女の先生です」

 そうひとりごち、ヴェイルは壁に手をついて立ち上がり、歩き始めた。

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